ラダイトからボルサまで 第4章

~労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る~
1976年

第4章:革命の落とし子・ブールスは生き残った
――フランスの場合

2000.11.4 WEB雑誌『憎まれ愚痴』60号掲載

1.労働取引所

 フランスのCGTの地方・地区的ヨコ組織は、日本の現状からは全く想像もつかないような生まれ方、育ち方をしてきた。

 CGTの地区連合や県連合の起源は、労働取引所(ブールス・デュ・トラヴァイユ)[●注20]という、異様な名称の組織にある。ブールスは、字義通りに、労働の取引所として、つまりは現代の職業安定所のような機能をもつ事務所から出発している。

注20:Bourse du Travail. Bourseの日常的な意味は「財布」である。そこから「取引所」の意味が生じている。

 ブールス建設の発想が最初に出されたのは、1790年のパリ自治市会の席上であったが、その時は流産した。ナポレオンの第1帝政期(1804~1814)の間、2つのブールスが開設されたが、いずれも短命であった。その後も何度か、似た試みがあったようであるが、現代につながるブールスの誕生は、1887年、パリ市においてである。[●注21]

注21:(A) GRAND LAROUSSE encyclopedique, Librairie Larousse, Paris, 1960, "Bourse du travail".
(B) Esquisse d'une Historire de La C. G. T.(1895-1965), Jean Bruhat, Marc Piolot, Confedreation Generale du Travail, Paris, 1966.
労働運動史――労働総同盟小史」、小出俊訳、合同出版社、1958、同年の旧版の訳)。
(C) Histoire des Bourse du Travail, Fernand Pelloutier, Paris, Ancienne Librairie Schleicher, Alfred Costes, Editeur, 1946.

 1892年には、フランス全土に14のブールスが存在し、全国組織としてブールス同盟(Fdratin des Bourse du travail)を結成した。1898年には74、1908年には157のブールスがあった。

 ブールスは、その発生以来の機能として、失業・災害などの際の保険事業を行い、相談所や職業学校まで併設していた。労働者統計をつくり、労働博物館から図書館にいたるまでの、教養娯楽設備もそなえていた。ブールスの建物は、いまも人民の家(Maison du Peuple)と呼ばれ、活用されているが、労働者がみずからの手でレンガをつみ、木をけずって家具をつくりあげ、反革命の銃弾から守りぬいたものである。ブールスの事務所は、文字通りの労働者の砦であったし、ブールスは、イギリスの地方労働評議会をはるかにこえる豊かな機能と、組織的権威をもっていた。

 当然のことであるが、ブールスの組織化方針は、全く全労働者対象であり、特に失業者救済の基本線があっただけに、もっとも[一般的]ジェネラルなものだったといえる。それゆえに、ブールスを、単に地方労働評議会や地区連合の一種として扱うことは、大変な誤りであろう。ブールスは、これまでにみてきたどの組織よりも、地区単位のワン・ビッグ・ユニオンとしての性格が強いのである。しかも、職業別ないし産業的なタテの組織とは、完全に無縁のまま、独自のナショナル・センターをつくりあげるという、世界でも類例のない発展の道をたどったのである。

2.CGTとの合同

 フランスの場合、最初の全国的結集は、1886年に創立された全国労働組合連盟である。しかし、この連盟は、マルクス主義的社会主義者とされるジュール・ゲートによる社会党優先の支配下におかれたため、労働者の反発を買い、1894年には崩壊した。

 その間、1892年に、前述のブールス同盟が発足したわけである。ブールス同盟は、前述のように組織をふやしながら、全国的な結集に成功した。しかし、全国規模の職業別組織を吸収する方針を持たなかったので、1895年には、タテ組織の結集体として、現在と名称の同じCGTが別個に発足した。このCGTよりは、ブールス同盟の方が、はるかに強大であったが、1902年に、ブールス同盟の方がCGTに加盟することになった。

 だが、CGT加盟以後も、ブールス同盟はその姿を維持し、かえって発展させていった。独自の全国書記局と大会を維持しつつ、CGTの大会にも参加していたのである。従来からのCGTの部分も、やはり同じ活動をしていたようである。この二本立ての全国組織という状態は、1912年にブールスの解消と県・地区同盟への参加という方針が決まり、徐々に完全な合同に進んでいった。1912年の決定のときにも、事態の複雑さを見越して、1914年までの遅れを認めていたようであるが[●注22]、1915年になってもCGTの全国組織は、「同盟と連合とブールスの全国組織」という名称を使っていた。

 ブールスの流れは、県連合・地区連合に注いでいる。そして、ブールスの建物自体も、ヨコ組織とともに「人民の家」として残っている。CGTへの完全な合同を果たすまでの長期にわたる経過が、現在の組織構造をも決定づけているといってよいだろう。この経過は、細部の検討をすれば、イギリスとアメリカにおける教訓を学んだ結果かもしれない。なぜならば、労働者はすでに、第1インターナショナル以来の、国際交流と指導の場を持っていたのである。また事実、ブールスとCGTの経験は、隣国のイタリアで、さらに見事な発展をみせているのである。

●注22:La Coutume Ouvriere, Tome II, Syndicats, Bourse du travail, Federations Professionalles, Coopratives, Doctrines et Institutions par Maxime Leroy, M.Giard & E.Briere, Libraires-diteurs, Paris.


第5章:商工会議所vs労働会議所―イタリアの場合

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