ラダイトからボルサまで 第7章

~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年

第7章:意外史の分岐点
――ロシア革命と社会主義国の労働組織

1.マルクス・エンゲルスの時代

 すでにイギリスの項でみたように、ワーカーズ・ユニオンの理想は、いわゆる一般労働組合運動として現代につづいている。

 この運動は、ブールスやカメラと軌を一にするもので、当時のヨーロッパをおおったサンディカリズムの影響下にあった。しかし、マルクスやエンゲルスも、イギリスにおける「新組合運動」や「一般労働組合」の運動を歓迎し、支持していた。(●注28)

注28:中林賢二郎「資本主義のもとでの労働組合についてのマルクス・エンゲルス・レーニンの理論」、『労働組合運動の理論』第一巻、229~230ページ。

 第1インターナショナル(1864~1876)から第2インターナショナル(1889~1914)のはじめにかけて、マルクスとエンゲルスは、理論的にも実践的にも指導の中核となっていたが、その世界的労働組合運動は、さまざまな潮流をはらんでいた。また、いうところのサンディカリズムのなかにも、いくつかの流れがあった。その中で、積極的に反対し否定しなければならないのは、バクーニンの冒険主義的アナルコ・サンディカリズムの一派であったが、それ以外の流れについては、インターナショナルの統一のなかに、組みこんでしかるべきであった。

2.サンディカリズムとアナーキズム

 サンディカリズムの綱領としては、つぎの文章が挙げられている。

「ゼネストを行動の手段として、完全な解放を準備する。そして、現在は抵抗のグループである労働組合(サンディカ)が、将来は生産と分配のグループとなり、社会再編成の基礎となるであろうと考える」[●注29]。

注29:W・Z・フォスター『三つのインターナショナルの歴史』、インターナショナル研究会訳、大月書店、1957、175ページ。

 これは、フランスのCGTが、1906年のアミアンにおける大会で決定した「アミアン憲章」の一部である。サンディカリズム自体の究明は本稿の目的ではないので、必要最小限に要約せざるをえないが、このような空想社会主義的綱領が、当時の戦闘的組合活動家の大部分の心をつかんだことは、たしかな事実なのである。この思想の原型は、1830年代のトレイズ・ユニオンを動かしたオーウェン主義にたどることができるもので、その点については、すでにのべたところである。

 しかし、労働組合の爆発的前進そのものは、決して、オーウェン主義やサンディカリズムという、思想に出発するものではない。思想は、あくまで上部構造であり、それなりの歴史的経過をもつものである。労働組合運動の、とくに量的な拡大と縮小とは、資本主義経済の発展の度合いと景気の循環とに、大きく左右されるものである。オーウェン主義、プルードン主義、サンディカリズムは、その空想的な簡潔さで、19世紀の労働組合運動の爆発期に、時間的に間に合い、また活動家の素朴な心情にアピールしたのであった。サンディカリズムは、一方で、マルクス・エンゲルスの共産党宣言にもられた革命路線をつぎ穂し、他方で、アナーキズムの潮流を迎えいれていた。その矛盾が大きく露呈するまでの間、サンディカリズムの積極面は発揮されたのであり、現実に、産業組合主義のエネルギーとなったのであった。

3.バクーニンの冒険主義

 サンディカリズムにいたる空想的社会主義の思想潮流は、社会科学としてみるかぎり、すでに1848年の共産党宣言の発表によって、廃棄されるべきものとなっていた。サンディカリズムは、労働者階級の前衛政党の必要性を理解しようとはしなかった。そして逆に、アナーキズムを対置した。この傾向は、労働組合運動の右の潮流として、トレード・ユニオニズムの労働貴族が労働党や社会党を形成するにおよんで、それらへの反発をエネルギーとし、ますます強まっていく。

 アナーキズムと結合したアナルコ・サンディカリズムは、プチブル急進層をひとつの基盤としながら、後進資本主義国に新たな支持層を拡大した。その点では、イタリアやスペインで、ロシアの地主貴族出身の元将校であるバクーニン(1824~1876)が、一派を形成した経過は、もっとも典型的である。

 バクーニンの一派は、1864~1868年に、イタリアで、何度かの武装蜂起を含む暴動を組織した。1868年、イタリアを基地として第1インターナショナルの中央機関にのりこんだバクーニンはマルクスらともはげしく対立する。バクーニンは、武装反乱の綱領にもとづき、秘密支部をつくって分派を維持したことなどによって、1878年に第1インターナショナルから除名される。そして、スペインを基地に次第にインターナショナルの分派組織をつくった。

 バクーニン自身は、1876年に死んだが、スペインのアナーキストは、テロリズムを発展させ、それは、バクーニンの祖国ロシアにも進出した。ロシアのアナーキズムは、ロシア大革命に際して、エスエル左派やメンシェヴィキの中に生きのこったのであり、最後には、レーニン暗殺の銃弾さえ発したのである。

