ユーゴ空爆の背景 利権と歴史と謀略と侵略とメディアの嘘と(40)

ユーゴ戦争:報道批判特集

ユーゴ挑発Annex-B国際ザル報道に憮然!

1999.9.10 WEB雑誌『憎まれ愚痴』37号掲載

1999.9.5.mail(一部MLには縮小版送信)再録。

 私自身、よんどころない事情によるとはいえ、ユーゴ問題の「メディア戦争」に関しては、かなり出遅れていたので、偉そうなことは言えないのですが、本日、『しんぶん赤旗』(1999.7.18)のトップ記事、「コソボ和平交渉/破たんの真相」をネットすべく、スキャナー読み込み、校正を終え、憮然、背筋に怒りが凍える他無い心境なのです。

 以下に紹介する同記事によれば、わがHP既報の「ユーゴ挑発Annex-B(英語原文ではappendixですが同じ意味)」は、フランスのランブイエ和平で、「交渉期限切れを前にした『[1999年1月]22日午後7時』、米国などが突然、連絡グループ間の合意もなく、『最終案』を提示」したものの一部です。現在から7ヵ月以上も前の1月22日です。

 当然、ユーゴ連邦政府は、その文書の全文を所持していました。1月22日以後、ユーゴ連邦政府が、どう対処したのか、早期に暴露したのか、大手メディアはユーゴ連邦政府から取材したのか否か、については、目下、日本のユーゴ大使館に問い合わせ中です。

 次には、やはり、同記事によれば、「ロシアのネザビシマヤ・ガゼータ紙3月20日付も、『文書(和平案のこと)の政冶条項は連絡グループの10原則にもとづいて作成されたものだった。とくに、NATO軍のコソボへの駐留を提起している履行部隊の部分(第2,5,7章)の作成には、ロシアは参加しなかった』と指摘」していたのです。つまり、一般にも公表され、モスクワに特派員を置く大手メディアならば、キャッチできたはずの手掛かりになる報道があったのです。3月20日、つまり、3月24日の空爆開始の4日前です。

 さらには、「独紙ターゲスツァイトウング(1999年4月12日付)『ランブイエのうそ……フィッシャ-外相はなにを知っていたのか』は、ドイツで政府が空爆開始後も『付属文書B』についてドイツ議会にも報告していなかつた実態を以下のように伝えています。[中略]本紙は4月6日にランブイエ合意の付属文書Bの第6,8,10条を公表した」というのです。4月6日は、空爆開始後ですが、まだ13日目です。4月12日は、同じく19日目です。以後、2ヵ月間も、広島の6-7倍の空爆と地上でのKLAとの戦闘が続いたのです。

 アメリカ人と、アメリカの末っ子州の従属民こと、日本人の大多数は、その間、「コソボ州ラチャク村のアルバニア系住民を虐殺し、和平合意を拒否したセルビア」という主旨の大手メディア報道と、首相が「理解」したと言う政府発表だけを受け取り、その「悪魔の国」が空爆を受けている有様を、対岸の火事として眺めていたのでした。こういう大手メディア報道と、かつての大本営発表と、いったい、どこが違うというのでしょうか。

 しかも、少なくとも、1月24日には、『読売新聞』に、「コソボ虐殺“演出説”仏紙報道」と題する写真入りの記事が載っていたのです。

 別途、私がNHKに録画公開をさせた衛星第1:BS22、2月3日放送「報告コソボ憎しみと対立の構図」の場合、出演者の柴宜弘東京大学教授が、非常に早口なので一度聞いただけでは分からず、その部分を何度もリピートしてもらったのですが、「違う見方も、フランスのフィガロ紙みたいに出ている現状ですから……」と語っていたのでした。こういう場合には、必ず、本番前に入念な打ち合わせを行うのです。つまり、NHKは、疑問があることは知っていたのに、徹底究明どころか、視聴者に本気で知らせようとはしなかったのでした。柴教授は、現在、ユーゴ訪問中で、9月22日に帰国とのことなので帰国後に、詳しく前後の事情を伺う予定です。

 なお、『しんぶん赤旗』外信部には、同記事中の「今年1月、コソボ南部のラクチャ[ママ]村で45体のアルバニア系住民の遺体が発見された」とある部分の「アルバニア系住民」については、事実を確かめよ、と要請しました。私は、あのラチャク村の遺体の主の大部分は、CIAなどのバックアップを受ける真のテロリスト、KLAが、当局お目こぼしの麻薬密売資金で狩り集めて、「虐殺」捏造の死体の材料にした未熟練の戦闘員であって、「住民ではない」と確信しています。

