聞き書き『爺の肖像』5

●5 北支邦開発

『北支邦開発株式会社の回顧』からの引用-1

 爺が「北支邦開発公社」と記しているのは「北支邦開発株式会社」の記憶違いであると思われる。北支邦開発株式会社について少々調べてみよう。

 以下の文中の引用は全て『北支邦開発株式会社之回顧』(槐樹会刊行会、昭和56年10月1日発行 非売品)からである。敬称略。

《北支邦開発株式会社は、昭和12年7月7日に勃発した日華事変を契機として日本の大陸政策は日華ブロック経済への発展を目標として遂行された。

(中略)

 昭和13年3月15日閣議決定の北支邦開発株式会社設立要綱には次の様に述べられている。

「帝国政府決定の北支邦経済開発方針に基づき日満北支経済を緊密に結合して北支邦の経済開発を促進し以って北支邦の繁栄を図り併せて我国国防経済力の拡充強化を期する為北支邦開発株式会社を設立するものとす」

(中略)

 北支邦開発株式会社は前述したような経緯により誕生したのである。即ち第73議会を通過した北支邦開発株式会社法(昭和13年4月30日法律第81号)に準拠し、郷誠之助氏を設立委員長とし、同年11月7日の創立総会によって設立されたものである。》
(北支邦開発株式会社設立の経緯)

 北支邦開発株式会社の本店所在地は、昭和18年9月30日現在、

東京市麹町区平河町一丁目六番

とある。

《支店又ハ事務所・出張所》は《北京 張家口 青島 太原 大阪 天津 済南》である。

 その後

北京支社北京の交民巷にある興中の事務所に同居して発足した。(中略) 昭和15年3月、開発会社の機構改革が行われた。開発は定款上本社は東京に置かれたが(中略)、本社機能を北京に置くことになり、総裁以下役員は北京に常駐》
(大島 永明「理事就任より終戦まで」)

 単身赴任した父を追って北京に行く前に東京に出てきたと爺が書いているのは、東京本社を経由したからであろう。

 東京本社についての記述が少しある。

《 私が北支開発に入社したのは会社設立後約半カ年余を経た昭和14年5月か6月の頃と記憶する。事務所は麹町区有楽町一丁目第一生命ビル内で、所属は総務部文書課記録係であった。》
(日下部 和「思い出」)


《 昭和15年、お濠端の第一生命ビルにあった会社に入社して、総務課文書係に配属された。日ならずして、会社は平河町の万平ホテルを買収して移転した。》
(船橋 破魔雄「私の追憶」)

 爺が詳細をさっぱりおぼえていない北京への渡航ルートはいくつかあった。

《 昭和14年12月、それも年末に迫って私に、北京出張の命令がありました。(略)門司に着いたら酒は全部船積みを終え、(略)二泊三日の船旅を終え塘沽港に到着した。》
(日下部 和「思い出」)


《(昭和15年)8月、私たち新入社員は、すべて北京に設けられた開発訓練所で、特別研修を受けることになった。藤川、黒江と同道して、神戸から大連行きの定期連絡船に乗り、更に大連から天津行きの船に乗り換えて北京に向ったのである。

 大連行きの連絡船は、門司で半日繋留する。(中略)午後三時の出帆時刻に危なく遅れかけ、波止場を千メートルばかり全力疾走して、出帆の銅鑼に間に合ったのであった。》
(船橋 破魔雄「私の追憶」)


《 いよいよ出発の日が来て、昭和16年11月、小生も経理部の人々と共に、大阪商船の大連航路の船に乗り込み、神戸港を出帆しました。大連-奉天-山海関-北京という経路をとった訳です。奉天で北京行きの汽車に乗り換えるまでに時間がありました(略)。山海関の駅では名物の鶏の蒸し焼きを買って賞味しつつ、翌日の昼頃に北京に到着しました。
(高島 庄吉「経理部に勤務して」)

 次のこれは特殊ルートであろう

《 昭和18年の3月の初めのことですが、商工省から派遣されて北京に駐在しておられた菅波称事さんから連絡があって、ちょうど良い工合に塩沢大使が北京に帰任されるから、その飛行機に便乗させてもらったらどうかということでしたので、早速お願いしまして、その飛行機で北京入りをすることになりました。

 当時はもう飛行機旅行も危険な状況になっていました。初めに日は米子に泊まりました。翌日は朝鮮半島を経由して、満州の錦州にとまりました。ちょうど朝鮮上空を飛んでいるときに(略)~3日目に錦州から北京入りして、その翌日開発会社に参りまして、着任のご挨拶をしました。》
(大島 永明「理事就任より終戦まで」)

聞き書き『爺の肖像』6 北支邦開発2