「ガス室」裁判 原告本人陳述書 その8

「連載計画」否定の大嘘 ― 「噂の真相」情報の数々


五、被告・本多勝一の準備書面(二)への
新旧の証拠に基づく具体的な反論

1、「連載計画」否定の大嘘を暴く「噂の真相」情報の数々

 被告・本多勝一が一九九七(平9)七月二二日付け準備書面(一)において「『連載計画』なるものが、被告会社編集部内において議論されたことはない」と強弁している点については、すでに、被告・本多勝一が肉筆で朝日新聞社専用の原稿用紙に記して私宛てに送信したファックス通信(甲第20号証)を提出し、薄れ掛かった文字の確認を求め、本陳述書でもすでに前後の詳しい事情を記したところです。

 先に記したような被告・本多勝一の「連載」に関する焦り方は、また、実に極端な非倫理的様相を呈していたのであって、その一端は、『噂の真相』(98・1)の投書欄(甲第35号証の1)に活字化されています。

 投書者は、『マルコポーロ』(95・2)掲載の記事「ナチ『ガス室』はなかった」(甲第19号証)を執筆した神経内科医師、西岡昌紀(本件で証人申請)であり、ここでまず指摘しておきたいのは、次の部分です。

1「本多勝一氏が、『マルコポーロ』廃刊事件の数か月前、私が開いていた研究会を訪れ、私の話を好意的(と私は感じた)に聞いてくれた事はとても嬉しかった」

2「木村愛二氏に、本多氏が『週刊金曜日』誌上での連載を依頼したと聞いた時には、『さすがは大ジャーナリストだな』と心の底から感服した」

3「木村愛二氏によると、本多氏は、私が『マルコポーロ』に発表した記事(「ナチ『ガス室』はなかった」)を『マルコポーロ』にではなく、氏の雑誌『週刊金曜日』に掲載できないかと、木村氏に打診すらしていたと言うのである」

 被告・本多勝一は、伝えられるところでは、この投書を見て「激怒」しました。その「激怒」を証明するのは、『噂の真相』(98・3)個人名連載コラム「悪口雑言罵詈讒謗講座」「第36回・論争について(その一)」(甲第35号証の3)の中での、次のような口汚ない矛盾に満ちた罵倒振りです。

「私は右の西岡氏と『論争』する気は全くありません。対等に論争するに値しないのと、ナチのホロコースト問題について論争する立場に私はないからです。もし西岡氏レベルの人々と論争しはじめたら量的に際限のないものになり、もはや日没のせまった限りある人生を全く無駄に浪費することになるからです」

 その下りの後に被告・本多勝一は、「西岡氏が『マルコポーロ』に発表した記事を、その前に『週刊金曜日』に掲載しようとした事実はありません」と強弁しています。

 ところが、被告・本多勝一は、右引用部分の内、1研究会(私も同席)2「連載を依頼」(私以外の情報源はありえない)には全く触れず、さらには3(同前)についても、「木村愛二氏によると」と明記されているように、右情報が私から出ていることが明らかであるにもかかわらず、私の名を全く出そうとしないのです。2,3を否定するのなら、なぜ、私の名前を明記して「嘘付き」だと非難しないのでしょうか。できないのでしょうか。これでは、公開論争を恐れる「腰抜け」と言うしかありません。

 当時の事実を、より正確に再現してみましょう。

 まず、前述のように、被告・本多勝一は、私が見せた草稿を押し頂き、唐突に連載契約を申し入れるという焦りを露呈しました。

 その後の会話で、私は、被告・本多勝一が「見た」と言った『噂の真相』(94・9)の記事、「映画『シンドラーのリスト』が訴えた?ホロコースト神話、への重大疑惑」(甲第4号証)に関して、被告・本多勝一が当時の編集長だった『週刊金曜日』編集部と企画を相談したが断られたと話しました。すると被告・本多勝一は目を剥いて、「誰と話したのですか」と問い返してきました。私が、ある編集部員の名(仮名をAとする)を告げると、「ううん、Aか」と実に暗い顔をしました。その後の情報によると、被告・本多勝一はAには逆らえない関係にあるらしいのです。さらに私が、西岡も「ホロコースト見直し論に関する資料と概略説明を『週刊金曜日』編集部に送ったはずだと話し、その西岡の原稿が、『マルコポーロ』でなかなか掲載の運びにならないという状況を説明したところ、被告・本多勝一は即座に、「その原稿、内に貰えないかな」と言ったのです。

