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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第7章1

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第7章1) 定着者たち

 古代人の証言は、近代のオリエントエジプト史学者の主張とは、全く反対のことをつたえていた。

 ローマ時代の学者、ディオドロス・シクロス(前63~後14)は、『世界の歴史』の中で、つぎのように書いていた。

 「エチオピア人の言によると、エジプトは彼らの植民地であって、オシリスがそこへ((エチオピア人の一派である))エジプト人を連れていったのである。彼らによると、エジプトの国土は、この世のはじめには、海でしかなかった。しかし、そこへナイル河がエチオピアの泥土を大量に押し流し、ついには埋めたてて、大陸の一部としたのである……彼らはそれにつけ加えて、エジプト人たちは、彼ら((エチオピア人))をエジプト人の創造者であり、先祖であり、エジプトの王たちの偉大な一族だと信じている、ともいう」(『黒色人文明の先行性』、P.38)

 ヘロドトスも、やはり、エジプト人は、現在のスーダンにあったクシュ帝国のことメロエから来たらしい、と書いていた。クシュというよび名はエジプト人がつけたもので、エチオピアともよばれた。本当の国名はわからない。

 地質学的な研究によって、たしかに現在のエジプトの大部分は、紀元前4、5000年ごろには、一面の大きな入江または湿原であったことが、たしかめられた。エジプトへの植民が、上流地帯からなされたことは、うたがう余地がなくなった。

 いまだにエジプト人がオリエントから来た、と主張しつづける学者は、アラビア半島経由で、上エジプトに移住したのだ、という大変に苦しい説明をしている。

 ところが、この苦心の修正をほどこしたオリエント起源説は、またしても、考古学的出土品によって、否定されることになった。現在のスーダン北部から、エジプトの南部にかけてを、ヌビアとよんでいる。エジプト史学者の鈴木八司は、ヌビアに関する最近の研究にもとづいて、つぎのように書いている。

 「ヌビアにおけるナイル河畔の定着民がいつごろ出現したかは明らかではないが、エジプトと同様に紀元前5000年頃には、農耕・狩猟・漁撈などの手段を混合した民族が定住生活の営みを開始したと思われる。紀元前4000年ごろには明確に定住民が出現しており、彼らは当時の上エジプト人と同人種で、相互に交易もし、文化様相も似ていた」(ナイルに沈む歴史)、P.196)

 つまり、スーダンの住民と、古代エジプトの中心となった上エジプトの住民は、同じ人種、同じ民族であった。ディオドロス・シクロスの証言は、ここでも裏付けられた。さらに、このあたりの初期の定着民は、ナイルのみなもと、イシャンゴ文明のそれと似通った、骨製の銛を用いていた。1963年の調査では、ヌビアから、20個ほどの骨製の銛の破片が出土した。その銛が埋もれていた地層の、一番上の部分は、紀元前5110プラスマイナス120年、と決定された。

 現在のスーダンの首都ハルツームからも、同種の骨製の銛が発見され、紀元前5060プラスマイナス450年、と決定された。もっと上流からも、ぞくぞく似たような結果がでるであろう。

 これに対して、オリエントからエジプトへの移住を主張する学者は、何らの物的証拠をも提出していない。古代人の証言をやみくもに否定し、しかも何らの証拠も提出できなかったのだから、これは重大である。

 わたしの考えでは、すでにのべてきたことから明らかであろう。ナイル河谷の住民は、中央アフリカから、流れに沿ってくだってきた。さらに、サハラに進出したグループも、乾燥期にはいって、ナイル河谷に合流した。クシュ(エチオピア)帝国も、古代エジプト帝国も、アフリカ人の国家である。

 クシュ帝国については、くわしい本もでているので、ここでは、古代エジプトとの関係だけに焦点をしぼって、従来の研究の問題点を指摘するにとどめたい。

 まず、多くの学者は、古代エジプトがスーダンを征服し、文化をつたえた、と主張している。それには、何らかの証拠があるのだろうか。 

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