木村愛二と60年安保

 1961~2006年の記述から構成。一部相反する文章もあります。

➡ シナリオ「明日の罪を犯せ」 

60年安保反対デモ国会突入から1年後の学生たちの虚脱感

 60年安保反対デモ国会突入から1年が経ち、参加した学生たちには虚脱感が残り、前に進めない議論が繰り返される。彼らの前に現れた制服姿の防衛大生に青臭さを笑い飛ばされいきり立つが……

 防衛大(三期生)中退、60年安保では国会議事堂南門突入の先頭に立ち、樺美智子の死を目の当たりにした東大生としての木村愛二の体験と、当時の学生たちの思いをほぼリアルタイムで捉え、シナリオとして構成している。

(「文学青年としての木村愛二」➡ 1961.12.1「明日の罪を犯せ」2019.4.8収録)

警官の樫の棍棒の一撃で、額の上を割られ、6針縫い

1960年6月3日 首相官邸突入 / 6月15日 国会南門突入

 1960年安保闘争で同窓の樺美智子が国会構内で死んだ日から46年目の6月15日、私は、元全学連幹部の呼び掛け人からの誘いに応えて、日比谷公園から国会までのデモ行進に参加した。

 翌日の6月16日の朝日新聞朝刊記事のカラー写真には、先頭の代表が掲げる樺美智子遺影の真後ろに、鳥打ち帽を被った「わが勇姿」があり、何人かの知人が気付いて、声を掛けてきた。

 だから、簡単に、鳥打ち帽を被っていた理由を説明して置きたいのである。

 鳥打ち帽を被ってデモに参加したのは、46年前の6月15日にも、鳥打ち帽を被っていたからである。しかも、この鳥打ち帽によって、国会の南門から突入して死んだ樺美智子を「救け出す学友」(写真集『怒りと悲しみの記録』)の一人が、私だったことが、分かったのである。しかも、その事実に気付いたのは、41年後のことであった。

 なぜ私が鳥打ち帽を被っていたかと言うと、その直前の6月3日に、首相官邸に躍り込んだ際、警官の樫の棍棒の一撃で、額の上を割られ、6針縫い、その傷口に絆創膏を貼り、また殴られる時の衝撃を和らげるために、タイルを折り畳んで、その上に鳥打ち帽を被っていたのである。

木村愛二2006年樺美智子追善デモ 木村愛二-樺美智子を救け出す学友 60年安保国会突入額を割られた木村愛二
写真右2点:「怒りと悲しみの記録」(浜谷浩1960年)より引用

木村愛二-60年安保国会突入 60年安保国会突入 木村愛二60年安保国会突入
写真は当時のニュースフィルムより引用

辛口時評2006.6.20  615樺美智子追善デモ朝日記事に写った鳥打ち帽の因縁話より)

初めて警視庁機動隊と体当たり

1960年6月3日 首相官邸突入 / 6月15日 国会南門突入

 私は、1960年安保闘争で、初めて警視庁機動隊と体当たりし、樫の警棒で殴られ、興奮の果てに、「執行部、日和るな!」「突入しろ!」などと叫んでしまった。実際にも、首相官邸突入で頭を割られたり、同窓生の樺美智子が死んだ時の南門突入では、鉈を渡されて檜の門を破壊したりした。

 今更、後悔しても始まらない。宮本武蔵の言、「事に当たって後悔せず」に賛成し、後悔よりも観察素材として活用するが、その頃の自分を「純粋」だとか「素直」だとか思ったことはない。若者を「純粋」とする表現は、何度も読んだり聞いたりしたが、これは、実態を無視する空論であり、自分の青春を美化したい老人の世迷い言か、はたまた、馬鹿な若者を煽て上げて利用しようとする「ズル中年」の策略であると、ここに喝破する。

 人間は、生まれたまま野放図に育ち、教育と称する「仕付け」を受けなければ、普通の動物と同じで、本能に基づく自己中心の行動を取る。頭の中も同じである。「仕付け」が不十分か、または、現実と整合性がない仕付けで「はみ出す」場合には、反乱を起こすこともある。毛語録には「造反有理」とあるようだが、「理」は、必ずしも「正義」ではないし、「正義」の御旗すらも、最近のアメリカの正義のように、怪しい場合が多い。

 私は、自分をも他人をも、美化しない。自分のことを最初に評価すると、1960年安保闘争の頃の私は、「思い上がりも甚だしい跳ね上がりの糞餓鬼」でしかなかった。素直ではなかったが、それほど馬鹿でもなかった。自分がしたいことをやっていた。前回も記したように、オッチョコチョイの私を利用「しやがった」「陰険な左翼政治ゴロ」のブントには、当時から暴力主義の傾向が見られた。その最後のチョロリが、赤軍派である。