(なお、この発言の日時と場所について、甲第33号証の9では、被告・本多勝一が参加したホロコースト研究会の席上としていますが、その方は記憶違いでした)。

 この被告・本多勝一の発言には、私も、いささか驚きました。余所で滞っている原稿を「貰えないかな」などと言うのは、前述のような極度の焦りがあるにしても、余りにもみっともなさすぎます。しかも、一方では、同じ趣旨の私の草稿を、早く連載させてくれと懇望しているのです。私に対しても失礼な話になるではありませんか。

 私は、その当時から、被告・本多勝一を、かなり非常識で社会人としての経験が未熟な一匹狼型と見なしていましたから、それほど呆れもせずに、この話を軽く記憶に止めただけなのでしたが、この「貰えないかな」もあったからこそ、被告・本多勝一は、西岡の誘いに即応して、拙稿と右西岡原稿とを二股に掛け、元参議院議員で作家、野坂昭如氏の夫人が経営する銀座の画廊、ギャルリー・イマ(甲第49号証の1)で開催されていた「情報操作研究会」(一九九四年一一月一八日一九時から)に宮越副編集長(当時)を帯同して現われたのです。

 また、そのような経過があったからこそ、『マルコポーロ』廃刊事件発生直後の一九九五年二月八日にも、被告・本多勝一は、私に対して、「木村さん(本多勝一)『レクスプレス』のその論文のフランス語原文をFAXして下さいませんか」という手書きのファックス通信(甲第49号証の3)を寄越し、さらには、その後にも、私の要求に答えて、「論争」欄提供のファックス通信(甲第49号証の4)を寄越すなどの対応をしてきたのです。なお、通常のやりとりは電話によるものであって、ファックス通信や電報なども廃棄してしまったものが多く、右に挙げた物的証拠は、氷山の一角にしかすぎません。

 被告・本多勝一は、『噂の真相』(98・2)コラム(甲第35号証の3)においては、その前提となる『噂の真相』(98・1)の投書欄(甲第35号証の1)記載の右「研究会」参加の件について沈黙を守っていますが、その際、被告・本多勝一は、原告準備書面(三)に略述した通りに、「宮越副編集長(当時)を帯同して」現われたのであって、その理由については被告・本多勝一自身が当時、「編集部で反対意見が強いので」と説明していたのです。

 被告・本多勝一は、さらに、一九九八年(平10)一月二〇日付け準備書面(二)においても再び、「本誌編集部内において原告いうところの『連載計画』なるものが議論された形跡すらない」という虚言を吐いていますので、さらにさらに再び再び、具体的な新旧の証拠を示して、この驚くべき犯罪的な忌まわしき動機に基づく恥知らずな虚言に反論することにします。

 そのような『週刊金曜日』編集部内の「議論」の存在については、最近にも『噂の真相』(98・3)投書欄(甲第34号証の3)に、具体的な状況を照らし出す文章が現われています。

 その中心部分を摘出すると、次のようです。

「新宿のロフトプラスワンで座談会が開かれた際、出席したスガ氏が満場の客の前で語ったことですが、そこで凜氏は、『金曜日』の編集者から、本多編集長が『ガス室』見直し論に肯定的だという趣旨の不満を聞かされた、と明言しているのです」

2、「ガス室」問題ダブルスタンダードへの批判とその結末

(この項目の人名「スガ」は、糸偏に圭ですが、カナで代用します)

 当の文芸評論家、スガ秀実は、『図書新聞』の元編集長ですが、『マルコポーロ』廃刊事件の直後、本件「ガス室」問題に関連して、被告・本多勝一らの俗論迎合的ご都合主義を鋭く批判し、湾岸戦争の際に醜く露呈され世間の常用語の一つとなった「ダブル・スタンダード」を具体的事実を挙げて皮肉たっぷりに指摘する文章を、『図書新聞』(95・3・4)の巻頭論文(甲第50号証)として発表していました。

 さらにスガは、ほぼ同じ主旨の見開き2頁の文章を、『週刊金曜日』にも寄稿していました。その『週刊金曜日』記事(甲第51号証の2)の掲載に関しては、被告・本多勝一から直接、「激怒」の鬱憤ばらしのクダクダしい台詞を電話で聞かされました。

 被告・本多勝一の「激怒」の台詞は、大略、次のような主旨でした。

「そのスガは、図書新聞で私(被告・本多勝一個人のこと)の悪口を書いている。書かせたのは宮越(右に前出の当時の副編集長。この話の直後に辞任した)だ。彼等はあるセクトに所属していて、自分の仲間を執筆陣に引き入れていることが分かった」

