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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第7章4

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第7章4) ファラオの一族

 古代人の証言を、正しく解釈するならば、クシュとエジプト、もしくは、アイティオプスの本拠地と、ナイル河谷の前進基地とは、永らく兄弟のような関係を保っていた。エジプト人は、エチオピア人(アイティオプス)がファラオの座につくことを、公式に認めていた。そのことをヘロドトスは、直接的にではないが、たしかに書きとめている。

 ヘロドトスは、エジプトの神官から、歴代のファラオの業績を聞いて、くわしい記述をのこしている。その冒頭部分はつぎのようになっている。

 「祭司たちは一巻の巻物を開き、それによってミン以後の330人の王の名を次々に挙げた。このおびただしい数に上る世代にわたって、18人はエチオピア人で、唯1人だけ生粋のエジプト人の女性がおり、他はすべてエジプト人の男子である。」(『歴史』、2巻、P.100)

 このように、「他はすべてエジプト人の男子である」、と断言されている。ところが、実際に王名表を研究すると、ヘロドトスがエジプトを訪れる以前にも、沢山の外国人王朝があり、外国人のファラオがいた。ヒクソス王朝、シリア王朝、リビア王朝などがあった。しかし、エジプトの神殿の公式記録は、その事実を否認しているわけだ。つまり、「エチオピア人」は別格扱いだが、その他の侵入者による王朝の歴史は認めない。外国人のファラオをいただくことは、国辱と思っている、と解釈する以外にない。従来のエジプト史学者は、このヘロドトスの文章に、何らふれていない。これ以外の解釈しか成立しないために、放置しているのではないだろうか。

 また、従来のエジプト史学者によれば、第25クシュ(エチオピア)王朝の5人のファラオ以外には、第13王朝のネヘシィだけしか、クシュ出身とされていない。つまり、6人である。ところがヘロドトスは、「18人はエチオピア人」と書いているのだから、差引き12人の、エチオピア人のファラオが行方不明である。この謎もよくわからない。だが、古代エジプトの王朝再建者は、ほとんど上エジプト、つまり、クシュ帝国またはエチオピア人の本拠地に近い方から出現している。このあたりに、謎を解く鍵がありそうだ。

 背景には、強力な長弓隊の軍事力もあったであろう。これはあらゆる証拠が示している。しかし、日本の例でいうと、徳川御三家のようなファラオの一族が、エチオピア人の中にいた可能性もある。宗教的に南方が尊ばれていたことも、その傍証となるだろう。

 さて、ヘロドトスはもうひとつ重要な証言をしている。これを正しく解釈するならば、クシュ人またはエチオピア人の弓兵隊が、「奴隷兵」などではありえないことが、はっきりする。ファラオは、弓兵隊の伝統を、誇りとしていたのである。

 たとえば、第12王朝の対外進出は目ざましいものであった。とくに第5代のファラオ、セソトリス3世(前1887~1850)は、アジア・ヨーロッパに遠征し、史上最大の帝国をうちたてた。ヘロドトスは、このファラオの足跡について、こう書いている。

 「エジプト王セソトリスが各地に建てた記念柱は、大部分失われて残っていないが、私はパレスティナ・シリアで現存するものを幾つか見た。……またイオニア方面にも岩壁に浮彫にしたこの人物の像が二つある。……その男は右手に槍を、左手には弓をもち、その他の服装もこれに準じている。というのは、つまり一部はエジプト式、一部はエチオピア式の服装をしているという意味である。そしてその胸部には、一方の肩から他方にわたって、エジプトの神聖文字で記した碑銘が刻んであるが、その意味は、

 『われはこの地を、わが肩によりて得たり』

というものである。」(『歴史』、2巻、P.106)

 この二つの人物像は、ファラオそのものを刻んだものだ。ファラオの「左手の弓」と「エチオピア式」の服装は、ファラオがエチオピア(クシュ)をエジプトと同格に重んじていたことを示す。また、弓兵隊の地位の高さをも示している。しかも、第12王朝自体が、エチオピア(クシュ)の王族によって開かれた可能性さえ、暗示している。

 このような、古代人の「エチオピア」観というものは、旧約聖書の章句にも、はっきり刻みこまれている。エチオピア(クシュ)王朝は、当時アッシリアの支配下にあったオリエント諸国の叛乱に、手をかした。この次第が、『イザヤ書』に、つぎのように記されている。