木村愛二の生活と意見 2000.11.19(日)
悪餓鬼の赤軍シンパを叱りつつ右左を問わず軒並み政治屋批判展開を決意!より)

ナタを手渡され、檜の太い柱を切り倒し

1960年6月3日 首相官邸突入 / 6月15日 国会南門突入

 私は、実は、この惨劇が起きた時、国会南門から構内に突入した学生のデモ隊の中にいた。先頭から少し遅れていたが、それには、ここで初めて文字にする特別な理由があった。私は、当時、いわゆるノンポリの演劇青年、それも大道具専門だった。直前の5月祭では、英文科の出し物の演劇の予算を獲得するため、仕方なしに、「アメリカ帝国主義」とか「スターリニズム」とか黄色い嘴から泡を飛ばせる無粋な学生自治会委員どもの度肝を抜く魂胆もあって、予算決定の会議に、大道具作りの最中の泥絵の具が飛び散ったジーパンのバンドに鋸とかトンカチとかを差したまま出掛けたことがある。

 そのためであろうかと推測したまま、確認する暇もなかったのだが、ともかく、国会の南門の前で顔見知りの嘴の黄色いのから、いきなり彼がジャンパーの内側に隠し持ってきたナタを手渡された。頼まれるままに私は、私と「凶器」を周囲の監視の目から遮蔽するためにできた数十名の人垣が自然に発する掛け声に合わせて、新品のナタを力一杯振り降ろしては、節無しの上物の檜の太い柱を、ザック、ザックと切り倒し、檜に特有の濃厚な匂いを、たっぷりかいだのである。

 門が倒れるなり、デモ隊は、後片付けをしていた私を追い抜いて、われ先にと構内に突入した。私は、それより以前、6月3日に、首相官邸突入の際、先頭にいて、「警棒の一撃」を受け、額を3針縫って貰ったばかりだった。額には絆創膏も貼ってあった。そこで、6月15日当日には、ハンチングを被り、「警棒の一撃」に備えて、内側にタオルを畳んで入れていた。この厚めのハンチングを被って警察の車を乗り越える姿が写った16ミリフィルムを、その後に入社した日本テレビ放送網の関係者から記念に貰って、今も持っている。その部分の映像は、時折、ドキュメンタリーで再現されている。

 つまり、上記の特別な理由で、構内に入るのが少し遅れた私は、私の前にいたデモ隊の先頭部分がスクラムを組み、そのために手の自由を失っている状態の下で、指揮官の号令が掛かるや否や、「警官隊の警棒の雨が学生たちを追いまく」り、学生たちが「頭を割られ、血みどろ」になる有様を、そのすぐ背後で目撃していたのである。これは決して「デモの揉み合いの最中」などという生易しい状況ではなかった。

(本多勝一“噂の真相”同時進行版(その25))より

英文学科の授業の教室で教授の許可を得て報告し、学内での議論を求めた

1960年6月15日 国会突入 樺美智子死亡

 私は、茅誠司が東大の総長時代に、1960年安保闘争を経験しましたが、同じ文学部の学生だった樺美智子が国会構内で警察官に蹴り殺された翌朝、英文学科の授業の教室で教授の許可を得て報告し、学内での議論を求めた際、普段は物静かな英文学科の某教授が、急に色をなして、茅誠司のことを「財界の妾」呼ばわりしたので、非常に驚きました。茅誠司は、当時の焦点、「産学協同」に熱心だったのです。

(「原発に死を!」 調査意見報道シリーズ
1999.11.18 10. 原発は軍需偽装:A級戦犯『巨怪伝』抜粋 より)

学習院大学の教授だった清水幾太郎が、煽りに煽った

「ブント」指導下の全学連主流派のデモ隊

 「インティファーダ」や「自殺爆弾」に至る闘争を、熱烈に呼び掛ける宗教的な指導者もいるようだが、それらの宗教的な指導者たち自身は、最前線に立っているのだろうか。状況が違うと言われるかもしれないが、私自身は、1960年安保闘争で国会に突入した。そこで同じ学年の文学部の女子学生、樺美智子が死んだ。この危険な闘争戦術を決定した「ブント」指導下の全学連主流派のデモ隊を、当時は学習院大学の教授だった清水幾太郎が、煽りに煽った。国会デモの解散地点の渋谷の坂道で、いわゆる名演説調、自らが陶酔して、ぶちまくっていた。その清水幾太郎が、何年も経ずに、いわゆる「右」に移動して原稿料稼ぎをするようになったのだった。「ブント」は敗北を宣言して、直後に四分五裂した。私は、名演説で若者を死地に追いやりながら自分は切腹もしない糞爺や、無責任な「左翼」政治ゴロにだけはなりたくない。

