聞き書き『爺の肖像』6

●6 北支邦開発2

『北支邦開発株式会社の回顧』からの引用-2

 爺が数家族と共に住んだという北京の社宅(社員寮)に関しては、独身寮取り混ぜての記述がある。残念ながら、爺のおぼろげな記憶を特定できるものはない。

 昭和15年5月1日(略)、翌日から開発会社の社員となった。(略)当時の開発会社の方針は、新築買収は認めず、要は賃借した中国家屋を改造するということなので、社員が(略)東京から家族同伴で赴任してきたものの、仲々満足の行く住宅の確保は困難な状況であった。もともと中国の家屋は大家族主義のお国柄であるため、家長の住む本屋は改造しても広さも家の格もマアマアであるが、その他の所は粗末で家の広さも四畳半位しか取れないものが多い。

(中略)

 ただ前に述べた会社の新築は認めないという大方針の唯一の例外は、西郊に3、40軒位の新築住宅を建て、社員の方たちに住んでもらったことである。これは昭和17年1、2月の厳寒の頃吉田巌人事課長に同道して西郊に土地を選定し、内務省の技術高官の方の設計監督のもとに建築したものである。》
(高橋精之「福祉課の思い出」)


《(昭和15年8月)開発訓練所は、物理的にも心理的にも、全くの新世界であった。北京西城、西直門に程近い半壁街に、急造の赤煉瓦作りの平家のアパートメントが、私たちの宿舎であり、訓練所であった。》
(船橋 破魔雄「私の追憶」)


16年8月末突然念願の北京支社への転勤を命ぜられ単身赴任した。北京では「北京花壇」というホテルを予約してもらってあったので、2、3日そこに滞在し、間もなく総裁公館邸内の独身寮へ移った。》
(山内 譲「思い出すままに」)


《(昭和16年11月) 北京支社の方々の出迎えを受け、早速西直門の独身寮に案内されました。その日の北京は晴天で、奉天の寒さに較べて大分暖かく、三寒四温の暖かい方の日に当っていたようです。

 翌日から早速バスで東交民巷の事務所に通勤することになりました。

(中略)

 東京組は殆んどが単身赴任で(後で銘々内地から家族を呼び寄せたが)(後略)》
(高島 庄吉「経理部に勤務して」)


《 私達東京より北京への大挙転勤組は西直門近くの暁安胡同の開発寮に入った。翌17年1月から2月頃かと記憶するが、北京で防空演習が行われた。その時空襲警報が鳴ったにも拘わらず、寮生の数人(一人だったかもしれない)が電灯をつけたまま院子の中をウロチョロしていたのが、城壁上から査察中の憲兵に見付かった。それで寮生が連帯責任を問われ、翌日は領事館警察、憲兵隊、憲兵隊本部等あちらこちらに寮生が呼び付けられて(私も二個所に出頭した)大目玉を喰った。》
(今西 英一「経理部時代の回顧」)


《 18年9月頃と記憶するが、東京出張から帰り、何家口胡同の社宅に向う途上の王府井大街で、槐の街路樹が(後略)》
(大島重久「北京街路樹の伐採防止」)


《 私は、北京では殆んど西単の第一開発寮でお世話になったのであるが、ここは、中南海公園の西側で、中央公園、中南海、北海に近く散策には絶好の処でもあった。》
(宮武晋一「清閑の一日」)

 そして、「浅野セメント」の名が出てくる。

《 それから実際に拝見した工場にはセメント工場があります。北京原人の発見された周口店の近くですこれを預かっておられたのが浅野セメントで、折よくそこの責任者は私の中学の先輩の児玉さんでした。華北セメントという名前で、開発の支援を受けていたように思います。児玉さんはかの有名な児玉大将のご令息だったと思いますが、非常によく工場を管理しておられ、殊に中国人に対する関係が巧くいっていました。これは後の話になりますが、終戦後になって、その地方の住民達がみな従来からお世話になっているのだから、このセメント工場は私達が責任を持ってお守りいたします。皆さんにご苦労はかけませんと言ってきたそうですが、実に立派な日中友好の事例だと思います。》
(大島永明「理事就任より終戦まで」)

聞き書き『爺の肖像』7 周口店