「写真説明:ランブイエ和平案に調印するコソボのアルバニア系住民代表団」と、「コソボの2つのアルバニア系住民組織代表」という表現についても、大いに疑問があります。ユーゴ大使館の説明によれば、「彼らは住民ではないのでビザの発行が不可能だったのに、メディアは、参加を妨害したかのように報道した」とのことなので、「住民組織」という表現が妥当かどうかの調査を要請しました。

 以下、引用。


『しんぶん赤旗』(1999.7.18)
(1面)トップ記事。

コソボ和平交渉/破たんの真相

“ユーゴ全土でNATO軍に治外法権を認めよ”

期限切れ18時間前/米側が突然要求

写真説明:ランブイエ和平案の第7章「付属文書B」の冒頭部分

「付属文書B」

「付属文書B」の存在は、空爆開始後になって、ドイツやフランスで暴露されましたが、その押し付けの経緯はこれまで正面からとりあげられてきませんでした。

 ドイツでは、連立与党である緑の党のアンゲリカ・ベーア議員が、フィッシャ-外相に、もし合意文書のテキストを知っていたなら空爆には反対していた、とする抗議の書簡を送る事態もおきました(独紙ターゲスツァイトウング)。「付属文書B」の存在と交渉過程について米国の専門家は「米国の目的は、最初から軍事行動をしかけることだつた」(トーマスジエフアソン大学M.コーン教授)と指摘しています。

………………………………………………………………………………

【ベオグラードで片岡正明記者】北大西洋条約機構(NATO)軍は、ユーゴスラビア空爆の口実として、ユーゴ側がランブイエ(フランス・パリ郊外)で示された和平合意案を拒否したことをあげていました。ところが、ユーゴ側が拒否した最終和平案のなかには、NATO軍が強大な冶外法権をもち、なんの制約もなくユーゴ全土に展開できるとした付属文書が存在し、同交渉期限切れ直前の18時間前に米国などがこれまでの交渉経過を無視してもちだしたものであることが、本紙の取材で明らかになりました。(4面に関連記事)

 ランブイエでの交渉は、米英独仏伊とロシアからなる旧ユーゴ問題「連絡グル-プ」の仲介によるもので、コソボの自治やNATO軍のコソボ展開などをめぐって2月6日から同23日にかけ断続的にユーゴ側とコソボの2つのアルバニア系住民組織代表とでおこなわれました。ユーゴ側によると、この交渉期限切れを前にした「22日午後7時」、米国などが突然、連絡グループ間の合意もなく、「最終案」を提示しました。

 その第7章には「付属文書B」がつけられ、そこではNATO軍はコソボだけでなくユ-ゴ連邦全域」に自由に展開し、訓練・作戦行動がどこでもでき、犯罪の訴追や課税も免除されるなど、ありとあらゆる特権と冶外法権を認めるものでした。

 同交渉に加わってきたユーゴ外務省のミリサブ・パイッチ外相副補佐官は、このほど記者(片岡)のインタビューに「交渉が終わる18時間前」になって「米国から50ペ-ジほどのまったく新しい提案がなされた。これはNATOによるユーゴ占領といえるもので、独立国として受け入れられるものでなかった」「それはランブイエ提案の秘密部分、というべきものだった」と証言しています。

 交渉は中断し、3月15日からパリで再交渉。NATO側は空爆の脅しを背景に「付属文書B」をふくむ和平案の全面受け入れを迫り、ユーゴ側の受け入れ拒否を理由に交渉を打ち切リ、空爆を強行したのでした。


(4面)

押しつけられたランブイエ和平案

写真説明:ランブイエ和平案に調印するコソボのアルバニア系住民代表団=3月18日、パリ(ロイター)

ユーゴ空爆強行はこうして……

 3月24日、米軍主導の北大西洋条約機構(NATO)軍がユーゴスラビアへの空爆を開始した直後、クリントン米大統領は、ユーゴ側が「バランスのとれた公正な和平合意案……この和平合意をコソボのアルバニア系住民は積極的に受け入れた……を拒否した」ことを口をきわめて非難し、その後3ヵ月近くにおよぶ無差別空爆の開始を正当化しました。しかし、その「和平合意案」(ランブイエ和平案)の実態は、主権国家の立場を堅持することとは、到底両立しがたいもので、しかもランブイエ交渉終了直前に、米国により突然、一方的に押しつけられたものでした。

ユーゴ全土にNATOが展開できると想定……第7章「付属文書B」

「和平案」の第7章は、NATO軍などの展開を規定したものです。そこには、ユーゴ外相副補佐官によれば「秘密提案」とされる、米国などが持ち込んだ「付属文書B」がつけられていました。その内容は、NATO軍はコソボ自冶州だけでなく、ユーゴ全土になんの制約もなく、強大な冶外法権をもって自由に展開できるというものでした。

