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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第7章8

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第7章8) ファラオの世紀

 デルタ地帯は、新開地である。このあたりの干拓、灌漑工事は、統一帝国以後に本格化した、とされている。大工事には、ピラミッドや神殿の建設もあり、捕虜、外国人の徴用があった。

 少し時代は下るが、ヘロドトスはつぎのように書いている。

 「セソトリスは大陸を席捲し、アジアからヨーロッパに渡り、スキュティア人およびトラキア人をも征服……征服した国々の住民を捕虜として随え帰国……多数の捕虜を次のように利用した。この王の代にその意をうけて多数の巨石がヘパイストス神殿に運ばれたのであったが、これらの石を曳いたのは、捕虜たちであり、また現在エジプトにある運河はことごとく、捕虜たちが強制労働によって開墾したものである」(『歴史』2巻、P.103~108)

 このような、軍事遠征による戦時捕虜の連れ帰りは、何回にもわたった。そして、古代から中世にかけては、奴隷の大半は、オリエントやヨーロッパ大陸から供給された。

 紀元前約2千年以降、オリエント方面からヒクソスの侵入がつづいた。ばらばらな侵入の波に乗って、ついには、1世紀近くも、ヒクソス王朝が、デルタと中部エジプトを支配した。オリエント方面からの侵入の影響は、この間相当なものだったのであろう。たとえば、ヴェルクテールは、つぎのように強調している。

 「アジアからの強制が今後、エジプトの戸口を脅かし、そこにこそ、今や、あらゆるエジプト史を決定づけてゆく本質的な事実が存在するのである」(『古代エジプト』、P.94)

 文化史の上でも、この紀元前2000年頃は、ひとつの画期をなしている。

 牧畜文化、金属文化は、アフリカ大陸からひろがり、オリエントやユーラシア内陸に、遊牧民族の発達、人口増加をもたらした。紀元前2300年頃には、メソポタミアで、セム系のアッカド人が国家形成に達し、前2000年以後には、ヒッタイト人のアナトリア侵入もはじまった。馬、戦車の使用によって、騎馬民族の形成が進んだ。

 しかし、一方のアフリカ大陸は、紀元前2000年には、乾燥期に突入した。サハラの人口は急速にへりはじめた。そして、ナイル河谷は、アフリカ大陸の突出部となり、後背地から切りはなされ、孤立化への様相を呈しはじめた。

 人口増加の圧力は、従来とは逆に、オリエントからエジプトへと向きはじめた。ナイルの水量はへり、エジプトの国力は下向きになった。ヴェルクテールは「その数値的弱さが……エジプトにとって、余りに重すぎるハンディキャップとなる」、という点を指摘している。

 ヒクソスの支配は、紀元前16世紀になって、やっとくつがえされた。しかし、これにつぐ新王国(前1580~1200)は、以上の文化史的背景を反映して、まさに国際化時代となる。たとえば、オリエント史学者の板倉勝正は、つぎのように書いている。

 「トトメス4世がミタンニ王女ギル・ヘパをめとったとき、彼女は317人のミタンニの女官を引きつれてやってきた。この結婚から生れたアメン・ホテップ3世はミタンニ王女タドゥ・ヘパをめとっている。

 当時の絵画・彫刻が明らかに示しているように、((上エジプトにあった))首都テーベは世界最古のコスモポリスとなった。クレタの商人、シリア人の捕虜と奴隷、フェニキアの船乗りたち、黒人兵、リビアの兵士たち、さらにさまざまの衣装をつけたハッティ、ミタンニ、バビロニア、アッシリアなどの国々の使節たちが、波止場を市場を街上を、あるいは徒歩であるいは輿に乗って往来していた」(『アマルナ革命』、P.127~128)

 序章で紹介したメレネプタ王墓の人種壁画は、この新王国の、しかも最も後期のものだった。壁画に描かれたのは、この国際化時代の王族である。本来のアフリカ人と、少しくらい形質を異にし、肌色がうすくなっていても、全く不思議はない。むしろ、まだまだアフリカ的だ、と評価すべきであろう。

 この時期の典型をなすアメンホテップ4世、またの名をアクン・アトン(前1370~1352)は、「アマルナ革命」とよばれる宗教改革を試みた。太陽神アトンの一神教が強制された。この一神教の思想は、ユダヤ・イスラム・ゾロアスター教のように、セム的ないしオリエント的背景を持っている。古代エジプトのアフリカ的伝統は、宗教的にもくずれようとしていた。そして事実、この王朝期には、ミタンニやヒッタイトの内政干渉がみられた。当然、オリエントからの侵入は、はげしくなった。

 第19王朝(前1320~1200)末期には、シリア人のファラオも出現した。地中海岸には、国籍不明の「海の民」が出没し、エーゲ海諸国を掠奪し、リビア方面からナイル河谷にも攻めこんできた。

 これにつぐ時代は、デカダンス(前1200~330)とよばれている。アッシリアの侵入が、何波にもわたってつづいた。第25エチオピア(クシュ)王朝は、アフリカ大陸の内部からの、最後の反撃であった。この王朝は、人種形質上のバランスをいささか回復したかもしれない。しかし、アッシリア、つまりオリエント勢の攻撃は、やがて効を奏し、エチオピア人(アイティオプス)の一族は、アフリカ内陸へと撤退した。撤退したのは、エチオピア(クシュ)王朝の王族だけではない。ヘロドトスによれば、こののちの第26王朝期に、「エジプトの士族であった……24万のものたちが、王にそむいてエチオピア側に走った」。この士族たちも、おそらく、エチオピア人の直系だったのではないだろうか。

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