『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章11

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

マクロビオイ

 先ず写真をみていただきたい。これは、紀元前15世紀に、プーント延性をした古代エジプト人が、神殿に、その遠征の模様を報告した壁画の一部である。


(『黒色人文化の先行性』より)

プーントの王とされている真中の人物は、いやに顔が大きく、極端な胴長である。これはどういうわけだろうか。わたしも、最初は全く意味がわからなかった。腰をかがめて臣従の礼をとっている形にしたのかな、などと考えていた。しかし。それにしては、右手の男が棒を持っているのが気になる。どうにも解釈のしようがない。

 ところが、古代エジプトの美術様式についての説明をよんでいたら、この謎がとけた。古代エジプトの絵画や浮彫り、群像の彫刻や塑像などでは、立っている人物の頭部の高さを、同一線上にそろえることになっていた。だから、この不思議なプーントの王の肖像は、腰から下をデフォルメされたのであろう。これは、背の高い巨人だったにちがいない。遠征隊の記録係として同行した芸術家は、そのプーントの王を、リアルにつたえたかった。しかし、頭部をそろえる習慣を、くずすことはできない。そこで、もっとも簡単な、脚部の描写を犠牲にしたのだ。これ以外に、合理的な解釈は成りたたないだろう。

 さて、つづいて、ヘロドトスの証言があらわれる。ギリシャ人は、エチオピア人の中に、とくに背が高い人々がいることを知っていた。そしてその人々を、「長命族(マクロビオイ)」とよんでいた。ただし、このマクロビオイの語源については、長命に由来するものではなく、長弓をよくひくことに由来する、という説もある。しかし、一方のピュグマイオイ(ピグミー)が、肘の長さの人、の意とされていることから考えると、背の高い人、の意ではなかろうか。それとも逆に、ピュグマイオイの方が、短弓を得意とする人、の意だったのであろうか。

 このへんの事情はよくわからないが、いずれにしても、マクロビオイとピュグマイオイという単語は、対になっていたにちがいない。それゆえ、ついでながら、ヘロドトスの『歴史』の中から、「小人」に関する記述をひろい集めるのには、非常に熱心な姿勢を示すヨーロッパ系の学者たちが、マクロビオイを無視しているのは、奇妙といわねばなるまい。マクロビオイに関するくだりの方が、何度もでてくるし、非常に具体的なのだ。

 たとえば、古代エジプト第27王朝を開いたペルシャ王カンビュセスは、紀元前6世紀末、さらにナイル河上流域の征服をくわだてた。そして、まず、手始めに、使節をよそおったスパイを送りこんだ。

 ヘロドトスは、ことの次第を、つぎのようにくわしく物語っている。

 「カンビュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。……エチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。『……この弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシャ王に忠告する。ペルシャ人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。』

 エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。

 ……寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。この泉は菫のような芳香を発していたという」(『歴史』、3巻、P.20~23)

 ここでまず面白いのは、背の高い男が王位継承の資格をもっていることだ。アフリカの王国は、ほとんど女系である。男の王は、軍事指導者である。そして、女系の血統の中から、選挙でえらばれる。多くの場合、選挙に敗れた男とその一派は、王国を立ち去るか、あるいは紛争をさけるために殺されてしまう。なお、この殺し合いを「未開」の証拠のように表現する学者もいるが、ヨーロッパや日本の中世期にも、全く同じことをしている。国民を捲きこまないで解決するアフリカ方式は、むしろ、より人間的である。

 さて、このような制度があったため、マクロビオイの直径の子孫は、ますます背が高くなった。背の低い男は、王位継承権が認められず、不満を抱きながら、別天地を求めて去ったにちがいない。わたしの考えでは、現在の巨人、ワッシ民族は、エチオピア人のなかでもとくに背の高いマクロビオイの、直系の子孫である。

 さらに、長寿の説明も、合理的である。中央アフリカ一体には、火山、温泉が多いから、つじつまも合う。コーカサス山中や、ヒマラヤのブータン王国などに、同様の長寿者が多いことを考えれば、あながち誇張とばかりはいえまい。

 ヘロドトスは、さらにつづけていう。「カンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることも考えてもみなかった」。

 カンビュセスの軍勢は、このため、途中の沙漠地帯で糧食が切れ、その果てには、とも喰いさえはじまり、やむなく撤退したという。

 では、ここで「地の果て」、表現されているマクロビオイの国は、果して、現在の、ワッシ民族の居住地のあたりにあったのだろうか。

 ヘロドトスは、別の章で、「リビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの『長命族(マクロビオイ)』」、という表現をつかっている。ここでいう「リビア」とは、アフリカ大陸のことである。つまり、アフリカ大陸の南の海岸地帯にいた、といっているわけだ。だが、この「南の海」は、ヴィクトリア湖のことであろう。例のサッド、つまり、スーダン南部の沼沢地帯ではないか、と書いている学者もいるが、それでは、温泉の説明ができない。しかも、すでに紀元前8世紀には、古代エジプト帝国は、ヴ

 スーダン北部に根拠地をもち、第25王朝を開いたクシュ帝国は、ピアンキ(前751~716)の時代に、「北は地中海から東は現在のエチオピア国境まで支配下においたが、それはアフリカ大陸の4分の1におよぶ広さであった」(『アフリカ美術探検隊』、P.126)

 これはいいかえると、ナイル河流域を、水源湖にいたるまで制圧したことでもあり、当時の世界で最大の帝国となったことでもある。その証拠は石碑に残されており、歴史の諸委細はわからないとしても、ウガンダや、ルワンダ、ブルンジのあたりが、孤立した辺境ではありえないことをないか証明している。

 つぎに、ディオプの研究には、写真のような、ワッシ民族の髪型が紹介されており、ラムセス二世(前1298~1232)像の頭部デザインと比較されている。ディオプの主張の重点は、これらの小円を配置した頭部デザインが、「黒色アフリカ人の縮れ髪の髪型に由来する」、というところにある。この指摘もいろいろと興味深い論争点を含んでいるのだが、賛成の意だけを表して、本書では割愛する。

ワッシ民族の髪型とラムセス二世像の頭部デザイン
(『黒色人文化の先行性』より)

 古代人の髪型は、日本の武士階級のチョンマゲのように、強い伝統をもっていた。髪型の一致は、民族的なつながりを推定する上でも、重要な論拠とされている。ラムセス二世の祖父であり、第19王朝の始祖であるラムセス1世と、第二代セティ1世とは、ヴェルクテールによれば、ともに「弓隊隊長」の経歴を持っている。そして、古来から、エジプト帝国軍には、クシュ(エチオピア)出身者の弓隊が重要な一翼をなしていた。この結びつきも見逃せない。おそらくクシュ帝国は、早くからウガンダあたりと、つながりをもっていたのであろう。

 さて、古代エジプトは、上下、または南北の二重王国制をとっていた。この二重王国制は、ソロモンの国にもみられた。そこでは、北のイスラエル王国と、南のユダヤ王国とにわかれていた。この二重王国の原理は、どこで、どういう理由で発生したものであろうか。

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