木村愛二の生活と意見 2000年11月 から分離

60年安保闘争40周年を生前葬にした元ブント書記長の告別式と献杯欠席の弁

2000.11.16(木)(2019.6.17分離)

 今月、11.11.土曜日の午後、手帳には一応、元ブント書記長、島成郎(しげお)の告別式と献杯の二次会の日程を記していたが、やはり行く気になれず、欠席した。

見掛だけは立派な綺麗な封筒入りの案内への嫌気

 私は、もともとブントが嫌いである。特に人脈もなかった。ではなぜ、上記の日程を知ったか。簡単に言うと、今年の初夏、6.10.やはり土曜日に行われた元ブントらの呼び掛け人主催による1960年安保闘争40周年記念集会を伝え聞いて、取材が目的で主催者に連絡を取り、招待状を受け取って参加した。その継続で今回も、見掛だけは立派な綺麗な封筒入りの案内が届いた。しかし、もともと追悼の気持ちもなかったし、葬式を同窓会代わりに位置付けるとしても、会いたい気分になる相手が、まるでいないことが確実だと、自分の気持ちの上でも確認できたからである。

 上記の日程の双方ともに土曜日を選んでいる理由は、「全国」からの参加者の便宜を考えてのことである。島の死亡を報じた手元の短いベタ記事(『日本経済新聞』2000.10.18)によれば、島が「胃がんのため」死んだのは、1ヶ月近く前の10.17.である。記事には「告別式の日取りは未定」とあった。その「未定」の2文字を見た瞬間に閃いた予感が当たって、初夏の時と同じく、「見掛だけは立派な綺麗な封筒入りの案内」が届いたのである。「またか」と思った。

「見掛だけは立派な綺麗な封筒入りの案内」という表現は、われながら、いささか毒々しいが、上記の集会と告別式の事務方を務めた奥田は、神田の印刷会社の社長なのである。この種の仕事はプロ中のプロである。奥田個人についても、実物を見て確認したが、「元革命家」などと名乗られては革命が迷惑するような、デップリと太った古風な重役風だった。6.10.集会の会費は、何と、1万円だったから、私としても迷惑だった。

無責任な左翼政治ゴロの自作自演によるゾンビ生前葬

 島とは、上記の6.10.集会で始めて会った。二次会では偶々、島夫妻の真っ正面に座ってしまった。しかし、すぐに隣に、日本テレビ時代に迷惑した元ブントの跳ね返り、江田某が割り込んできたりしたから、島夫妻とは、ほとんど口をきかなかった。島は退院したばかりとのことだったが、顔色はまさに土気色で、まるでゾンビのようだった。豪華ホテルでのパーティは、会費の高さだけではなくて、内容も不愉快だった。事前に、島が昨年、『ブント私史』を出したことも知っていたので、島の自作自演による生前葬と、取り巻き組みの襲名式のゴッタ煮のようだと感じていた。何が元革命家かと胸糞悪くなった。

 最初から不気味な表現をしてしまったが、1960年安保闘争では、私自身が、まさに若気の至りの興奮の極に達し、国会に突入したのだった。オッチョコチョイの典型の私は、島のような無責任で陰険な左翼政治ゴロが大嫌いである。だから、病気だ、死亡だ、と知っても、まるで同情心が沸かない。むしろ、不愉快さが増すばかりである。告別式と二次会の日程を手帳に記した理由は、いわゆる取材が目的だったが、特に新しい発見ができるとも思えなかったのである。

 もっとも、私自身についても、決して、島らのような「無責任で陰険な左翼政治ゴロ」とは無縁な、別の世界の人種だと思っているわけではない。共通する嫌な部分があるからこそ、彼らの嫌な性格が理解できるのであって、いわば、その部分を切り落としたいような、衝動的で自己嫌悪にも似た激しい不愉快感を覚えるのである。

 6.10.集会で島に会う以前に私は、島らとは1960年安保闘争の「敗北」の直後に決裂したという経歴の現「社労党」委員長、林絃義(ひろよし)と、まずは電話で話した。林が拙宅に送ってくれた社労党機関紙『海つばめ』で、林自身が執筆した島批判の文章を読んでいた。林は、島が昨年出した『ブント私史』を「ブントの本質を示す」「醜悪」な「泣き言」などと、徹底的に、こき下ろしていた。林とは、その後、6.19.こちらも「全国」意識して日曜日を選んだ彼ら主催の1960年安保闘争40周年記念集会で会った。

 私は、うわべは穏やかだが見掛けほどには謙虚さもなく実は傲岸不遜な林の方も、好きにはなれない。島らに対してほどには激しい嫌悪感は覚えないが、個人的に付き合う気は起きない。一言で評価すると、彼が率いる集団は「隠れキリシタン」風の「独りよがり」、独善である。しかし、島らへの批判の文章に関する限りでは、表現の仕方は別として、事実経過の評価としては納得できる内容であった。

 ブントの発生経過、その分派の支離滅裂については、別途、まとめる予定である。実は、わが6.15.ロフトプラスワン「激論」のヴィデオ編集を兼ねて、かなりワープロ入力済みなのだが、取材と資料集めの予定が延び延びになっているのである。

