連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その17)

緒方批判:2度目の本部出頭に初の「旅費支給」

1999.4.23 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

「ルーマニア問題」の締め括りとして、すでに予告した緒方靖夫現衆議院議員への批判、その後の経過、その間の2度目の代々木の本部への出頭に至る経過を記す。なお、この2度目の本部出頭には、初の「交通費支給」と言う実に珍しい体験が加わっている。

 緒方靖夫は、「ルーマニア問題」当時、『赤旗』の外信部長だった。すでにその当時の『赤旗』掲載「いわなやすのり」批判を紹介した。私は、緒方と、今から3年前の1996年に直接会って若干の会話を交わし、その後、毎年、年賀状を受け取っている。最初の出会いは、非常に印象的だったので、順序は逆になるが、そこから話を始めたい。

 緒方は、その時、私の手作りの名刺に目を走らせ、私の顔を見上げるなりニッコリ笑顔を作り、白熊の縫いぐるみを思わせる小太りの体を弾ませ、フランス仕込みの全身ジェスチャーたっぷりで、「ああ、ジャーナリスト、ジャーナリストの木村さんですね」と、大袈裟に握手を求めてきた。私は緒方を、『赤旗』紙上の「パリ特派員」として記憶していたし、私自身、フランス人との直接の付き合いの経験もあったから、即座に、その動作のよってきたる所以の1つを理解し、何ともはや、調子の良い商売人だわいと思った。

 場所は、羽田空港に行く高架線の途中にある巨大な流通センター・ビルの大ホールのフロアだった。そこで、昔の仲間の争議団の一つ、それも日本だけでなく世界でも有数の大企業、東京電力相手に、「共産党員とその支持者への差別」の撤廃を求めて裁判に訴えた原告団が、19年にわたる長期闘争の勝利解決報告集会を開いたのである。私は当時、自分の争議が解決してから8年目を迎えていたが、OBとして無料招待を受けて参加した。

 緒方にも名刺を渡したのは、他でもない。ついでに、本誌の別途連載「仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記』の重要テーマの1つ、「土地開発公社」を特集した個人新聞『フリージャーナル』を持参し、新しい名刺と一緒に、その集会で会う旧友たちに配っていたからである。ところが、この東京電力の差別撤廃原告団は、さすが、いわゆる大企業争議団だけのことはある。良い悪いは別として、結果的に、傾向としては御用組合の典型、電力労連傘下の組合の中の「共産党とその支持者」という反主流派と、関係各地区の日本共産党地区組織幹部から中央委員まで、いわば、ほぼ全国の日本共産党幹部と支持者に、解決金による無料招待の総決起の場を提供していたのであった。

 毒食わば皿まで、ではないが、ご馳走の酔いも回った私は、なぜか皆、どこぞの共産党のだれそれと分かる名札を胸に付けた連中には特に、「地元の実情をお調べ下さい」と良い添えながら、『フリージャーナル』と名刺を渡すことにした。そうしていたら、その群れの1つの中に、緒方がいたのである。その時の数多い日本共産党関係者の中で、私の名刺を見て、「ジャーナリストの木村さんですね」と言ったのも、握手を求めてきたのも、緒方1人だった。つまり、いささか異常な場面ではあった。

 私は、しかし、やはり長期争議の場慣れと言うべきであろうか、先のフランス風握手の状況認識と同時に、その異常さをも感じ取ってはいたが、いささかも慌てず騒がず、握手に応えると同時に、「いや、私は、ジャーナリストという肩書きは好きではないのですがね。ご存じかどうか、私も、元争議団でして、日本テレビ相手に闘って、解決後、フリーになって名刺を作り直す時に、いずれは雑誌でも出すかと冗談半分、『朝日ジャーナル』に対抗すると称して、『フリージャーナル』代表と名乗ったら、『朝日ジャーナル』は廃刊になってしまって、いつの間にか、肩書きをフリージャーナリストにされてしまっただけのことで、……」などと、まずは、軽く、いなし、続いて、ズバリと斬り込んだ。