木村愛二の生活と意見 2001.2.1(木)
「目には目」の悪循環を断つ徹底的な唯物論の思想構築を成し遂げる「希望」より)

集団的自衛権をめぐる騒動は、60年安保に似ている。当時も安保条約なんてほとんどの人は知らず、新聞が「アメリカの戦争に巻き込まれる」という不安をあおって騒ぎを作り出したのだ。最初は一部の学生・知識人にとどまっていた運動が、1960年6月の国会通過の数ヶ月前から、急に盛り上がった。そのきっかけが、全学連主流派(ブント)の国会突入だった。

清水幾太郎は、60年安保の主人公だった。今では忘れられた人物だが、当時は「いまこそ国会へ」というアジテーションを発表し、全学連を支援する声明を出した(丸山眞男は署名しなかった)。このときの騒動をのちに振り返って、清水は「何をやりたかったのか自分でもわからない」といっている。

国会議事堂を取り巻くデモの渦の中の「ワルシャワ労働歌」

国会突入にはもってこいの気分を作り出した。

 ともあれ、このラッシニエの言葉によって、わが脳中に蘇ったのは、1960年安保改訂反対闘争の頂点で、国会議事堂を取り巻くデモの渦の中で覚え、高揚した気分で、喉も裂けよとばかりにガナリ続けた歌の1節であった。

「憎しみの坩堝(るつぼ)に、赤く燃ゆる、鉄(くろがね)の剣を、打ち鍛えよ」

「ワルシャワ労働歌」とされる実に勇ましい歌の1節である。

 この歌は国会突入にはもってこいの気分を作り出した。しかし、今思うと、これらの勇ましい歌には、社会主義思想というよりも、裸の猿の本能に強烈に組み込まれた「恐怖と憎悪」の生存本能に訴える唸りのような、巫女の祈りのような、戦の雄叫び(おたけび)のような、非常に原始的な響きがあったのである。

元共産党「二重秘密党員」の遺言(その5)1999.1.29
「階級闘争」短絡思考は「マルクス読みのマルクス知らず」より)

➡ YouTube「ワルシャワ労働者の歌」(日本語版)

詳しい背景事情については無知だった

この前後の時期だけの闘争参加

「……樺美智子の遺影を配して、いくつかの想い出の歌を紹介していた。やはり、殉教者の扱いである。……確かに当日の夕刻から、初夏に特有の激しい雨が降った。……私も当日、議事堂の構内に入ったのだが、この前後の時期だけの闘争参加者だったので、詳しい背景事情については無知だった。しかし、歴史的かつ衝撃的な場面の目撃者として、この際、いくつかの謎解きに挑み、己の目で見た事実の背後関係を己なりに調べ直し、解釈し、遺言として残さざるを得ない気持ちに駆られた。謎には、小状況の謎もあり、大状況の謎もある。」

木村愛二の生活と意見 2000.6.22
「「我は生き彼女は逝きし六月の……」歌詠みが目の前にいた昨晩」より)

防衛大学校3期中退、1960年安保闘争では国会突入

当時の友人たちが密かに私を「暴れ者」と呼んでいた

 先に「暴力主義反対」の姿勢を明らかにしたものの、これまた冷や汗3斗の思いで告白すれば、私は、軍国少年として8年余り、「鞭声粛々夜河を渡る」の剣舞の舞台写真が残り、戦後の小学校時代にも「喧嘩太郎」と教師から呼ばれたこともあり、防衛大学校3期中退、1960年安保闘争では国会突入、その後、当時の友人たちが密かに私を「暴れ者」と呼んでいたことを知り、などなど、裸の猿の中ではむしろ暴力的な本能と身体機能を優れて備えた部類と自覚せざるを得ない。

 しかし、だからこそなおさらに、暴力反対なのである。敗戦の日の衝撃以来、暴力と権力に関して、何度も考え直してきた。問題は、そのような本能的な行為の個人的および社会的な抑制機能なのである。そこでまず問題は、過去の行状を告白し、公然と人前で反省を示すか否かにある。

電子手紙集 2001.8.20.(月)
「暴力主義反対」の姿勢を明らかにし暴力の新発見と権力の解剖と猿学の成果を紹介より)

自称「民族派」として、「アメ公帰れ!」を叫びに国会に赴き、ついつい、国会に突入

「自称」左翼を嫌悪する演劇青年だった

 私は、1960年安保闘争当時、まったくの政治的無関心、または「自称」左翼を嫌悪する演劇青年(大道具作り専門)で、特に大嫌いだったのは、プラカードの材料に、私が大事に仕舞っていた大道具の材木を盗む学生運動の悪餓鬼どもだった。

