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| ラダイトからボルサまで 〜労働組合運動の地域的&産業的組織の国際的経験と原理を探る〜 |
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1.労働取引所
フランスのCGTの地方・地区的ヨコ組織は、日本の現状からは全く想像もつかないような生まれ方、育ち方をしてきた。
ブールス建設の発想が最初に出されたのは、1790年のパリ自治市会の席上であったが、その時は流産した。ナポレオンの第1帝政期(1804〜1814)の間、2つのブールスが開設されたが、いずれも短命であった。その後も何度か、似た試みがあったようであるが、現代につながるブールスの誕生は、1887年、パリ市においてである。[●注21]
1892年には、フランス全土に14のブールスが存在し、全国組織としてブールス同盟(Fdratin des Bourse du travail)を結成した。1898年には74、1908年には157のブールスがあった。 ブールスは、その発生以来の機能として、失業・災害などの際の保険事業を行い、相談所や職業学校まで併設していた。労働者統計をつくり、労働博物館から図書館にいたるまでの、教養娯楽設備もそなえていた。ブールスの建物は、いまも人民の家(Maison du Peuple)と呼ばれ、活用されているが、労働者がみずからの手でレンガをつみ、木をけずって家具をつくりあげ、反革命の銃弾から守りぬいたものである。ブールスの事務所は、文字通りの労働者の砦であったし、ブールスは、イギリスの地方労働評議会をはるかにこえる豊かな機能と、組織的権威をもっていた。 当然のことであるが、ブールスの組織化方針は、全く全労働者対象であり、特に失業者救済の基本線があっただけに、もっとも[一般的]ジェネラルなものだったといえる。それゆえに、ブールスを、単に地方労働評議会や地区連合の一種として扱うことは、大変な誤りであろう。ブールスは、これまでにみてきたどの組織よりも、地区単位のワン・ビッグ・ユニオンとしての性格が強いのである。しかも、職業別ないし産業的なタテの組織とは、完全に無縁のまま、独自のナショナル・センターをつくりあげるという、世界でも類例のない発展の道をたどったのである。
フランスの場合、最初の全国的結集は、1886年に創立された全国労働組合連盟である。しかし、この連盟は、マルクス主義的社会主義者とされるジュール・ゲートによる社会党優先の支配下におかれたため、労働者の反発を買い、1894年には崩壊した。 だが、CGT加盟以後も、ブールス同盟はその姿を維持し、かえって発展させていった。独自の全国書記局と大会を維持しつつ、CGTの大会にも参加していたのである。従来からのCGTの部分も、やはり同じ活動をしていたようである。この二本立ての全国組織という状態は、1912年にブールスの解消と県・地区同盟への参加という方針が決まり、徐々に完全な合同に進んでいった。1912年の決定のときにも、事態の複雑さを見越して、1914年までの遅れを認めていたようであるが[●注22]、1915年になってもCGTの全国組織は、「同盟と連合とブールスの全国組織」という名称を使っていた。 ブールスの流れは、県連合・地区連合に注いでいる。そして、ブールスの建物自体も、ヨコ組織とともに「人民の家」として残っている。CGTへの完全な合同を果たすまでの長期にわたる経過が、現在の組織構造をも決定づけているといってよいだろう。この経過は、細部の検討をすれば、イギリスとアメリカにおける教訓を学んだ結果かもしれない。なぜならば、労働者はすでに、第1インターナショナル以来の、国際交流と指導の場を持っていたのである。また事実、ブールスとCGTの経験は、隣国のイタリアで、さらに見事な発展をみせているのである。
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