編集長木村愛二の総合奧付@憎まれ愚痴

秘蔵写真館 だから右翼と言われる-鉄砲担いだ青春

18歳の春、1955年4月に防衛大学校3期生となった。中途退学したが、この経歴ゆえ右翼扱いされることしばしば。

秘蔵写真館 鉄砲担いだ青春

-だから私は右翼と言われるが-

1937年1月17日生まれの私は、18歳の春、1955年4月に防衛大学校3期生となった。
以下は、電網情報である。

■■ 防衛大学校とは ■■
(以下防衛大学校に関するホームページより引用)

http://www.kcc.zaq.ne.jp/
boei/bosyuu/
index_boudai.html

防衛大学校は、三浦半島東南端の小原台に位置し、西に富士の秀峰を仰ぎ、東に房総半島の山々を望み、眼下には紺碧の東京湾を見下ろす景勝の地にあります。

防衛大学校は、将来陸上・海上・航空各自衛隊の幹部自衛官となるべき者を教育訓練する防衛庁の施設等機関です。

教育訓練は、特に広い視野を開き、科学的な思考力を養い、豊かな人間性を養うことに留意して、その効果を総合発揮するよう計画実施されています。

学生の就業年限は4年間で、学年度は4月1日に始まり翌年3月31日に終わります。

 私が高校3年生の当時、国立大学の受験は、1期と2期に分かれていた。

 それ以外の日に受験できる国立大学には、商船大学があった。私立は学費が高いから、まったく度外視だった。

 防衛大学校は防衛庁管轄の国立だが、普通の文部省認可の大学ではないから、やはり受験日は別で、多分、商船大学と同じだったと記憶する。

 高校時代に模擬試験も何度か受けたし、高校の水泳部の先輩には大学受験に失敗して「浪人」中もいたことだし、「度胸試し」に1期と2期、防衛大学校を受けたら、これだけが合格だった。全部公費の全寮制で、1ヶ月に3,200円の月給が出る準公務員扱いだから、ともかく行ってみた。

 本音は親元を離れて、少年時代からの夢の長編時代小説を書くのに、好都合と思ったからだった。

 記念写真は、同期生数人と一緒に、休日、横須賀市の写真館で撮った。同期生の中には旧職業軍人の息子もいた。彼らは写真を親に送っていたが、私は「秘蔵」した。

 しかし、小説を書く時間はまったくなかった。朝から喇叭で起こされて、寝具を片づけ、上半身裸で外に飛び出し、乾布摩擦しながら、「号令調整!」「気を付け!」「前へならえ!」等々、授業の中には「訓練」もあり、課外活動に柔道部を選んだので、夕食を済ますと、すぐに眠くなる。

 小銃」とは言わずに、「ライフル」を「授与」されたが、空砲を撃っただけで、実弾を撃つ前に夏休みに入り、退学を決意したので、ついに実弾を撃つ経験なしで終わった。

 ライフルの分解掃除、組み立ての訓練も受けたが、砲身の中の空洞は錆びて傷だらけで、油を付けて磨くのが大変だった。

 朝鮮戦争で使ったものと聞き、同じ黄色人種の命を奪ったものと思えば、嫌になった。

 気を付け!、休め!、右向け右!等々、すべてアメリカ式、こりゃ、植民地軍じゃ、と実感したのも、退学決意の決定的な要因だった。

 だから、その後、一度落第して、いわゆる「2浪」で東大に滑り込んで以後、次第に「反米」、幼少期に叩き込まれた「鬼畜米英」の思想に戻ったのは、必然的な成り行きだった。

 「鉄砲担いだ青春」終わり。 木村愛二

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