 ところが、自称「民族派」として、「アメ公帰れ!」を叫びに国会に赴き、ついつい、国会に突入する羽目に陥り、大いに人生が狂ったのであった。そこで、一度も口をきいたこともない関係の同窓の樺(かんば)美智子が死に、その後、彼ら全学連主流派が、「トロツキスト」呼ばわりされるようになり、「どうも、こいつら傲慢きわまる暗い顔の左翼どもは、仲違いしちょるらしい」と気付いた。

『亜空間通信』454号 2002.12.9
欧州社会フォーラムとブラジル労働者党大勝利の裏にラルーシュ運動あり要研究より)

TBSは安保闘争の経験者を警戒

現場写真のチェックが厳しくて、入社試験不合格。

 もともと、私が日本テレビに入社した経過そのものに、後の不当解雇につながる特殊性があった。入社の前年、1960年6月15日には、安保闘争(日米安保条約延長反対闘争)で全学連の主流派の国会構内突入があり、東大文学部の同窓生、国史科の樺美智子が死んだ。その時、同じ文学部の英文科の四年生の私は、同じ隊列にいたのである。

 その当時の状況に関しては、いずれ稿を改めて、詳しく書き残したいと思っている。

 私は、当時、劇団駒場というサークルで大道具係をしていたが、演劇の先輩には、マスコミ関係者が多くて、就職先としては、テレヴィ放送開始に伴って、ラジオ東京から商号を変更したばかりの東京放送(略称TBS)を推薦してくれた。ところが、TBSは、安保闘争の経験者を警戒し、現場写真のチェックが厳しくて、私は、入社試験が不合格だった。写真がチェックされたことは、当時、TBSの人事部の社員だった高校時代の同窓生が、「入社試験の成績はよかったのだが」と教えてくれたのだから間違いはない。日本テレビは、当時、正力松太郎の独裁支配下にあり、杜撰だったから、チェックがなくて入れたのであろう。

 私が日本テレビに入ると知った先輩は、「正力松太郎は元・特高警察」などと、注意してくれた。しかし、他に就職口の当てもないので、入社したのである。入社直後には、労組が結成され、以後、私は、労組活動に加わり、役員を歴任することになったのである。労組は、基本的に、読売新聞の支配、正力松太郎の独裁支配に反対であった。その労組の役員として、性格上、ついつい先頭に立ってしまえば、いずれ、不当解雇などの目に遭うことは、必然的であった。

『放送メディアの歴史と理論』(社会評論社 2005.11.30「はしがき」より)

樺美智子らの除名の政治的経過

正しい主張をしていた若者のグループが、まるごと日本共産党から排除

 言葉にすれば、「こりゃ何じゃ……」という感じだった。暖簾に腕押し。空気を掴むような当て外れ。突然、足場が消え失せて、空中遊泳してるような、なんとも心許無い気分である。どうにもこうにも馬鹿馬鹿しくて、仕方ないから、今度は、折角来たついでという気分で、まずは増田が私より若い、いわゆる全共闘世代だということを確かめた上で、日本共産党の無謬主義の一例として、ハンガリー動乱の評価に関する私の間接的体験を語った。私の学生時代の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。私の方は、ラグビーやら演劇やら麻雀やらで授業もさぼってばかり、政治は好きではなかったので、1960年安保闘争のデモに友人から誘われて参加する以前には、政党などとの関わりは一切持っていなかった。だから、樺美智子らの除名の経過も知らなかった。

 ところが、その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。以後、特に興味があったわけもないし、忙しくて調べる機会もなかった。そこで、「来たついでに」聞いてみたのである。それならばなぜ、ささいな規約違反だ何だかんだの経過にこだわらずに中央委員会の方が誤りを認めて謝罪して、樺美智子らへの除名処分や、その後の「トロッキスト批判」を撤回しないのかというのが、私の質問もしくは意見の主旨だった。増田との話が、そこまで進んだ時、それまで黙っていた「お付き」の方が、口を挟んだ。どうやら、そちらの方が年長だったようで、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出したのである。

 簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、正しい主張をしていた若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。

元共産党「二重秘密党員」の遺言(その18)1999.4.30
続:緒方批判・警備員同席で厳しく「嘘」を追及より)

警官に追われた群れの横倒しの中で樺美智子が死んだ

警察官による「虐殺」と表現し、彼女を殉教者として神格化

 つい最近、花火見物でも死者が出ましたが、子供と老人です。1960年の国会構内でも、警官に追われた群れの横倒しの中で、女性志願参加者の樺美智子が下敷きになって死んだのです。私自身も、彼女を倒した群れの一人だったのです。それを警察官による「虐殺」と表現し、彼女を殉教者として神格化し、激発を重ねた成れの果てが赤軍派です。激発を擁護することは、同じ愚行の歴史を繰り返すことです。

