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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第7章7

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第7章7) モンタージュ

 ヨーロッパ系の人類学者、歴史学者は、「混血といってもほとんどとるに足らない」、という考え方を表明している。

 しかし、数字的に根拠を示した文章は、全く発見できなかった。わたしの考えでは、これも証拠をかくすという、一種の偽証行為である。資料を一番沢山握っていたのは、ヨーロッパ系の学者自身だった。セネガル人のディオプや、アフロ・アメリカ人の歴史学者たちが、それらの資料を活用できるようになるまでには、ヨーロッパ人の「地理的発見」以来、500年近い年月が流れた。

 わたしにできることも、当然、限られている。しかし、過去を復元する方法はあるのだ、ということだけは、示しうると思う。簡単なスケッチを試みて、今後の専門家による研究を期待したい。

 まず、古代社会を考える上での根拠を、古代アテネの人口構成に求めてみよう。エンゲルスは、つぎのように書いている。

 「その最盛期には、アテナイの自由市民は、女も子供もあわせて総数約9万人からなっており、それとならんで36万5千の男女奴隷と、4万5千の保護居留民――外国人と解放奴隷――とが存在していた」(『家族・私有財産および国家の起源』P.154)

 この数字から、一般に、外部から侵入する征服民族の比率は10%ぐらいなもの、と推定されている。わたしも、この考えを採用する。また、保護居留民などがやはり、10%程度であることも、参考になる。外からつれてくる職人や奴隷を、この数字で考えてみたい。

 さて、ヴェルクテールは、ギリシャ・ローマの古記録などにもとづいて、古代エジプトの本拠地の人口を、最大限700万人とふんでいる。ヘロドトスは、武士階級を約40万人としている。王族、貴族、神官その他もあり、家族も含めれば、支配階級は、10%をこえていたであろう。

 一方、ヘロドトスによれば、ギリシャ遠征を行ったクセルクセスのペルシャ連合軍は、「陸上部隊の総数は170万に上った」、とされている。オリエント・エジプトの戦争では、百万前後の軍勢が組織されたと考えられる。

 以上の数字から、古代世界の中心地であったエジプトに、何らかの、捕虜、移住、侵入などにより、1世紀に1割の流入があったと想定しても、決して過大ではないだろう。紀元前の3000年間、つまり30世紀の間に、そのような機会を、10回と考えてみよう。

 1回で、もとからのエジプト人の血統、または人口比率は、10分の9になる。10分の9を10乗すると、0.3486784701、つまり35%以下となる。クシュ王朝などの、南方からの進出もあるが、ほぼ半々にはなりそうである。

 では、歴史上の事実はどうだっただろうか。

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