「ガス室」裁判 原告本人陳述書 その5

その5:本多勝一の「ガセネタ」-
花田紀凱に対する宿年の恨み


三、最も特徴的な最近の事実

15、私が訴状で主張した「文藝春秋及び花田紀凱に対する宿年の恨み」の決定的根拠

 さらに重要なのは、この被告・本多勝一の「ガセネタ」報道が、掲載当時すでに記事中の「A少尉」、被告・本多勝一の先輩たちの「でっち上げ戦意高揚記事」を唯一の根拠として戦後の中国における粗雑な戦犯裁判で死刑に処せられた向井敏明少尉(当時)の未亡人と先妻の娘、次女の千恵子を深く傷付け、千恵子の家庭を崩壊に導く導火線となったという事実経過です。

 被告・本多勝一は、本件の私に対する名誉毀損・誹謗中傷記事を大量に掲載する直前に、一九九六年五月三一日付け『週刊金曜日』(甲第15号証)の44頁第3段21行以降で、花田紀凱が編集長だった当時の『週刊文春』一九八八年一二月一五日号(甲第45号証)の記事に関して、「『東京日日新聞』(のちの毎日新聞)の記事を、私の記事のようにスリかえた上で攻撃し」たと称しています。

 ところが、右『週刊文春』記事のどこをどう読んでも、被告・本多勝一が毒々しい表現で主張するような、「スリかえ」の箇所は見当たりません。むしろ、被告・本多勝一が「その(右『東京日日新聞』)記事を再検証しないで書いている」という批判意見の方が、明確に記されているのです。

 これには、またまた改めて驚きました。被告・本多勝一が、これほどまでに酷い「新聞記者」であるとまでは気付かなかった自分の迂闊さに、冷や汗が出る想いまでしました。

 なお、右『週刊文春』記事(甲第45号証)は、『諸君!』(89・1)に掲載された(旧姓)向井千恵子執筆の詳しい記事「『向井中尉の娘』の四十年」(甲第46号証)を、週刊誌向けに編集し直したものですが、そちらの方(甲第46号証)には前出の「南京事件調査研究会」の代表である洞富雄(元早稲田大学教授)との、次のような電話による会話の経過が記されていました。

「洞氏が言うには、百人斬り論争をやったのは、山本七平氏から論争を挑まれたからで、自分では百人斬りはなかったと思う、と言ってくれました。

『いろいろ書いて申しわけなかったですね。この電話でおわびできてよかった』

 と謝られ、私も予期せぬことにびっくりしました」

 洞は、前出の『ペンの陰謀』(甲第34号証)にも長文を寄せており、そこでは「据え斬り」説に傾いていたので、右の経過を確かめるために、私自身も洞に電話をし、私が被告・本多勝一の仕事振りに疑問を抱いていると断った上で、事実関係を質しました。

 すると洞は、「老齢のために記憶が確かではないが」、と前置きした上で、「戦闘中のことではなく、据え斬りと考えている」という主旨の答えをしました。しかし、右のように千恵子に詫びたことは事実として認めました。そこで私が、「もしも据え斬りだとしても日本刀では何人も斬れない」と言う疑問を呈すると、「軍事的なことは分からないので、もしも何か記事を書くのなら送ってほしい。反省すべき点があれば反省する」と答え、さらには、「本多さんは千恵子さんと話し合って解決したと聞いています」と付け加えました。

 この「解決」は初耳の重大なことなので、私が、「裁判所の和解ですか」と聞くと、この問いには、「詳しくは知らない」と答えるのみでした。右の『週刊文春』及び『諸君!』に記事を見る限りでは、確かに、その後の千恵子の消息が、どこからも聞こえてこないのは不思議なのです。あの思い詰めた雰囲気では、そのまま収まるはずはないのです。もしも、右のような洞の話が本当ならば、被告・本多勝一には、その「解決」の経過を世間に明らかにする義務があります。

 さて、そこでもう一つ、どうしても確かめたいのは、前出の「南京事件調査研究会」による『週刊金曜日』「座談会」(甲第32号証の1~2)の出席者であり、長老格の藤原彰(元一橋大学教授)の「百人斬り論争」に関する見解です。

 藤原は、陸軍士官学校出身のれっきとした職業軍人として大陸侵略に従軍し、その反省の上に立って『日本軍事史』などの著作を発表しています。洞とは違って、「軍事的なことは分からない」と言える立場ではありません。だとすれば、戦闘中は言うに及ばず、据え斬りであっても、「百人斬り」が可能かどうかについて、見解を明らかにせずに、被告・本多勝一と同席することは許されないのです。