〔ユーゴ全土に展開〕

「付属文書B」ではNATOは、「支援、訓練、作戦に必要とされるあらゆる地域および施設での野営、作戦行動、分宿、利用の権利」を含む「車両、船舶、航空機とともに、関連する空域と領海を含めユーゴスラビア連邦共和国の全域で、自由に妨げられることのない通行と妨害のない出入りを享受する」とのベ、コソボだけではなくユーゴ全域でNATOが展開できると規定。これらのために橋や道路、建造物などを壊したり変更するなど「社会基盤の変更」もできるとしています。

〔犯罪の訴追免除〕

 さらに、NATOは「民事、行政、刑事を問わず、すべての法的訴追を免除」され、それは「いかなる事情のもとでも、また、いかなるとき」でも、「あらゆる民事、行政、刑事、もしくは懲戒上の違反にかんして、当事者の管轄権から免除される」とのベ、NATO軍兵士の冶外法権を認めています。

〔警察権も行使〕

「付属文書B」は、「NATOは各個人を拘留し、可及的すみやかにしかるべき政府当局者に引き渡す権限があたえられる」として、ユーゴ国内での逮捕・拘留など警察権の行使もうたっています。

〔ユーゴの交通・施設・資源の優先使用、料金免除〕

 ユーゴ当局は「使用される空域、港湾、空港、道路におけるあらゆる移動にたいし、優先的」使用を許可し、その使用料や税金も免除すると規定しています。このほかにも、「通信能力を確保するのに必要な手段」、「公共施設の無料提供」、電気、水道、ガスなどの「公益事業をNATOが最低額で取得」など、NATOに最大限の便宜が与えられることになっています。また、NATOに、航空機の離着陸の料金、「NATOの船舶への税金・使用料・料金・課徴金」の免除などの権限が与えられています。こうした「付属文書B」は、主権国家なら受け入れられない内容でした。


和平交渉の経過

「付属文書B」を合む和平案が押しつけられるまで、コソボ問題の解決をめぐり、どのような交渉がおこなわれていたのでしようか。

 今年1月、コソボ南部のラクチャ[ママ]村で45体のアルバニア系住民の遺体が発見されたことで、コソボ情勢は緊迫していました。昨年10月にユーゴの冶安部隊とコソボのアルバニア系武装組織の間で結ばれた停戦は、すでに破たんし、戦闘が始まっていました。

 こうしたなか、旧ユーゴ問題連絡グループ(米ロ英仏独伊の6ヵ国で構成)がコソボ紛争の仲介にむけて積極的な関与を始めます。

 そして、1日29日には連絡グループは和平交渉にむけ、停戦、問題の平和的解決、ユーゴの主権の尊重、コソボのアルバニア系住民の高度な自冶の保障などを定めた10原則を決議しました。連絡グループが一致して採択したものは、この10原則だけであり、2月6日から始まったランブイエ和平交渉も、ロシア外務省によると、当初はこの10原則に沿って交渉がすすめられました。

 ところが米国による和平案押しつけにより、状況が一変します。ロシアは、米国が押しつけた和平案の作成には「参加していない」と主張するようになりました。ラフマニン・ロシア外務省情報新聞局長は3月23日の背景説明で、「私たちは実際に見ていないし、私たちは合意、より正確には、コソボでの軍事・警察活動にかんする提案の作成に参加していない」とのべています。

 ロシアのネザビシマヤ・ガゼータ紙3月20日付も、「文書(和平案のこと)の政冶条項は連絡グループの10原則にもとづいて作成されたものだった。とくに、NATO軍のコソボへの駐留を提起している履行部隊の部分(第2,5,7章)の作成には、ロシアは参加しなかった」と指摘しています。つまり、交渉はコソボ問題の平和的政治的解決という連絡グルーブの原則から逸脱し、連絡グループ内でも合意されていないものを米国が一方的にもちだしたことを示しています。

 米国が突然に和平案を示した後、会談は一時中断され、こんどは3月15日から、場所をパリにかえて再開されました。しかし、パリでの交渉は、空爆の脅しを背景に、ユーゴに米国の和平案の受諾か否かの二者択一を迫るというもので、すでに交渉といえるものではありませんでした。

 ユーゴ側はパリ交渉にあたリ、修正案を提示しましたが、アルバニア系住民が和平案に調印した3月18日の翌日には、パリ交渉は一方的に打ち切られ、その5日後に空爆が始まったのです

 こうした交渉の経過をみると、米国の狙いが浮き彫りになります。ユーゴ側がそもそも受け入れることができない内容の案を「和平案」の名で、武力を背景に押しつける米国の狙いは、コソボ紛争の解決ではなく、「付属文書B」によりNATOが強大な権限をもって、なんの制約もなく、つまり国連の関与もなくユーゴに駐留することであり、もしユーゴが拒否した場合は、戦争によってでもNATOの駐留を獲得することでした。