 「ああ、エチオピアの川々のかなたなる、ぶんぶんと羽音のする国、この国は葦の船を水にうかべ、ナイル川によって使者をつかわす。とく走る使者よ、行け。川々の分れる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民へ行け。……力強く、戦いに勝つ民から、万軍の主にささげる贈り物を携えて、万軍の主のみ名のある所、シオンの山に来る。」(『イザヤ書』、18章)

 これと同様な、エチオピア人の軍勢の来援に関する記憶は、ギリシャ人の神話にもとどめられている。すでに紹介したように、『アィティオプス』5巻は、『イーリアス』の原型とも考えられている作品である。ここでは、「エチオピアの王メムノーンが、ヘーパイストス神の造った鎧を身につけてトロイエー援助にやってくる」(『ホメーロスの英雄叙事詩』、P.37)

 ヘーパイストスは、「ギリシャの火と鍛冶の神。……自分の宮殿に仕事場をもち、オリュンポスの神々の宮殿はすべて彼の造ったもの」(『ギリシャ・ローマ神話辞典』)、というのだから、これも面白い。エチオピア人と、鍛冶の神、つまり金属生産とが結びつけられている、とも解釈できる。

 クシュ王朝は、アッシリア勢の侵入に際して、エジプト再統一のために立上がった。そして、アッシリアの侵入を再三うちやぶった。わたしはその背景として、メロエにおける大量の鉄生産を考えるべきだと思う。

 ところが、イギリスのアーケルなどは、クシュ王朝が、何度もアッシリア勢をうちやぶったことを、全く無視している。そして、「アフリカ史の曙」の中では、アッシリア人は鉄の武器を持っていたので、「クシュの部族民の原始的な武器は、鉄の武器を前にしては何の役にも立たなかった」、などと断言している。「部族民の原始的」、という表現もさることながら、アーケルのたくましい想像には何の証拠もない。

 逆に、クシュ王朝のはじめの勝利こそ、大量の鉄の武器に帰せられるべきである。また、アィティオプスの長弓隊は、「原始的」などころか、騎馬武者隊への、おそるべき対抗手段であった。鋭くとがった鉄のヤジリをつけた重量のある矢は、うなりを発して、疾駆する騎馬武者をおそったにちがいない。事実、中世ヨーロッパでは、農民兵による長弓隊の編成が重要視され、それが小銃隊に移行している。アーケルの説明は、その点でも全く意味をなさない。

 クシュ王朝期のエジプトが、アッシリアに対抗しきれなかった理由は、旧約聖書の章句が語っている。イザヤ書第18章は、すでに紹介したように、クシュ(エチオピア)の軍勢の来援をつたえ、第20章は、「エジプトびとのとりことエチオピアびとの捕われ人とは、アッスリアの王に引き行かれて」、という敗北の情景を描写している。そして、その中間の第19章は、つぎのように、ナイル河谷の天災による凶作を物語っている。

 「ナイルの水はつき、川はわれてかわく。またその運河は臭いにおいを放ち、エジプトのナイルの支流はややに減ってかわき、葦とよしとは枯れはてる。ナイルのほとり、ナイルの岸には裸の所があり、ナイルのほとりにまいた物はことごとく枯れはてる。ナイルのほとり、漁夫は嘆き、すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、網を水のおもてにうつ物はことごとく枯れ、散らされて、うせ去る。漁夫は嘆き、すべてナイルにつりをたれる者は悲しみ、網を水のおもてにうつ者は衰える」(『イザヤ書』、19章)

 ナイルはかれる。アッシリア勢はせめよせる。まさに内憂外患である。アフリカ大陸の悲劇は、このように、乾燥期の襲来をぬきにしては語れない。たとえば、古代エジプトの税金は、ナイルの水の高さによってきめられた。水がへり、沙漠がひろがり、同時に、ファラオの一族たるエチオピア人の後背地が遠のいていった時に、オリエント勢の侵入は、本格化しはじめた。

 では、それまでの古代エジプト人は、果して、黒色人の特徴を保っていたであろうか。いよいよ、最初の謎にとりかかる時がきた。果して、どれほどの証拠を、みつけることができるであろうか。

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