『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第6章1

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近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

エジプト神話

 エジプトには、活火山はない。となりのスーダンにもない。ところが、古代エジプト人は、火山とか、温泉とか、火山地帯でしか見ることのできないものを、知っていた。

 それだけではない。雷雨とか、大瀑布の記憶さえもっていた。これはどういうことだろうか。

 エジプト神話の研究者、村上光彦は、古代エジプト人の祖先について、「アフリカの奥地に起源を求める説が有力になってきました」(『エジプト神話口承』、P.220)とし、ピラミッド文書や、死者の書のなかから、具体例を紹介している。これらのヒエログリフの文献は、ファラオのための、死後の世界、つまり先祖の霊が住んでいる国への案内書として、ピラミッド内におさめられていたものである。

 この案内書の中には、中央アフリカ以南でなければ、経験できないものが、沢山含まれていた。

 稲妻と雷鳴、雷雨――「天はとけて水となり、星はたたかいをかわし、射手がせめてくる」、「天は語り、地はふるえる」
 火山――「ほのおの湖」
 温泉――「やけどするほどの熱湯」
 大瀑布――「大いなる捧げもののはてしない落下」、「とどろきによって生ずるおそれ」、「そのなかにいる神は、その名を『捧げものの落下の深み』といって、人がそこに近づかないように守護している」

 とくにこの大瀑布について、村上光彦は、「中央アフリカのザンベジの滝のことではないでしょうか」、と書いている。

 この滝には、イギリス人が、ヴィクトリア滝、という名前を勝手につけているが、現地名は、モシ・オア・ツンヤといい、雷鳴する煙の意だという。「1855年11月16日に探検家リビングストン博士が発見したときにも、滝のそばの小屋で住民たちが神への祈りを声高く朗誦していた」(『世界の旅――アフリカ』、p.61)、というから、古くからの神格化が考えられる。

 モシ・オア・ツンヤは、横幅約1500メートル、落差は120メートル前後であるが、滝壷が普通の形とちがい、地面の割れ目になっている。しかも、その割れ目の巾が、落差よりも狭く、50~75メートルであるため、落流はぶつかりあい、水煙が天高く立ちのぼり、轟音を発する。水量の多い時期には、あたり一面に豪雨を降らせるようになる。

 わたしは、古代の農耕民が、この滝に、雨雲の神が住むと考え、雨乞いの祈りをささげたのだと考えたい。そして、この信仰が、相当広い範囲に広がっていたのではないか、と想像している。

 古代エジプト神学の起源が南方にあるという、もうひとつの論拠には、タカ神ホルスのトーテム信仰があげられる。ザンベジ河の近くにある、大ジンバヴウェの遺跡からは、「タカまたはハゲタカの様式化」された石像が、何体か発見されている。そして、デヴィドソンは、「南バントゥー語族の多くの種族が、雷光を巨鳥とみなし、雷光をあざむき他にそらすため、巨鳥の像を建てたことが示された」、と説明している。

 ただし、巨鳥、またはタカ神の崇拝が、「雷光をあざむく」という目的ではじめられた、という説明には、若干疑問がある。わたしは、この信仰もトーテム神崇拝なのではなかろうか、と考えている。というのは、タカをあやつる狩猟民が、戦士貴族になる例は多いのだ。

 この推測にもとづいて、タンザニア大使館の友人、ルヤガザにきいてみたところ、やはり、タンガニーカ湖の周辺にも、日本のタカ匠と同じやり方で狩猟をする人々が昔からいた。そして戦士貴族はタカをあやつり、タカの翼をカブトの飾りにしていた。この点は、日本でも、タカツカサ、などという貴族がいたのと、全く同様である。古代エジプトの、最初の戦争指導者も、やはり、タカ匠の一族だったのではないだろうか。

 だが、肝心のエジプト史学者のほとんどは、古代エジプト人とナイルのみなもとの人々とは、まるで交流がなかったかのように主張している。この先入観をも、うちやぶっておこう。

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