 米国は、国連安保理の決議がなくてもNATOはその加盟国以外の地域に軍事介入できるという、今年4月、NATO首脳会護が採択した「新戦略概念」のテスト・ケースにユーゴの事態を位置付けていたのです。オルブライト米国務長官が米上院の証言で「コソボはNATOにとって決定的なテストとなった」(2月15日)と発言したことは、そのあからさまな表明です。この米国の戦略は、アジア・太平洋地域では、日米ガイドラインと戦争法の具体化となってあらわれています。

 米国は、ユーゴ空爆を開始した後も、空爆停止の条件として、NATO軍の駐留に固執し、NATOの影響力を「薄めてはならない」(オルブライト米国務長官)と主張してきました。あくまでもNATO駐留にこだわった米国の姿勢があらわれています。

 米国を中心とするNATOの対ユーゴ戦争は、6月に国連安保理が関与することで終結しました。さすがに「付属文書B」のように、ユーゴ全土に、何の制約もなく強大な権限をもつNATO軍が展開することは認められませんでした。

 今回のユーゴ戦争は、ユーゴ国内で民間人など1,200人が死亡し、5千人が負傷したといわれています。国際法や国連憲章もじゆうりんされました。こうした悲劇と禍根を残したユーゴ戦争開始に至る全容をあきらかにすることが、ひきつづく課題となっています。


ユーゴ外務省の説明

 ランブイエ交渉についてユーゴ外務省のミゾサブ・パイッチ外相副補佐官は、ベオグラードで本紙片岡正明記者のインタビューに次のように語りました。

 ランブイエ、パリの交渉は実質的に交渉といえるものは何もなかった。

 ランブイエ交渉で最初に出された提案は連絡グループが今年1月29日に合意した10原則にもとづくコソボに「高度な自冶」を認める内容で、われわれとしても大筋異論はなかった。われわれは「冶安分野」以外では合意し、政冶的合意に接近していた。しかし、ランブイエ交渉が終わる18時間前になって、米国から50ページほどのまったく新しい提案がなされた。これはNATOによるユーゴ占領といえるもので、独立国として受け入れられるものではなかった。舞台が移ったパリでもわれわれはひきつづきこの文書を検討したが、われわれの答えは同じだった。交渉は異常で、われわれは交渉の延長を主張したが、われわれはNATOの侵略に屈服し調印するか、拒否するかのどちらかの選択を迫られた。

 われわれはランブイエ交渉中にこの新たな文書に、抗議文を出した。

 ランブイエ交渉終了の18時間前に出されたのは、ランブイエ提案の秘密部分とでいうべきもので、NATOユーゴスラビアヘの自由な出入り、冶外法権を認め、戦争犯罪人を逮捕する権利まで入っていた。また、コソボでの住民投票や国際会議開催で、事実上、コソボのユーゴ・セルビアからの分離を認めるものとなっていた。われわれは、領土保全など自分の国の死活的な利益を特定の外国に命令される状況だった。


独紙「ランブイエのうそ」と追及

 独紙ターゲスツァイトウング(1999年4月12日付)「ランブイエのうそ……フィッシャ-外相はなにを知っていたのか」は、ドイツで政府が空爆開始後も「付属文書B」についてドイツ議会にも報告していなかつた実態を以下のように伝えています。

 独外務省の指導層の大部分も連邦議会の議員たちも、先週までランブイエ合意の本質的な内容を知らないでいた。独政府は、ユーゴがこの合意に署名しなかったことを、ユーゴ空爆の理由としていたにもかかわらず。

 本紙は4月6日にランブイエ合意の付属文書Bの第6,8,10条を公表したが、それにたいし、フィッシャー外相下の3人の外務省首脳のうち2人の政務次官はこれらの条項を「まったく知らなかった」とし、態度表明はできないとのべた。もう1人の事務次官は、この条項は現行のものではないと(混乱した)主張をおこなった。やっと4月8日になってこの文書は議会側にわたされた。マスメディアたいしては依然として秘密扱いだ。

 仮にランブイエ合意がほごになったとしても、ドイツのNATO空爆参加の経過を早急に解明する必要がある。フィッシャー外相は3月24日以前に協定の全文を知っていたのか。それとも政府は、議会と世論を意図的にだましたのか。


 以上。


(41)コソボの人口、90%アルバニア系、か?
ユーゴ空爆の背景
ユーゴ戦争:報道批判特集
WEB雑誌『憎まれ愚痴』37号の目次に戻る