電子手紙集 2001.7.23.(月)
日本にない私人の起訴の権利を語らぬ偽善系弁護士と串刺しで激発主義は怠け者の裏返しと批判より)

 衆議院の南通用門付近では、各社のテレビ中継車や取材チームが集結していた。 全学連主流派約8000人が、降りしきる雨の中を激しい渦巻きデモを展開し、警備の機動隊と激突を繰り返した。眼前に繰り広げられる光景にこれまでにない緊張と興奮を覚えた。学生達は、南通用門の扉を破壊して国会構内に乱入し、およそ5000人が中庭を占拠した。

 その後、機動隊は一部の学生達を押し返したが、午後7時過ぎ、ずぶ濡れになった学生達4000人が、「安保反対」「警察は出てゆけ」などと叫びながら再突入を図り、押し返そうとする機動隊と大混乱となり、学生達も機動隊双方とも興奮状態になっていた。こちらも機動隊とデモ隊とがもみ合う脇で、巻き込まれないよう“決死”の撮影であった。

 その時警備のすきをぬって突入した十数人の学生たちが“将棋倒し”となり地べたに倒れた。立ち遅れた女子学生ら数人の上に、学生たちが折り重なるように倒れるのをレンズ越しに見ることができた。その瞬間、取材中の数人のカメラマンが「誰か下敷きになっているぞ」と叫んだが、デモ隊のシュプレヒコールと怒声に打ち消され気付く者はいなかった。

1960年安保40周年

2000.6.15ロフトプラスワンで回顧座談

 さて、つい最近のことだが、たまたま今年、西暦で2000年が、1960年安保の40周年に当たることに気付いた友人がいて、樺美智子が死んだ記念日の6.15に、「新宿情報発信基地」こと激論酒場、ロフトプラス1の出し物として回顧の座談会を企画してくれた。ロフトプラス1の舞台の上に登るのは、これで5回目となる予定である。その際、これまでにも断片的に記した実録を、まとめて告白するが、対する相手が、1960年安保の国会前の隊列に殴り込みを掛けた護国団の元団長、石井一昌、などという驚天動地のメンバーになる。他にも若い世代に声を掛けてみようかと思っているので、もしかすると、史上最大のショーになるかもしれない。

 私には、「樺美智子らが属していた東大細胞」そのものを美化する気は一切ないので、別途、以下の主旨のmailを発信した。

 「ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉への批判」が正しかったからといって、その細胞所属の除名組の学生党員たちが、その当時も、その後も、すべて正しかったということにはならない。

元共産党「二重秘密党員」の遺言(その19)2000.3.3
1960年安保に溯る共産vs新左翼諸派の抗争より)

40年目の真実 元護国団総本部団長の言

2000.6.15ロフトプラスワン回顧座談

 私は、当時、全学連の部隊の何故かいつも先頭の東大、そして何故かそのまた先頭の文学部の隊列の先頭にいた。すでに時効だから、隠さず告白するが、私は、顔見知りの委員から、こっそりと鉈を渡され、国会の南通用門の檜の柱を切り倒した。これは自分がやったことだから、間違いはない。

 石井は当時、護国団の実権を握る護国青年隊の総隊長で、指揮下の部隊が1960.6.15.当日、国会前で全学連らの集団と衝突した。私は、右翼が釘を打ち付けた角材を振るって新劇人会議のデモ隊を襲い、女優などの怪我人が出たと聞き、それを信じていた。

 石井の言によると、事態の順序は、まったく逆になる。しかも、この説明の方が、理に適っているのである。以下、要約する。

「警察にもデモ届けをすませ」た「右翼のデモ隊」が、「全学連を中心とする左翼団体で溢れていた」国会周辺で、「道路の一番端をゆっくりと行進して」いたら、「全学連の間から『右翼は返れ!』の激しいシュプレヒコールが巻き起こった」。「全学連のデモ隊たちは、道路の敷石を剥し、それを適当な大きさに砕いて、私たちに投げつけはじめた」。「仲間がたった一人、前方10メートルほどのところで、全学連に取り囲まれ、ポカポカ殴られている」。「仲間を救出するために、クルマを飛び下りた私は、仲間に声をかけながら、竹ザオと石で武装した全学連の密集に向かって突進していった」。

木村愛二の生活と意見2000.5.22
40年目の真実:1960年安保の「右」「左」がロフト総結集の激論!より)

