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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第7章3

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第7章3) 建築様式

 エジプトの建築様式が、クシュ帝国の故地に散在する事実を、古代エジプトによる、スーダン征服の根拠にあげる学者もいる。

 しかし、明治時代の日本では、イギリスのヴィクトリア朝風のビルが沢山つくられた。もとも、建築様式ほど流行をとりいれやすいものはない。また、石工や建築家は、古代から、渡り職人の最たるものである。しかも、建築された年代が確定していないものが、クシュの故地には沢山あるので、本当はどちらが先なのかも、よくわからない。相互に影響し合ったのかもしれない。

 それはともかく、クシュ帝国では、エジプトの様式がみられる前から、独自の文化も発展していた。その点について、コルヌヴァンは、つぎのように書いている。

 「その起源はどうであれ、このクシュの王国は、エジプトがこの国との接触をはじめた、紀元前二千年紀のはじめには、ケルマにおけるライスナーの発掘(1923年)によって示されたように、洗練された物質文明の持主であった。エジプト式の墓石のとなりには、ちがった型の墓地がある。その中のひとつには、土着の王公が、二百人の女性と子供たちに取りかこまれて、葬られていた。寝台はエジプトの型ではなく、象牙細工で飾られていた」(『アフリカの歴史』、P.81)

 このような墓の形式は、もしかすると、ザイールのシャバ州から発見された、「幾マイルにものびる墓地」のそれと、つながりがあるのかもしれない。

 また、クシュ帝国の古都メロエの周辺に、浴場の遺跡があることを、その建造年代もはっきりしていないのに、ギリシャ・ローマの風習をとりいれた、と説明している例がある。しかし、浴場は、ギリシャ人やローマ人の専売特許ではない。それよりも早く、紀元前三千年期の、インド黒色人によるインダス文明にも、浴場の遺構が見られた。これは、ギリシャ人やローマ人の影響ではありえない。

 また、ヘロドトスがつたえているように、エチオピアの「長命族(マクロビオイ)」は、鉱泉に入浴する習慣を持っていた。もしかすると、中央アフリカの火山帯における、温泉・鉱泉の利用が、人工の浴場へと発展したのかもしれない。

 以上の点に関しては、わたしのうたがいすぎがあるかもしれない。しかし、これまでの研究の傾向を考慮にいれると、決定的なデータが提出されるまでは、疑い続ける必要がある。

 さらに、一番の問題点は、その先にある。つまり、建築様式の比較が、その他の文化の伝播の説明にまで、エスカレートしていることである。このエスカレーションはまことに理不尽である。日本女性がパリ・モードを着こなしていれば、日本のイネの栽培まで、フランス直輸入ときめつけるような論理には、とても、付き合いきれない。

 ところが、この理不尽な先入観念は、アフリカのあらゆる文化の外来起源説の、骨組みとなっている。たとえば、メロエの神殿のそばにある、高さ10メートルもの、二つの鉄の鉱滓の山の評価にも及ぼされている。シーニーは、「メロエの有名な鉄鉱業のくずである鉱滓(スラグ)の……小山の下に何があるかは、今後の発見にまたなければならない」、と書いている。つまり、メロエの鉄生産の起源については、ほとんど調査されていない。

 ところが、ほとんどの学者が、鉄器文明のオリエント起源説にもとづいて、メロエの製鉄のはじまりは、ギリシャ人傭兵隊の侵入以後であるという。そして紀元前591年以後、などという細かい数字まであげて、断言してしまっている。まことに信じがたいような、そして、由々しき事態であるといわねばならない。

 さらに、文化の問題だけではなく、この先入観念では、クシュとエジプトの、政治上のむすびつきの解釈にまで、はたらいている。古代エジプトの軍隊では、クシュ人もしくは、アイティオプスの弓兵隊が、重要な一翼をになっていた。この弓兵隊を、「黒人奴隷兵」と表現している学者が多い。まずは、政治的に、クシュとエジプトの間柄は、どんなものだったであろうか。

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