 私は長年、マスコミ業界の底辺から世間を見続けてきたので、マスコミに登場するアカデミー業者(教授たち)を見る目も厳しくなっています。もしも本人は善意のつもりだとしても、被告・本多勝一が犯したような「ガセネタ」報道とその結果としての悲劇を見逃し、その沈黙によって、「朝日新聞の著名記者」または「元朝日新聞著名記者」との同席の確保をズルズル続けているようであれば、余人はどうあれ、私は、そのような禍々しい処世術に対して、厳しい批判を加えざるを得ません。このような処世術は、かえって、日本の過去の侵略戦争への批判作業を汚し、視点を歪めることになるのです。

 私は、本件の名誉毀損・誹謗中傷記事を問題にする以前には、以上に略述したような「南京大虐殺まぼろし論」に関する「論争」について、漠然とした噂話程度のことしか知りませんでした。場合によれば「無知も犯罪」ではありますが、個人的事情を簡単に言えば、「論争」のきっかけとなった被告・本多勝一執筆の朝日新聞連載記事(甲第36号証)が夕刊に掲載された一九七一年一一月五日の前後には、私の勤務先の日本テレビ放送網株式会社に対する読売新聞の支配強化、社長の天下りなどに起因する長期争議状態が山場を迎えており、翌年春には私自身を含む組合員6名への不当処分、同年秋には私への不当解雇へと至るのです。

 以後、一九八八年に至るまでの一六年にわたる不当解雇撤回闘争の期間には、直接関係のある文献に目を通すのが精一杯の状態が続いたのです。

 今、改めて九年以上も前、私自身の不当解雇事件が和解で解決した直後に発行されていた右『週刊文春』記事(甲第44号証)などを読み、さらに溯って、その「痛哭」の直接的原因となった二六年以上前の被告・本多勝一執筆の朝日新聞連載記事(甲第36号証)を読み、その間に各所で発表されていた関連記事と単行本を読み比べてみると、すでに右朝日新聞連載記事(甲第36号証)の発表当時から、短く、かつ十分な鋭さには欠けるとはいえ、一応は正確な被告・本多勝一への批判が行われていたことが判明します。

 それらの批判の妥当性については、誰あろう、被告・本多勝一自身が、もっとも具体的に身に覚えがあったはずなのです。

 その「身に覚え」に関しては、本件の私への名誉毀損・誹謗中傷の経過についても同様との指摘をしておく必要があるでしょう。

 古代中国の名句にいわく、「天知る。地知る。我知る」。

 ところが、被告・本多勝一は、傲慢にも、またはむしろ愚かにも、そこら中に証拠がころがっていて、「世間の皆知る」状態であり、証人が数多い言論犯罪を犯しているにも関わらず、「エセ紳士」こと朝日新聞の著名記者としての地位を悪用し、「嘘も百万遍言えば真実となる」と言った類いのゲッベルス流デマゴギーを駆使し続け、今日に至ったのです。

16、もう一つの忌まわしきゲッベルス流デマゴギー駆使の源流

 私が、以上に略述したような「南京大虐殺まぼろし論」の経過を調べる気になったのは、本件の『週刊金曜日』を舞台とした私への不当極まりない名誉毀損・誹謗中傷行為が頂点に達し、私がやむをえず本来の仕事を中断して被告・本多勝一に反論の場の提供を求めて以後のことです。その当時、特に被告・金子マーティン執筆の連載記事が話題に上った際、ある事情通の出版編集者が、「本多さんは文藝春秋に同じ頁数の反論を要求していますよ」と教えてくれたのです。

 そこで忙しい私は、深く調べる余裕のないままに、一九九七年三月四日付けファックス通信(甲第33号証の27)で「一件資料を取り寄せ中」と断った上で、「本多氏と同じような要求をすることになるでしょう」と予告しました。それに対して被告・本多勝一は、同年同月7日付けファックス通信(甲第33号証の32)で、「私が文芸春秋の雑誌『諸君』に対して提訴した件は、今回の場合全くご参考になりにくいと存じます」という返答を寄越しました。

 付言すれば、右の引用部分の「全くご参考になりにくい」は、被告・本多勝一の非論理的な思考過程の実態を露呈する悪文の典型です。「全く」と「なりにくい」とは論理的に矛盾します。「全く」を前置するのは、この場合、効果を全面的に否定する意味ですから、「ならない」と結ぶべきです。

 さて、その折、これも偶然でしたが、「切抜き」というよりも「破り取り」という表現の方が実態を現わす資料ファイルの中に、前出の一九九六年五月三一日付け『週刊金曜日』(甲第15号証)記事があるのを発見しました。