全学連の主導権を握っていたブント

60年安保闘争40周年を生前葬にした元ブント書記長

 最初から不気味な表現をしてしまったが、1960年安保闘争では、私自身が、まさに若気の至りの興奮の極に達し、国会に突入したのだった。オッチョコチョイの典型の私は、島のような無責任で陰険な左翼政治ゴロが大嫌いである。だから、病気だ、死亡だ、と知っても、まるで同情心が沸かない。むしろ、不愉快さが増すばかりである。告別式と二次会の日程を手帳に記した理由は、いわゆる取材が目的だったが、特に新しい発見ができるとも思えなかったのである。

 すでに別途、簡略には記したが、1960年当時に全学連の主導権を握っていたブントは、元日本共産党の学生党員を中心としていた。日本共産党の幹部の方に、ハンガリー動乱へのソ連の軍事介入を認めるような理論的な誤りと、その押し付けの官僚主義の誤りが多々あったが故の、いわゆる鬼っ子としての「はみ出し」ブントの発生だったのである。上記のごとく「失敗」で崩壊したブントには、すでに雑多な「はみ出し」集団が合流していた。以後、「敗北」の残党から、革共同、中核、革マル、赤軍、などなど、魑魅魍魎の半気違い集団の分派の濁流、いわゆる「セクト」が発生し続けた。

 私自身は、もともと、いわゆるノンポリで、特に暗い左翼は嫌いだったのだが、多分、「敗北」の総括の直前であろうか、文学部の学生自治会の主流派の一部から、「社会主義学生同盟の再建に参加しないか」と誘われた。ところが、その連中には、単に暗いだけではなくて、私の目の前で、「あいつ、最近、生意気になったな。殴るか」などと打ち合わせるような間抜けなところがあった。だから、「こいつら、何を考えとるんか」と呆れて、取り合わなかった。今にして思えば、その後の「ゲバルト路線」への転落、堕落の傾向が、すでに露呈し始めていたのであった。

木村愛二の生活と意見 2000.11.16(木)
60年安保闘争40周年を生前葬にした元ブント書記長の告別式と献杯欠席の弁より)

マスコミ各社は「共同声明」で世論操作

共同宣言なるものを発表し、それまでの報道をくつがえし、論調を送転させた

 一九六〇年六月一五日、国会を取り巻いた平和な新劇人のデモ隊に右翼が殴りこみ、警察官も報道陣に暴力を振った。たしかに、一部の学生が国会に乱入したが、そこでも、死んだのは無防備の女子学生であり、警棒をふるったのは、ふだんから柔剣道できたえている警官隊であった。

 ところが、三大紙を含む七社が、異例の共同宣言なるものを発表し、それまでの報道をくつがえし、論調を送転させてしまった。政府の強行採決という手段への批判は影をひそめ、喧嘩両成敗の雰囲気がつくられた。

 文筆を業とする人々が、いかに巧妙に、「依ってきたる所以を別として」しまい、時の焦点をすりかえるものか、その全文を掲げる。

 共同宣言

   暴力を排し
     議会主義を守れ

 六月一五日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった。われわれは、日本の将来に対して、今日ほど、深い憂慮をもつことはない

 民主主義は言論をもって争わるべきものである。その理由のいかんを問わず、またいかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて事を運ばんとすることは、断じて許さるべきではない。一たび暴力を是認するが如き社会的風潮が一般化すれば、民主主義は死滅し、日本の国家的存立を危うくする重大事態になるものと信じる

 よって何よりも当面の重大責任を持つ政府が、早急に全力を傾けて事態収拾の実をあげるべきことはいうをまたない。政府はこの点で国民の良識に応える決意を表明すべきである。同時にまた、目下の混乱せる事態の一半の原因が国会機能の停止にもあることに思いを致し、社会、民主の両党においても、この際、これまでの争点を暫く投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力することは、国民の望むところと信ずる。ここにわれわれは、政府与党と野党が、国民の熱望に応え、議会主義を守るという一点に一致し、今日国民が抱く常ならざる憂慮を除き去ることを心から訴えるものである

     日本経済新聞社  毎日新聞社
     東京タイムズ社  朝日新聞社
     東京新聞社    産業経済新聞社
     読売新聞社    (イロハ順)

(『読売新聞』一九六〇年六月一七日付)

『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(1979年)「共同声明」で世論操作より)


「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期 木村愛二氏の証言

1960年 戦後学生運動第5期その3
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gakuseiundo/history/history5_3.htm

 目の前で、警官の「掛かれ!」の号令、樫の警棒に頭を割られた学生の隊列が、ドドッと重なって倒れてきたのです。

 当時の濱谷浩の写真集、『怒りと悲しみの記録』に関しては、「60年安保で惨殺された東大生樺美智子さんが現場から運ばれる姿を写した写真を収めた」との批評がありますが、40年後にロフトプラスワンでの60年安保40周年の出し物の際、拡大コピーしたものを、翌年、整理していたら、最初に、倒れたデモ 隊の中から、構内で樺美智子を抱きかかえて運んでいたのは、私でした。帽子などから、判断できます。私は、ラグビーもやっていたので、咄嗟に救い出したのでしょう。