4.ロシアの「無政府主義的」な工場評議会

 革命以前のロシアの労働組合運動は、基本的に非合法であった。法的な規制ばかりか、官制、私制の暴力団による、白色テロルがまかりとおっていた。ストライキは、市民権と財産の剥奪、シベリア流刑にあたいする罪であった。ロシアの支配階級にとって、労働組合運動と革命運動とは、ほぼ同義語であったし、現実の過程もそのように展開した。

 1904~1905年の日露戦争敗北を契機に、ストライキ、労働組合の組織化、革命、ソヴェト評議会の形成が、一挙に前進した。組合員数は20~25万を数えた。

 しかし、この1905年革命の流産ののち、再び労働組合は圧殺され、1910年頃に新たな復活をみるが、公然舞台を獲得できないまま、1917年3月の革命開始時には、「約1500人の組合員をもつ3つの労働組合しか存在しなかった」という。

 ところが、このロシアの労働組合運動は、同じ1917年6月には、147万5429名を組織していた。つまり、約3ヶ月で約一千倍にふくれあがったのである。指導層でいえば、非合法下の組織経験者1名が、千名の新入組合員を指導する比率になる。この体制の下で、同年8月以降、十月革命の成功にいたるまで、一方では全労働者のストライキと武装闘争を発展させ、他方では、資本家側の反動的サボタージュと対抗すべく、ストライキの中止と積極的生産活動を指導するという、史上かつてない離れわざが演じられたのである。そして、十月革命の成功以降、反革命分子のストライキ挑発に対して、新たな社会主義経済防衛の闘争が行われなければならなかった。

 この際、ストライキにおいても、武装闘争においても、生産再開においても、決定的な力を発揮したのは、工場評議会または工場委員会であった。ロシアの産業は、多くの点で後進性があり、地域性・地方性をもっていたため、これらの工場組織も地方的に結成され、全国的指導は弱かった。そして、多くの工場評議会には、アナルコ・サンディカリズムの影響があり、メンシェヴィキと野合していた。その結果、1917年6月にひらかれた第3回ロシア労働組合大会では、メンシェヴィキ派が代議員の55・5%、ボリシェヴィキ派が36・4%という比率であった。

5.ロシアにおけるタテ・ヨコ抗争

 メンシェヴィキ派もしくはアナルコ・サンディカリズムの傾向をもつ組合活動家の主張は、第一に、労働組合の革命における役割について、第二に、全国的結集の方法について、ボリシェヴィキ派と対立した。

 第一点については、すでにサンディカリズムの項でのべた如くであり、第二点は、工場評議会そのものの代表による全国大会招集と、工場評議会の地方・地区的組織化であった。この第二点は、つまり、フランスのブールスやイタリアのカメラの場合に近い、ヨコ組織的結集方式である。フランスやイタリアでは、この結集方式とタテ組織の結合に、数十年の経過がみられた。それに反して、ボリシェヴィキ派は、数ヶ月というよりも数日のうちに、この根本的な組織問題の処理をせまられたのである。しかし、ことは革命の成否を決する最重要問題となっていた。地方の工場評議会において主導権を握ることなしに、全国的方針を有利に決定する方法はなにか。判断は、政治的になされなければならなかった。

 ボリシェヴィキは、その基盤であるモスクワとペトログラード(のちのレニングラード)を中心に、全国的産業組合を強化した。工場評議会の地方的連合には、反対した。工場評議会による全国会議にも反対した。そして、1917年6月の第3回労働組合大会は、全国的産業組合組織を中心として開かれたのである。それでも、前述のように、メンシェヴィキ派の方が優勢だったのである。

 大会は、それゆえ、メンシェヴィキの一般政治方針を承認した。しかし、労働組合の組織方針としては、「工場委員会は諸組合の地方機関とならねばならない」と決定し、無政府主義的な地方勢力からはイニシアティヴを奪ったのである。そして、11月の武装蜂起の方針がきまる際には、印刷工、銀行事務員などのホワイト・カラーの労働組合が権力獲得に反対しただけで、ボリシェヴィキの主導権が確立されていた。革命後の1818年1月には、大会投票でボリシェヴィキが65・6%、メンシェヴィキが21・4%という比率に変わっていた。

 ボリシェヴィキによる労働組合組織化方針は、当時のロシアの政治情勢に照らして、正しかった。またそれは、のちの社会主義経済を国家的計画的に遂行する上でも、重要な役割を果たした。

 しかし、ロシアの特殊な条件下における、一時的かつ政治的な方針を、世界の労働組合運動全体に、一般化すべきか否かは、慎重を期すべき問題であった。

6.トロツキズムの国際化

 だが、この組織方針をめぐる抗争は、一時的なものとして終結することにはならなかった。

 1920年末、ロシア大革命は、困難な内戦に勝利し、帝国主義諸国の武力干渉をはねかえした。この年の労組大会では、メンシェヴィキは6・8%の比率に落ちた。ところがこの一方で、ボリシェヴィキ党内に分派が発生し、労働組合の位置付けをめぐって、ふたたびアナルコ・サンディカリズムまがいの主張を、それぞれのスローガンとして押しだしてきた。