 先には、その一部である「南京大虐殺」関係の部分の問題点を記したのですが、その同じ44頁4段の6行目以降に、被告・本多勝一が「文芸春秋の雑誌『諸君』に対して提訴した件」と記した事件の概要が載っていたのです。被告・本多勝一の衒学趣味は、この際、非常に好都合でした。先の『週刊文春』の場合と同様に、「一九八一年五月号」と付記されていたからです。これならば、超多忙の私にでも、原資料の収集が可能になります。本来の仕事に必要な資料調査で毎日のように武蔵野市中央図書館に立ち寄るので、その際、数分間だけの無駄を我慢して、都立多摩中央図書館からの取り寄せをリクエスト用紙に記入して置けば、あとは自動的に原資料が届き、必要な記事をコピーできるのです。

 被告・本多勝一は、前出の「雑誌『諸君』に対して提訴した件」に関しても、『週刊金曜日』(甲第15号証)44頁4段の7行目以降に、「『今こそ「ベトナムに平和を」』(甲第48号証)という評論で、他人の言葉をそっくり私の言葉になるように改竄した上で私を非難中傷した」と称しています。

 ところが、これまたというよりも、こちらの方が先の『週刊文春』記事(甲第44号証)に対する「スリかえ」と言う表現による非難の先例なのですが、右の記事「今こそ『ベトナムに平和を』」(甲第48号証)のどこをどう読んでも、「他人の言葉をそっくり私の言葉になるように改竄した」と言う事実は発見できなかったのです。強いて言えば、同記事の61頁2段8~10行に、「本多記者は[中略]……であるといっている」と記している部分が、いささか誤解を招くかもしないといったところでしかありません。

 しかも、この記事の筆者、殿岡昭郎は、さらに次のような指摘をもして、被告・本多勝一の文責を批判しているのです。

「もちろん、逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている、彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか」(同62頁3段14~17行)

 このような「全て伝聞」による報道操作は、すでに指摘した大手メディアの通弊です。日本の一般の大手メディア報道との違いは、大手メディアの伝聞報道のほとんどが無署名なのに、被告・本多勝一の場合は「署名記事」だということだけです。

 その他の部分の記述についても確かめました。地元の武蔵野市中央図書館が「著名『新聞記者』」被告・本多勝一の著書をほとんど買い揃えているので、書庫(利用度の低い本を収納する)から捜し出して貰った『ベトナムはどうなっているのか?』(甲第49号証)の記述と対照すると、該当部分の記述は全く同じでした。

 この件を被告・本多勝一は、「提訴せざるをえなかった」(甲第15号証)と主張していたのですが、裁判に関してはすでに本件訴状に記した時点では、地裁・高裁で被告・本多勝一が敗訴して上告中のところ、最高裁でも本年七月一七日言い渡しで敗訴確定です。私は行き掛かり上、この件の訴訟資料の調査をも予定したのですが、それに要する時間を割けずに今日に至りました。とりあえず私見を一言しておくと、私が「今こそ『ベトナムに平和を』」(甲第48号証)の執筆者であった場合には、次のように反論したでしょう。

 被告・本多勝一は、右『週刊金曜日』(甲第15号証)記事の45頁1段23行以降で、「(右『諸君』記事に関する)裁判であまりに時間を取られ、これ以上また提訴で時間を取られては仕事に差支えるので、(右『週刊文春』記事[甲第44号証]の件を)時効のままに放置せざるをえなかった」と嘯いているのですが、これまた実に忌まわしきゲッベルス流デマゴギーの駆使に他なりません。

 本当は、訴訟を起こし得ないほどお粗末だったので、諦めざるを得なかったに違いないのです。私には、決して、商業主義の文藝春秋の肩を持つ気はありません。むしろ、この件では、商売に重大な支障さえきたさなければ、被告・本多勝一が撒き散らす「ゴロツキ編集長」(甲第15号証)などの薄汚い罵倒を放置し、被告・本多勝一を甘やかし、あまつさえ『マルコポーロ』廃刊事件を起こし、それらの結果が、被告・本多勝一らによる私への攻撃につながっていることに関して、超多忙中ながら、とりあえず文藝春秋社長室に電話で強く抗議の意思を伝えたほどです。

 私は、本件訴訟に関して、今年の一九九八年一月二日以降、私が作成するインターネットのホームページによって、主要な書面、書証などの世間への公開を開始しました。本陳述書も同様の方法で発表します。被告・本多勝一が、以上のような私による批判を不当だと主張するのであれば、まだまだ「時効」どころか、出来立てのホヤホヤ状態ですから、もしも身の潔白を証明し得る、または身の潔白を証明し得ると主張し続けて日本特有の長期裁判に一縷の望みを託し、「市民派」気取りによる現世の仮そめの世すぎ身すぎを全うしたいと願うのであれば、思い切って私を相手にして「提訴」されると良いでしょう。

 訴訟開始に要する費用を、そちら持ちで法廷、インターネット、その他メディアを活用する裁判ができるなら、私は大歓迎します。


その6:本多勝一との関係の再確認-迂闊にも重大な政治的案件に関する意見を求めたに進む