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2000.11.1.日弁連総会で
司法資格者3倍の「独占エゴ」可決
 

政策提言他
司法改革提言に寄せて
「司法反動」下の労働裁判闘争
はじめに
一、東京争議団の運動経過から
二、司法反動攻勢の概略
三、権利意識の問い直しから歴史的総反撃へ
四、国際的にみた日本の労働裁判制度
五、市民事件との連携は、すぐれて階級的な戦略課題
2000.11.1.日弁連総会で司法資格者3倍可決だが
労働組合運動 論説集
「独占と権力の対応」
ラダイトからボルサまで



随時追加「編集長日記風」木村愛二の生活と意見
2000年11月分より抜粋、改訂、増補
11.4.(土)
文化勲章・科挙など骨董品を温存し屋上屋の誤解を
重ねるバベルの塔に臍曲り憎まれ愚痴を一発

 昨日は文化の日とか称している日だったので、やはり何か、臍曲りの憎まれ愚痴を叩かねばなるまいと思い、2000年を期して生産中止の骨董品のワープロことワード・プロセッサー、使い慣れたる東芝ルポで入力を始めたのだが、あれやこれやと愚痴ネタが多すぎて、仕上げが遅れ、本日に繰り越した。

 主旨を要約すると、文化ッタラ、勲章ッタラ、司法試験ッタラ、古代国家さながらの科挙制度の骨董品を、その伝来の源の中国が変貌を遂げた今日もなお、後生大事に温存する日本の摩訶不思議について、少し論じてみたいのである。近頃の暗記優等生型、インターネット・バーチャル思考による文章には、言語は明瞭なれど意味は不明瞭の特徴がある。結果は、誤解の言葉の独り歩きが屋上に屋を重ねて重層をなす現代的バベルの塔である。これをしも、文化というべきなのだろうか。文化ッカ、文化ッカ、文化、ブカ、ブカ、文ッカ。[中略]

司法試験合格数の制限の科挙こそが「独占エゴ」「質の低下」なのだ!

 上記の「春秋」の冒頭部分はさらに、「日本では『知識人』という言葉が、いつの間にか死語になってしまったような気がする」と続く。「知識人」も「文化人」も気障で嫌われるから自然消滅するかもしれない。しかし、「資格人」には決定的な既得権があるから、しぶとく生き残るかもしれない。

 文化の日の前々日、2000.11.1には、日本弁護士連合会の臨時総会が開かれ、司法試験合格数を年間1千人から3千人に増やす司法審議会の方針を容認する執行部案が可決された。『日本経済新聞』(2000.11.2)によると、「委任状を含め賛成は7,437票、反対は3,425票だった」。賛成者は、「法律業務を独占する我々はエゴを排し、改革の担い手になるべきだ」と主張したらしい。反対者の論拠の中には、「経済的な犠牲は計り知れない」とか、「質が低下する」とか、があった。

 私は、自分自身の不当解雇反対闘争でも16年半、それ以外にも労組幹部として、市民運動参加者として、個人として、かなりの裁判を経験している。具体的な経験に基づく感想を先に述べると、付き合いの深い弁護士のことになってしまうので困るのだが、それでも遠慮なく言うと、意外も意外、素人目にも法律関係の知識が乏しい弁護士が多い。司法試験の合格を目指す特訓は大学の受験と同様で、試験に出る法律の丸暗記に終始している。資格を得た後には、新しい勉強をしないどころか、目の前の課題に関しても、それまでに学んでいなかった法律に、まるで目を通さず、間違いを指摘しても平気で居直る弁護士さえいた。私は彼等を法律屋と呼ぶ。人数制限のある資格人には、医者こと、医は算術屋もいるが、法律屋と同様に独占収入が確保されているから、同様に腐敗も甚だしい。

 私の考えでは、「3千人に増やす司法審議会の方針」さえも、やはり人数制限であり、特権階級の育成による支配体制強化の一環でしかない。たとえば、運転免許と、どこが違うのか。業務上の運転免許は普通免許よりも厳しいが、人数制限はない。競争に晒されるから実務で腕を磨き続けることになる。競争がない「独占」の方が「質が低下する」のである。事実、アメリカでは、桁違いに司法資格者が多くて、法律では飯が食えずに運転手をしている例もあるそうだ。

 日本でも、そうなるべきである。少なくとも、競争が激しくなれば、法律屋も医は算術屋も、「あのように」威張れなくなるであろう。威張り屋よ、去れ!

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