「トロツキー派のスローガンは、労働組合を即時国家機関化せよ、であった」。

「『労働者反対派』は、国家経済の管理を労働組合――『生産者の全ロシア大会』にひきわたすことを要求した」。

「『民主主義的中央集権派』は、労働組合が最高国民経済会議の幹部会を推薦すること、党内に分派やグループの自由をみとめること、分派やグループの推薦する責任ある活動家を指導的な党機関と指導的なソヴェト機関に選出することを要求した[●注30]」。

注30:『ソ連共産党史』1959年版、日本共産党出版局、1962、第2巻、506~507ページ。

 等々の事態に対して、翌1921年3月、レーニンは第10回党大会への報告のなかで、党の統一とアナルコ・サンディカリズム的傾向」に関する指摘を行ったのである。しかし、不幸にして、トロツキーは、この抗争を、さらに国際的にひろげる役割を果たすようになる。

7.スペイン内戦と「ボルサ」

 トロツキーの一派は、スペインにのこされたバクーニン一派のアナーキストと野合し、「イベリア・アナーキスト連盟」をつくりあげた。

 ヨコ組織そのものの歴史にもどるならば、スペインのアナーキストがよりどころにしたものに、スペイン型の労働取引所(Bolsa del Travajo、以下ボルサ)がある。これは、語源そのものも、フランスのブールスと同じ組織である。

 だが、資本主義の発達がおくれ、労働者の階級形成が不十分なスペインにおける状況をもって、世界の労働運動を律してはなるまい。スペインのボルサは、スペインの各地方における特殊事情に規定されていたのである。そしてそこに、最早反動の手先と化したトロツキー一派が、しがみついたのである。

 ボルサの一部が、このように歪んだ歴史を記していることは、ヨコ組織の歴史的評価を遅らせるひとつの要因であろう。ともかく、このボルサを頂点として、ヨコ組織に左ゆれの傾向がつきまとっていたのはたしかである。

8.社会主義国の労働組合

 だが、左ゆれの反対の極には、イギリスのTUC型の右ゆれがある。TUCが1895年に地方労働評議会をその構成から排除したことは、ヨコ組織評価を低める上で、基本的要因となったであろう。

 最後に、ロシア革命の時点での抗争とは別にソ連を典型とする社会主義国の労働組合の問題がある。ソ連の産業組合組織は、当初に32を23にしぼり、のちには154とか162とかいう数にまで分割している。この理由をフォスターは、「ソヴェト労働組合は、闘争の対象となる雇用主をもたない。したがってまた、効果的なストライキを主としておこなうことを意図する少数の全国組織に結集する必要もない」、と説明している。新たな分割の根拠は、政府の経済機関の分割に対応している。日本の例で言えば、ソ連の全国組合というものは、国鉄公社員を対象とする国鉄労働組合のような、全国規模の企業別組合なのである。そして、日本の国鉄には、一応、私鉄などの競争相手があるが、社会主義国にはそういう関係はありえない。資本主義国における産業的結集の重要性について、同一業種内の企業間競争もあげられているが、この点でも、全く経済基盤がちがう。

 さらに、組織方針上、もっとも決定的な問題は、未組織の組織化にある。

 社会主義国の労働者には企業間格差や身分差別はありえず、未組織という状態もないのである。ところが資本主義国においては、つねに合理化、下請化、外注化、臨時工化、新産業部門の創出などの事態が、労務対策を含めて進行している。そのたびに、大量の新しい未組織労働者が出現する。組織化の率は、ほぼ3分の1が標準である。このへんの組織化方針をぬきにして、労働組合の組織形態の評価は成り立たないのである。

 すでにみてきたように、産業組合主義は、一挙に組織率を数倍化するような爆発的組織化運動として、出発している。未熟練、不熟練、臨時、下請け等々のすべての労働者を、平等の資格で組織化する運動としてこそ、産業組合主義は意味をもったのである。問題は、たとえば日本の現状のなかで、どこに組織化運動の拠点を求めるか、である。この点をぬきにして、社会主義の労働組合は産業別であり、それが労働組合の組織形態の法則性を示すものだ、といった論理の立て方をしてはならないであろう。むしろ、職業別なり企業別の不充分さはすでに明らかなのであり、いまや、産業的結集は当然なのである。問題は、その産業的結集をいかにして果たし、さらに前進するには、どうしたらいいのか、であろう。


むすび

「ラダイトからボルサまで」労働組合運動の地域的&産業的組織」に戻る
労働組合運動 論説集に戻る
憎まれ愚痴60号の目次