 当時の同じ英文科同窓生で、学生自治会の委員の文章と回想によると、彼女は、当時、危険なデモには女子学生を参加させないことになっていたのに、当日、「許可を得た」と語っていたとのことです。当時は、男と女では、身体の作りが相当に違うので、ドドッと倒れた際に、下敷きになったのでしょう。彼女は、国会突入の方針を決定した場にいたはずですから、自分の責任を、そういう形で果たしたかったのでしょう。残された所見によると、圧死説が有力になります。

19時03分・・2台目の阻止車、門外に引き出される。後方にあった車2台も後ろへ押しやられ、学生がどんどん入る。放水効果なし。
官邸より第二機動隊二中隊が国会構内に入る。
東大本郷のデモ隊の中から「女性は危険だから後ろにさがるように」と2,3人が叫んだが、樺はこれを拒否し、みんなと行動を伴にする。


60年安保・その激動の軌跡(3)

http://www.ne.jp/asahi/karanohako/m.t/kiroku-anpo4.html

〔警察メモ〕
《17:45・・四機、3台で阻止。警官と学生の間3メ-トルある。
《17:54・・学生、トラックの先端に綱をつけ引っ張り始める。

《南通用門の内側を固めた前線の2台の警官輸送車のうち西側の1台に背広服の男(所属不明、16日朝日新聞に明瞭に写っている)が飛び乗り、3人がロ-プをかける。
1人は学生風、1人は 鳶職風
一番前にいた東大生「ロープは、車に向かって左側にかけろ。そうすれば車は引き出しやすい。」
ロープはバンバ-の中央に結びつけられたため、輸送車の角が西側の門柱に引っかかる。
ロープは直径約3センチ、あらかじめ用意とたものか、輸送車に積んであったものか不明。
ロープとともにチェ-ンが使われたという説もあるが不明。
ロープには多くの学生がとりつく。》



(毎日新聞 報道写真家 三留理男さんから写真寄贈より)

「鳶職風」「鳥打帽」が木村愛二。


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 警察病院の玄関にタイヤをきしませ、タクシーがとまったのは午前二時四十五分ごろ。料金を渡して外に出た教授は、玄関にたむろする人影に走りよって叫んだ。

 「デモで殺された樺美智子は、ここにいますか」

 教授はしっかりと問いかけたつもりだったが、その声はひどくうわずっていた。玄関にいた学生の一人は、「先生には悪いが、あのときの先生の声はまるで死人の声みたいで、ボクたちぞっとした」と述懐するが、教授を認めた学生たちは、口々になにか話しかけながら、教授をかこんだ。

 学生の多くは、樺美智子を知る東大文学部学生だった。樺教授がその後知ったところによれば、美智子の身許は、教え子の学生たちを案じて病院を訪れた東大農学部教授・古島敏雄が確認した。そのため、ふつう遺体の氏名は近親者の確認を待って発表するのだが、樺美智子の名前は両親より一足さきに公表され、友人たちもいち早くかけつけていたのである。

 が、そのような細部の詮索は後日のことである。学生たちは、樺教授の青ざめ疲れ、異常さを感じさせる姿に不安をおぼえた。お悔やみを述べるていでとりかこみ、玄関の外に押しだした。院内には警官もいる。そして、学生たちは警官にたいする怒りと恐れを痛感している。教授が悲しみと興奮のあまりに、警官にうちかかりでもすれば、こんどは教授自身が被害をうけると心配したからだが、教授はかすれ、かわいた声をわななかせながら、くり返し娘との対面を求めた。

 ようやく、「先生は大丈夫だよ」とだれかの声に、学生たちは教授を事務長室に案内し、樺教授は報道陣のカメラのフラッシュをあびながら、地下の霊安室におりていった。


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2000年5月末日、ジャーナリストの木村愛二氏が呼びかけるイベント「60年安保40周年記念・右も左もかかってこい!」のイベントに戦旗派代表の荒氏の名前があるではないか? これを見て私はぶっ飛んだ。3年前の事件以来プラスワンはこの両組織に出演依頼を控えていた。それも今回の問題のイベントは私が総合司会になっている。勿論S氏周辺が黙って居るわけがない。「復讐戦」は確実と思われた。しかし、私が気がついたときには、もうスケジュール広告は『ルーフトップ』、『噂の眞相』、『創』には入稿してしまっている。とても荒さんの不参加はあり得ない。この日のパネラー陣の面 々には右翼対右翼の又違った火種を抱えていた。これも私にとっては頭が痛い問題でもあった。