 右の「セクト」云々については、後日、宮越本人に電話で確かめたましたが、軽く否認されました。確証はありません。

 スガの右『図書新聞』(甲第50号証)における被告・本多勝一らへの批判の中心点は、次の二点です。

1「朝日・毎日系メディアや筑紫哲也、本多勝一(『週刊金曜日』二月十日号)らに共通するところの、『保守反動』ー文春『マルコ』の廃刊は当然であり、むしろ、?いい気味、だといったふうな、「進歩派」的な態度は醜悪である」

2「『マルコ』西岡論文と全く相似したリヴィジョニズムは、すでに『噂の真相』九四年九月号に、単独で、掲載されていたからである。木村愛二『映画「シンドラーのリスト」が訴えた?ホロコースト神話、への大疑惑』がそれである。

 本多勝一は、『マルコ』廃刊にはしゃぎ、ついでに『諸君!』も廃刊にせよと言うのなら、自身も連載コラムを持つ『噂の真相』についても廃刊を要求すべきだろう」

 カンボジア問題の研究者、鵜戸口哲尚は、『噂の真相』(98・6)に「本多勝一の捏造のレトリック」と題する投書(甲第35号証の6)をしていますが、同時期に同じ問題で『人民新聞』(98・4・15)にも「再び『カンボジア革命とは何だったのか』を問うべき本多勝一『噂の真相』(四月号)コラムへの回答」(甲第52号証)を寄せており、そこでは、以下のように厳しく批判しています。

「『マルコ』廃刊をめぐる凜秀実との論争を見ていても、スガにはっきり問題点を指摘された途端に、自ら論争をしかけながら相手の反論の掲載を意図的に遅らせ、揚げ句の果ては、『この回答では、とても「問題の進展・深化」はできません』という捨て台詞を残して幕を引くという同じ手練手管が透けて見える。これを見ても同じだが、本多には昔から論議・争点を明確にするだけの『頭脳的資質』が欠けている。思考力に欠けているのである。従って、常に詰まるところ『見てきた』『行ってきた』『どっちに味方する』という子供じみた論拠しか出せないのである」(甲第52号証、2頁7段10行~8段8行。「凜秀実との論争」は甲第51号証の1~5参照)

 カンボジア問題に関しては後述しますが、現時点で、再び、右のスガの『図書新聞』の巻頭論文(甲第50号証)を読み直すと、被告・本多勝一は、まさに、「本音を突かれた」からこそ、あらぬことまで口走るほど怒り狂っていたのだということが、実に良く分かるのです。

 その「本音」とは何でしょうか。あえて湾岸戦争後の常用語、「ダブルスタンダード」を恥ずかし気もなく露呈し、それを指摘されると怒り狂ったのは、なぜでしょうか。

 もはや、この「本音」に関して多言を要しないのですが、念のために繰り返すと、すでに私が何度も指摘し、被告・本多勝一が何度も否定した「文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨み」に基づく目標の誤認であり、トチ狂い以外の何物でもないのです。

「江戸の敵を長崎で討つ」と言いますが、被告・本多勝一の手口は常に、自分の「ガセネタ」報道を批判されると、その批判者を逆恨みし、朝日新聞「記者」または元「記者」の肩書きを振り回して大袈裟に被害者を装い、論点を次々にそらしながら、「心情左翼」の「本多勝一真理教信者」の確保を続けることにありました。

六、被告・本多勝一の虚言癖の証拠「通報」は唖然とすべき数に達しつつある

1、本件訴訟を知った友人知人からは予想以上に多くの驚くべき数の被告・本多勝一に関する″噂の真相″が殺到しました。

 被告・本多勝一は『噂の真相』(98・4、甲第35号証の4)の個人名コラムで「今ではポル=ポト政権下での大虐殺政治を否定する者など、もはや例外的ないわば精神異常者くらい」とし、「虐殺否定派」と戦った自分の「現地取材」を誇り、返す刀で、被告・本多勝一ら朝日新聞記者[当時]数名がリクルート社の接待スキー旅行に参加した件を報じた「朝日新聞の呆れた内憂外患」(『ヴューズ』97・1)を「ヨタ記事」と決め付けています。

 被告・本多勝一は、前出のカンボジア「大虐殺」問題で自分の論争相手に対して、「ベトナム軍がカンボジアを制圧した後は[中略]『アナクロニズム』『幼稚』『事実に立脚しないジャーナリスト』『虚偽をもとに危険な方向に世論を導く』」(甲第75号証)などの罵倒を繰り返していたようです。