有象無象、烏合の衆、魑魅魍魎、半気違いのゲバルト路線

 それもこれもで、今年も大変な年だった。年頭に、1960年安保闘争40周年の6.15.ロフトプラスワン「左右激論」の出演依頼を受けて、結局は、企画とヴィデオ資料編集にまで、のめり込む始末となった。それが上記の「取材」の原因である。そのシッチャカメッチャカの苦労の駄賃稼ぎ代わりに、もうひとつ思い切って言うと、結果として、1960年安保闘争と、日本共産党とブントと、ついには、その濁流の果ての最後のチョロリの日本赤軍「女帝」逮捕に至るまでの、有象無象、烏合の衆、魑魅魍魎、左翼だか右翼だか定かでない傲慢無礼な権力亡者で半気違いのド馬鹿の生態を、改めて観察し直す羽目に陥った。

 すでに別途、簡略には記したが、1960年当時に全学連の主導権を握っていたブントは、元日本共産党の学生党員を中心としていた。日本共産党の幹部の方に、ハンガリー動乱へのソ連の軍事介入を認めるような理論的な誤りと、その押し付けの官僚主義の誤りが多々あったが故の、いわゆる鬼っ子としての「はみ出し」ブントの発生だったのである。上記のごとく「失敗」で崩壊したブントには、すでに雑多な「はみ出し」集団が合流していた。以後、「敗北」の残党から、革共同、中核、革マル、赤軍、などなど、魑魅魍魎の半気違い集団の分派の濁流、いわゆる「セクト」が発生し続けた

 私自身は、もともと、いわゆるノンポリで、特に暗い左翼は嫌いだったのだが、多分、「敗北」の総括の直前であろうか、文学部の学生自治会の主流派の一部から、「社会主義学生同盟の再建に参加しないか」と誘われた。ところが、その連中には、単に暗いだけではなくて、私の目の前で、「あいつ、最近、生意気になったな。殴るか」などと打ち合わせるような間抜けなところがあった。だから、「こいつら、何を考えとるんか」と呆れて、取り合わなかった。今にして思えば、その後の「ゲバルト路線」への転落、堕落の傾向が、すでに露呈し始めていたのであった。

心情的な赤軍支持者のチョロチョロ発生とPLO周辺の独占

 日本赤軍「女帝」逮捕の直前には、まさに必然の偶然であろうが、私は、先にも、この「日記風」に記した通り、某アラブ国の記者と会った。その際、私は、PLOなどが日本赤軍派を英雄扱いしている間違い、厳しく言えば失敗について、「彼らの暴力主義は日本の平和主義者の間で人気がない」という主旨の穏やかな指摘の仕方をした。

 だから、「女帝」逮捕の記事を見た途端に閃いたのは、「またぞろ利用されているな」であった。というのは、嫌々ながら嫌いな名前を書くが、逮捕後に新聞でも報道された重信房子とやらの『人民新聞』への寄稿、「中東レポート」について、私は、昨年から知っていたのである。私は、『人民新聞』の編集部や発行人の身元に興味はないし、事実、全く知らない。1992年頃、カンボジアPKO出兵反対の市民運動で大阪に行った際、同席した記者から、私の個人新聞、『フリージャーナル』との交換を申し込まれ、以来、『フリージャーナル』に引き続き、『歴史見直しジャーナル』などの個人新聞と交換の無料で郵送を受けている。記事の見出し程度は一応見ている。この種の印刷物が公安警察の手に渡るのは常識である。当局は、『人民新聞』関係者の出入りを張り込んでいただろうし、かなり早くから、「女帝」の所在を突き止めていたに違いない。

 なぜ、この時期に逮捕したかについて、私は、当然、現在のパレスチナ内戦の状況を考える。もともと、パレスチナ問題に関して、日本では、PLOなどが英雄と勘違いした日本赤軍の存在が、かえって一般の理解を妨げてきた。テル・アヴィヴ空港で自動小銃を乱射した岡本某などは、半気違いの典型である。これだけでも、パレスチナ問題は、一般市民にとって鬼門となる。ところが、私よりも8歳ぐらい若い55歳の「女帝」と同世代の半気違いだけではなくて、その後も、心情的な赤軍支持者がチョロチョロ発生し続けていた。彼らはPLO周辺にヤクザ紛いの独占集団を形成し、不気味さを漂わせ続けた。

 その一方で、1960年当時に鬼っ子を生み落とした日本共産党は、赤軍批判のキャンペーンを張り続けたが、その割りには、ほとんど国際問題に取り組まない。結果として、PLO、もしくはアラブ人の方への日本の「左翼」世論は、混濁の度を増し続け、政治的シオニスト、またはイスラエル支持のロビーの操作に屈し続けている。

 であるからして、今回も、イスラエルの仕打ちのあまりの酷さに怒る日本人の気持ちを、再び攪乱するために、あの「想い出の日本赤軍」の再現を、当局が演出したのではないかというのが、私の直感である。少なくとも、結果として、そういう影響が出るであろう。困ったことではあるが、やきもきしても仕方がないから、ここで愚痴るだけとする。