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Web無料公開『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』

(第6章-7)

道路網

 ケニア高原から、ザンビアまで、そして、海岸地帯をも結ぶ、大規模な道路のシステムがたあったらしい。これまた、その後の調査報告はない。しかし、この調査をぬきにしては、アフリカ大陸の歴史を、本当に語ることはできないだろう。

 デヴィドソンは、3人の学者の報告をもとにして、アフリカ大陸の内部を縦横に結ぶ、巨大な道路システムがあった可能性を指摘している。その要点をぬきだすと、つぎのようなものである。
 
 「多くの道路が存在……勾配がゆるくされており、『通常は幅10ないし12フィート((3〜4メートル))で』、その一方、『丘の中腹の層はむきだしで、道具でならしてあった。』……これらの……道路の最長のものは、……ニサヤ湖の水源地帯から今日の北ローデシア((ザンビア))のアバーコン((タンガニーカ湖の南端))に向って、ケニヤの『白人高地』にあるアルシャやナイロビに達していたようである。……昔の道路(あるいはそう見えるもの)の短い断片は、……イリンガ((タンザニアの中心点))とニアサ湖水源地との間にも報告されており、これらの断片のひとつは幅約9フィート((3メートル))、『それを平坦にするため土を盛りあげたらしく、外側にそって小石の列がある』。

 ……『これらの道路がつきとめられたところから、大湖地方の東側で北から南へ走る交通システムがあったと推察されるが、海岸地方との交通も存在していたものとみられる』」(古代アフリカの発見)、P.187)

 ザンビアのアバーコンと、ケニア白人高地のナイロビとの間の、直線距離は、約1200キロになる。日本列島でこの距離を求めてみると、なんと、函館・鹿児島間の長苦戦距離に相当する。

 これは、やはり、大事業にちがいない。しかし、モートンは、ブリテン諸島の巨石文化遺跡について、「なん千人もの人びとが、大きな土塁を盛り上げるのに共同で労働をおこなったにちがいない」、と書いていた。ブリテン諸島のような辺境で、紀元前三千年頃にできた仕事が、もっと人口の多いアフリカ大陸で、不可能なはずはない。

 その後の調査が行なわれていない理由は、1930年代からの独立戦争、第二次世界大戦にある。残念だが、今のところ仕方がない。

 しかし、これらの道路と結びつけうる、エジプトの古記録がある。すでに紹介した、ハルクーフの墓碑銘である。

 このハルクーフの碑銘には、道路という単語が、3回でてくる。そのうちの一つは、もっとも遠い所にあるもので、「高原地帯の道路」となっている。つまり、ハルクーフがこの地帯にきた、と断定できれば、道路システムの存在は、紀元前2300年まで、さかのぼって考えることができる。

 さて、この道路システムを、さらに南方へたどると、またもや、大規模な灌漑農業の遺跡が出現する。


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