そんなややっこしい事をなんにも知らないイベント主催者・木村愛二氏は多分気軽に色々な立場の人に声をかけたに違いない。

何かあったのは事実のようですな。投稿者:いずみ 投稿日:2000/06/16(金)03時01分27秒
以下、平野席亭のBBSから転載君。

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控え室では護国団の石井さんと新右翼一水会の木村(三浩)代表が犬猿の中の様に喧嘩状態。ふてくされている木村(三浩)さん。
これはやばいな~、、と思って一生懸命二人をなだめる。
これで、4つのグループが喧嘩状態にあるなと思ったら、私も腹をくくるしかなかった。

とにかく、こんなイベント成立する訳がないはずだった。
ぼこぼこにに殴られていたのは少数派の2~3人。

昨日から私はこの会場で乱闘を、襲撃を起こさないために、警察の介入をふせぐべくいろいろ走り回っていた。今プラスワンは権力に狙われている。これで警察がはいったら営業停止、ガサ入れは確実に思えた。

私が司会に立って7時30分開始。店内は超満員。若い客が多い。これは素敵なことだと思った。
安保闘争を記録した名作ドキュメント「怒りを歌え」画面に流される中、冒頭私が喋り始める。
「もし、今日乱闘、暴力行為あったら、即座に今日のイベントを中止します。、、断固として暴力はやめ、、、、、」と言っているステージの隣でもう乱闘が始まっていた。

「こんな事、もう勘弁してくれ!」と言っているそばから、怒鳴り声と仲裁に入っている斉藤嬢(プラスワンブック担当者)「やめてください~」の悲鳴が聞こえる。
斉藤も本当に勇気がある。
「おめえが仲裁にはいても止められる訳がないのに、、」と思っていたが、、
「女子供はひっこんでいろ!」「何が女子供ですか!」と斉藤の声が聞こえる。あわてて駆けつけるうメゾ~と伸介。

やはり乱闘の側で酒を飲んでいた暗殺集団「護国団」の怖い面々。
「てめら~うるせ~」とそれはけんか慣れした右翼の面々が店側、斉藤やぼこぼこになぐられている連中を助けてくれた。
左翼?同士の乱闘を右翼の人たちが割ってはいる。これ不思議で時代は「変わったな~」と思った。こんな事過去にあったっけ。歴史的な一場面。

これはいつも思うのだが、少人数の乱闘は本当に右翼の連中は強い。
「なんじゃ~これ、、」と思いながら、ステージでは我かんせずのパネラーの乱闘を無視した話が続く。
パネラーの面々はこんな事平気なわけだ。
でも私は平気でなかった。もし死人でも出たら責任は私に、、本当に心中パニックっていた。

司会のわたしゃ~もう混乱してしまって、、何を喋っているのか解らず、とにかく宮崎学さんにふっちまえば少しは時間が稼げると思って
「では宮崎さんから、、、」と言ってマイクをふる。
それが一時間以上続いた。
中央客席は混乱もなくステージの話に聞き入っている。

実に不思議な光景だった。
半分の客は乱闘を見物、半分の客は我知らず「勝手にやれば!」とばかりにステージの話を聞いている。

いろいろな人の名誉?があるので詳しくは書けない。
私は立場があって詳しくは個々の団体の名前、詳しい状況は書けない。

せいじやイヌイは書けるわけだから、、、匿名で書いてもいいのでは?
私は双方に渡世の義理があってこれ以上は固有名詞でかけない。

最後に創篠田編集長が、「この乱闘もプラスワンらしくっていいんじゃない」と脳天気に言っていたのに腹が立った。
だって、この責任は全部私に来るわけだから。

もし、私が一客、一パネラーだったら、確かに面白く見物出来たに違いないとはおもうのだが、、、。

やはり、今日は酒を飲んで寝るしかない。
疲れた、今よっぱらっている。

我が愛する香織さんはじめ、心ある皆さんねぎらいの言葉を、、。

これが又、この今月まだやばいイベントがあと3つある。
長期休暇が欲しい。

もう、政治の世界はいや!
やはり、社会がどんなに悪くなろうとも俺の責任ではない!
脱政治に生きられるのはいつのことなのだろうか?

酔っぱらって疲れています、、。昨日のイベントの方がいいな~ただ無内容でたのしくって。

まだおじさんの憂鬱は続く。


「46年前の6月15日の国会南門突入に関しても、いずれ詳しく記す予定である。」と、2006.06.20辛口時評「615樺美智子追善デモ朝日記事に写った鳥打ち帽の因縁話」に記述がありますが、未完成です。実現するようなら、アップいたします。