『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章4

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

中世の古城

のみなもとより南方の遺跡としては、年代が確定した唯一のものだ。ジンバブウェとは、土地の言葉で、石の家の意である。そして、ローデシアからザンビア、ボツワナにかけてはジンバブウェとよばれる遺跡が、なんと、300から400ヶ所もある。そして、その中の最大のものだけが、大ジンバブウェとして紹介され、観光ルートにはいっている。

 大ジンバブウェの構成は、相当に複雑だ。まず、120メートルの高さの、花崗岩の岩山があって、その上に城郭があり、中には、ヤグラがある。山の下の平地には、楕円型の城壁がめぐらされている。そして、山上の城郭と、平地の城壁との間には、複雑にいりくんだ石壁がつながっていて、沢山の石造家屋のあとがある。

 この古城は、かつてモノモタパ帝国の名で知られた広大な帝国の、首都のひとつだった。この帝国には、ローマ帝国から神聖ローマ帝国へのうつりかわりにも似た、何度かの、主導権の移行がみられるが、その点は省略する。ともかく、この古城に首都がおかれていたころ、アラブ人やポルトガル人が訪れた際の、記録ものこっている。

 アラブ人やポルトガル人が訪れた、ということは、つまり、中世または近世の話である。紀元前6000年ごろのルヴェンゾリ大爆発から、いきなり、中世に話がとんで恐縮だが、この大ジンバブウェに関する、ヨーロッパ系の学者の姿勢を知っておいてもらうと、ほかの古代遺跡の紹介がしやすいのである。

 大ジンバブウェは、長らく廃墟と化していた。そして、1868年に、アメリカ人の狩猟家の眼にとまった。そのころのアメリカ人やイギリス人は、アラブ人やポルトガル人が書きのこした記録の存在を、全く知らなかった。だから、この古城の主たちが、黒色のアフリカ人だったとは露知らず、研究をしはじめた。

 すでに、フェニキア人とタルシシの船隊の話はしたが、旧約聖書はさらに、豊かな金の産地、オフィールの名を記していた。最近になって、フェニキア文字で、「オフィルの金」と刻みこまれた大きな瓶も発見されているし、実在した国か都市などのよび名にちがいない。

 19世紀には、アメリカでも、ゴールド・ラッシュが起きており、謎の金産国オフィールに対する関心は高かった。だから、大ジンバブウェの発見は、すぐに、古代のオフィールにむすびつけられた。1891年には、イギリス軍がローデシアに攻め入り、大ジンバブウェの周辺を占領した。そして、指揮官は、つぎのような電報を、本国に送った。

 「いまやイギリス人は、オフィールの国に到着し、古代の宝庫をふたたび開かんとしている。われわれは、かつてソロモン王が象牙の玉座を渡金し、神殿の杉の柱を飾った黄金に、ヴィクトリア女王の姿を刻むことになるであろう」

 簡単にいうと、女王の浮き彫り入りの金貨を、沢山つくれるようになる、という報告をしたわけだ。まことに現金なエピソードである。しかし、この電文は、おそるべき悲劇のプロローグ(序曲)となった。ローデシアのアフリカ人の諸王国は、完膚なきまでに破壊された。ゴールド・ラッシュが起こり、遺跡はうちくだかれ、考古学的な価値のある遺品も、あらかた鋳つぶされてしまった。

 そこへ登場した学者は、研究に先立って、アフリカ人に巨大な石造建築がつくれるはずはない、という奇怪な前提条件をきめた。そして、シーニーの表現を借りると、「さまざまな新奇な説」を提唱した。ソロモンを訪れたことで有名なシバの女王と関係づける学者もいた。サバ人、ヘブライ人、フェニキア人、アラビア人、インド人、アジア人、あらゆる外来起源説が、つぎからつぎへと出現した。木村重信は、つい最近になっても、アメリカ人のジョン・ガンサーが『アフリカの内幕』で、アラビア人による大ジンバブウェ建造を主張しているとして、きびしく批判している。

 しかし、1905年に、最初の科学的調査を行なった学者は、すでに、外来起源を否定し、「バンツー起源で中世のもの」、と断定した。以後、数十年も論争、再調査がつづいた結果、真相はほぼ判明した。ショナ、ロズウィなどのバンツゥ系の民族が、同じ石造建築の技術をつたえていることも確かめられた。年代決定については、デヴィドゾンがこう書いている。

 「1952年(?原資料確認中)にシカゴで、1944年にふたたびロンドンで行なわれたカーボンテストは、『楕円型建物』の下部から出土した排水用の木材の二つの破片について行なわれ、その結果、年代は西紀591年(プラスまたはマイナス120年)と西紀702年(プラスまたはマイナス92年)の間ということになった。(『古代アフリカの発見』、P.211~212)

 この年代は、高松塚の装飾壁画古墳のそれよりも、少し古い。日本では、「古代史再発見」ということになっている。しかし、アフリカでは、この年代は中世である。

 ところが、これでもまだ論争はおさまらない。アフリカ人による建造が確定すると、今度は、年代の引き下げに熱中する、ヨーロッパ系の学者が出現した。たとえば、木村重信は、つぎのように書いている。

 「学者たちのあいだでは、問題の木材がタンブーティという、ひじょうに寿命の長い木であることから、伐り倒されてから相当の期間を経たのちに加工されたか、あるいは今は消滅した、もっと古い建築に用いられた古材が、のちに排水溝のために再使用されたのではないか、との意見が強い」(『アフリカ美術探検』、P.132)。

 たしかに、部分部分で、何度かの修復、増築の歴史はあるらしい。しかし、話がやたらと細かくなるし、こういう、年代引下げの主張は無視しておく。むしろ、古材の再使用説については、逆の証拠がある。つまり、大ジンバブウェの石造建築以前に、木造の建物があり、それが焼失したのではないか、とも考えられる。というのは、デヴィドソンによれば、石造建造物の下に、「『死の層』」とよばれるものがあり、これは未解決のまま」、である。まさか、焼け跡の灰の中から、「寿命の長い木」を拾いだした、と主張するわけでもあるまい。

 本当の問題は、もっと大きなところにある。というのは、まず、ジンバブウェは、大小とりまぜて、300から400ヶ所もある。最初の建造は、小さな城郭からはじまった、と考える方が自然であろう。つぎに、アフリカ内陸の気候を考えに入れると、石造の城というのは、戦争のような、物理的破壊を防ぐためのもので、はるか古代には、土造の方が一般的だったにちがいない。

 また、石造技術そのものも、のちに紹介するような、ダムや水道の建造にはじまっているのではないだろうか。多くの学者は、大ジンバブウェの石造部分の年代がきまり、しかも、アフリカ人がつくったことがわかってしまうと、突然、それ以前の歴史を考えるのを、中止したかのようである。

 だが、わたしは、大ジンバブウェの背景には、壮大な古代史がかくされていると考える。それは、以下に紹介するような、謎の古代遺跡が物語っているのではないだろうか。

(第6章5)巨大な土塁へ進む┃