聞き書き『爺の肖像』10

●10 引揚げ

 いよいよ引揚げである。

 爺の一家では、妹が生れた後の母の体調が思わしくないので順番を引き伸ばしていたが、とうとう出発の日がきた。無蓋車に荷物のように詰め込まれて、溏沽港に向う。生れたばかりの妹が風邪を引かないようにと兄弟3人で周りを取り囲んで守ったことを、その妹は両親から聞かされて自身の記憶のように覚えている。

 乳の出が良くないので、粉乳とそれを溶く水が必要だった。父の発案で真鍮の湯たんぽを水筒代わりに持っていくことにした。(なんだか汚くて嫌だなあ)と思ったことを覚えている。それが伝わったのか、父は中に砂を入れて振って磨いていた。湯たんぽの水筒は爺がランドセルに入れて背負った。

 そして重い『三国志』(吉川英治)の風呂敷包みをぶら下げた。父は何度もまた買ってやるからと言ったが手離す気にはなれず、必死に自分で運んだのだ。新聞連載小説であった『三国志』は子供向けの話ではないが、当時は漢字にはすべてルビを振ってあった。爺は帰国途中にルビを頼りに相当数の巻を読み通し、以後『三国志』は爺の座右の書となった。

 鮮やかに甦る思い出もある。引揚げの旅の途中のことである。

 胸に名札を縫い付けていた日本人の子供たちが、真っ白くて長い長い顎髭を垂らした老人の前に立ち並んで順番を待っていた。自分の名前の漢字を中国語で読んで貰うのだ。

 「ムーツン・アイアル」

 中国語の複雑な「四声」をカタカナでは正確に表記できないが、それが爺の名「木村愛二」の北京官話の発音だった。どの漢字をも鮮やかに霊妙な発音で読みこなす中国人は、非常に優れた文化人として、当時8歳の爺の記憶に留まった。

 話が前後するが、北京からの引き揚げは比較的順調だったといわれる。

 敗戦後先ず米軍が北京入城してきた。その後に「反共」国民政府軍が入城する。国民政府軍の北京行営主任には蒋介石の意向を受けた李宗仁が就任した。李宗仁は日本側に協力を求める代わりに、日本人の安全と帰国の保障をした。

 前出の『北支邦開発株式会社之回顧』にこのあたりの情勢が書かれている。少々長い引用になる。(山内 譲「思い出すままに」から)

 《 終戦当時北京は、国民政府軍と中共軍の双方に囲まれていたが、十月末先ず米軍が北京に入城して来た。私達はそれを見に行ったが、私は先ず彼等が、日本式の威風堂々の入場ではなく、帽子を横っちょにかぶり、楽しげに口笛を吹いたり、我々に笑いかけながら、ヘーイなどと手を振ったりしながらやって来たのに、驚きかつ安心したのであった。又、それから暫くして、中国政府軍が入城するというので、これも見に行った。中央公園前あたりで待っていたら、今度は戦車を数十台連ねて、轟々と地軸をゆるがせながら、「威風堂々」とやって来たが、我々のすぐ近くまで来て小休止となった。と、私が自分の目を疑いながら見たのは、戦車の天蓋の上に頭を出している日本兵らしい姿だった。戦車が止まると、中から中国兵も皆出て来て、今は肩章をはずしてしまった日本兵に、タバコなどを勧めながら談笑しているではないか。思うに、中国軍は終戦で日本の戦車を接収したが、急にはこれを操縦出来ぬので、兵隊と一緒に引き取って「どうぞよろしく」ということになったのではあるまいか。》

 《 北京行営というのは、国民政府が終戦と共に満州の東北行営などと共に、北京、天津等の地域を統括する軍、政両面の最高機関として設置したもので、その主任李宗仁は、後には国民党の副総統にまでなった人だ。つまり蒋介石は北京における対日終戦処理の最高責任者としてこの大物を持って来たのである。ところで、昭和二十年十一月某日・・・

 (中略)

 李主任曰く、

 「日本と中国は互に隣邦として、千年以上に渉って密接な関係を保って来た間柄だが、今度の戦争は双方にとって大変不幸な出来事であったし、又日本の敗戦は米、英、ソなど世界の列強を相手にしてのことで、まことにお気の毒であった。しかし、日本及び日本人の偉大さ、優秀さは実に素晴らしく、日本は必ず、直きに立派に立ち直って呉れることと思うし、わが中国もそれを心から願っている。これからは互に隣邦として手を取りあってゆこうではないか。ついては、戦争中日本が中国で建設し、設営して来た各種事業を今度中国に返還してもらうわけだが、わが中国にはこれらの事業をすぐ運転してゆくだけの技術や経験がないので、あなたがたは、もう暫く中国に留って協力をしてもらいたいと思う。あなた方の安全と生活は私が責任をもって保障するし、又帰国についても充分希望に沿うようにする」と。

 私達は、蒋介石の「日本人保護」の厳重布告といい、李宗仁の立派な態度といい、中国及び中国人というものを完全に見直さざるを得なくなった。・・・》

 上層部がいくら立派でも、末端に指令が行き届くのは難しい。

 華北に散らばっていた日本人は引揚げのため一旦北京に集結するのだが、国府・中共軍内戦状態のどの地域から来るかで大きな差がついた。国府ルートを来たものは持てる物を奪われ着の身着のままの哀れな姿で北京入りしたが、中共ルートで来たものは保護され弁当や金を与えられ駅伝式に北京に送られたという。鬼畜のごとく言われていた中共軍は、敗残日本人にとって「地獄に仏」であった。

(余談:八路軍(中共軍)に保護され、そのまま行動を共にした人々が、日本に帰国後に共産主義のシンパとなった例は結構多いのではないだろうか。「馬」(聞き書き執筆代理投稿者)は茶飲み話の席で、年配の穏やかな女性が、殆んど神格化した「八路軍」の思い出を語るのを聞いたことがある。)

 話を引揚に戻そう。行程そのものは「8」に書いた八木哲郎氏の著書の引用と同じである。

 塘沽港からアメリカ軍のリバティー船に乗った。船は大連により、満州からの引揚者を乗せる。爺は船上でその「満州組」の子供達と血を流す喧嘩をし、「満州組は凶暴」だと心に刻む。

 「凶暴」になるのも無理はない。満州からの引揚者は大人も子供も地獄を見、死線を越えてきたのだ。

聞き書き『爺の肖像』11 引揚げ