「ご存じかどうか、私は、例のルーマニア問題では、あなたを党内で批判しましてね。大会向けの意見書ではペンネームの徳永修になっていますが、その関係で2度も代々木に呼び出されたこともあるんですよ。お調べになれば分かるはずです。その後も、日本ジャーナリスト会議で、あなたの衆議院立候補の推薦の要請があった時に、ルーマニア問題での経過から、あなたをジャーナリストの風上にも置けないと批判して反対しました

 緒方の顔は、当然、明らかに青ざめた。しかし、そこは商売人、周囲には気付かれないように、またしてもニッコリ笑顔を作って、「これからもよろしく」とか何とかしゃべって、私の側を離れた。その動きは、先程よりも、ぎこちなかった。

 私は、この連載で先に再録した意見書に引き続き、電話で日本共産党の中央委員会に、緊急の申し入れをした。なぜ電話かというと、「赤旗評論版」の特集に一般党員の意見書が公表されるのは、中央大会を控えた一時期だけのことで、当時の私の表現によれば、「地獄の釜の蓋が2,3年に1度開く時だけの言論の自由」でしかなかった。その時には、私の2度目の意見書に対する(中央)の再反論で期限が切れ、それで打ち止めになってしまったからである。

 ところが、その間のやりとりを通じて、緒方が、批判の相手の元ルーマニア特派員「いわなやすのり」が挙げたアムネスティ・インターナショナルの報告に関して、その全部、特に重要な特集や、年度報告を読まずに、批判論文を書いていることが、はっきりしたのである。これは、普通の議論でも許せないことだが、緒方の立場ならば日本共産党の規約にも反する行為となる。

 私の電話の内容は、その問題点を指摘し、中央の善処を求める主旨だった。すったかもんだかの末に、私は、中央が、この絶対に許せない「ごまかし」を認めなければ、たとえ規約違反であろうとも、一般メディアに実名で記事を寄せて批判すると宣言した。すると、2,3日後、交通費は出すから本部にこいという電話連絡が入ったのである。1回目の呼び出しでは、交通費の話は、まるでなかった。その当時は埼玉県の新座市に住んでいたから、バス、西部線、山手線で、往復1000円ぐらいは掛かったはずであるが、ついでの寄り道もしたし、それを請求する気は起きなかった。ところが、その直後に引っ越して、静岡県は伊東市に移ったので、往復4000円ぐらいは掛かっただろう。ともかく、先方は結構、気を使ったようである。

 またしても、代々木本部の一室で、今度は増田紘一と名乗る反論執筆者本人の中央委員と対決した。緒方は出てこなかった。この経過は結構複雑なので次回とするが、一言だけ、増田と緒方について述べて置きたい。彼らは党内では格が一番上の中央委員だが、私よりも1世代若い。若いからと言う理由で、どうのこうの言う積もりはない。だが、日本共産党の国会議員が2,3人の時期に、職場の先輩から誘われるままに入党し、当時は、戦後の分裂を克服して「これから良くなる」と先輩にも言われ、愚かにも人類史の教訓を忘れ、本当に良くなるかもしれないと期待しつつ、せっせ、せっせと「非公然」の赤旗拡大運動をやり、カネを集め、届け、「拡大英雄」の賞品に貰った万年筆は、どこかで落として失い、やがて党の財政は豊かになって、こちらは不当解雇され、争議16年半、地べたをはい回り、少しは落ち着いてから、やややっと見上げれば、学生運動上がりスhの小利口な党幹部がやたらと増え、ミヤケン・フワテツ体制の官僚組織が聳え立ち、ああ、やんぬるかな!

 つまり、私にとって「ルーマニア問題」は、そのような状況の象徴だったのである。

以上で(その17)終り。次回に続く。


(その18)続:緒方批判・警備員同席で厳しく「嘘」を追及
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