 前出の人民新聞(98・4・15、甲第52号証)に被告・本多勝一批判の一文を寄せた東南アジア研究者の鵜戸口哲尚も、その種の罵倒の対象にされた一人です。

 ところが、被告・本多勝一自身が、それ以前の『潮』(75・10)「カンボジア革命の一側面」(甲第60号証)では、「例によってアメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっと滑稽だったが)」と書いていました。この文章はそのまま、雑文集『貧困なる精神』第4集2刷(甲第61号証)に再録されています。

 それだけならまだしも、右『貧困なる精神』第4集の9刷(甲第62号証)では、何の断りもなしに、「アメリカが宣伝した『共産主義者による大虐殺』によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない」と書き変えていました。

 これはもう、何とも言い逃れのできない背徳行為です。

(以上、甲第64号証の1~2、甲第75号証)

2、初期作品から始っていた記事デッチ上げと経歴詐称

 私はすでに『歴史見直しジャーナル』3号(甲第7号証の4)『週刊金曜日』誹謗中傷記事問題特集で、「試金石」による「本多の条痕色」は「黒」、つまり、本多勝一は「偽者」(同4頁の最後)と喝破しました。

 それまでの自称「省力取材」の結果に基づくだけでも、この判断には十分な確信がありました。ところが、その後、出るわ、出るわ。呆れを通り越して寒気がするほど、お粗末至極な記事デッチ上げの前歴が各地の各氏から寄せられました。

 ベストセラーで冒険記者の名を上げた「極地三部作」でも、同行の先輩写真記者、藤木高嶺氏(現大阪女子国際大学教授)が記事デッチ上げに呆れ果てて「決裂」宣言しています。

 ヴェトナム戦争当時の「戦場の村」連載では、現地の各社の先輩記者が、「来たばかりでヴェトナム語も知らずに、あんな取材ができるわけがない。昼は政府軍、夜は解放軍の乱戦状態で、政府軍に疑われれば爪を剥がれる拷問。半端じゃない。しかし、『嘘を書いた』という立証も難しいから、そこが彼の付け目だ」などと告発しています。

(以上、ともに「通報」を得て本人から直接電話取材)

 初期の作品「極地三部作」では、朝日新聞社が一九六三年(昭38)に発行した『カナダ・エスキモー』初刷(甲第56号証)の場合、「京都大学農林生物科を経て[中略]朝日新聞社入社」と記しており、それらの作品の講談社文庫社版では明確に「京大農林生物科卒」(甲第76号証)となっています。

 ところが、『現代』「新聞記者・本多勝一の崩壊」(73・8、甲第58号証)によると、京大は「中退」とあるので、朝日新聞社の人事部に問い合わせると、入社の経歴書には「千葉大薬学部卒業となっているから朝日新聞に学歴を偽って入社したのではない」とのことでした。

 被告・本多勝一自身は『貧困なる精神』第4集に収録した一文、「これも異色か」(初出60千葉薬雑誌)の中で京大への学士入学の経過を記していますが、そこには「中退」の「チュ」の字も見えません。

 このような「記事デッチ上げ」「経歴詐称」の常習犯が、朝日新聞の看板記者だったことには、やはり、驚く他ありません。

 しかし、これまでの批判者は、マスコミ業界の商売人でしかなく、「右」か、オタク風か、いずれにしても、徹底的に被告・本多勝一との対決を続ける根性に欠けていました。被告・本多勝一は、そのような経過によって増長し、私に対してまでも、これまでと同じ手法で、しかも、他の二人の被告のような「無資格者」を手先に雇うという堕落の極の攻撃を仕掛けてきました。このような被告・本多勝一の長年の忌まわしい「宿年の恨み」を晴らすための思いも寄らぬ攻撃を仕掛けられた私の身になってみれば、まさに、「たまったものではない」のです。

 しかも、今の今、訴状で記し、本陳述書でも繰り返したように、「偽」イスラエル国家が軍事占領地の東エルサレムで国際法違反のユダヤ人住宅の建設を強行しており、その暴虐に満身の抗議を表明するためにアラブ人の子供たちが「小石」を投げると、ゴム弾で、時には自動小銃で打ち殺される状態が続いています。被告・本多勝一の醜い保身のためのダブルスタンダードは、結局のところ、このような極右・政治的シオニストの強訴御輿、「ガス室」の嘘を援護する国際的政治犯罪の末端「売人」行為でしかないのです。

 他の二人の被告が執筆した記事への批判に関しては、別途、陳述書(二)及び比較対照表などを作成します。

 とりあえず以上。


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