聞き書き『爺の肖像』12

●12 九州へ

 前回の「引揚げ2」では、引揚船上での北京組と満州組の流血沙汰の喧嘩に触れたが、同じく中国から引き上げた絵本作家の佐野洋子の目には別の光景が残っている。

 佐野洋子は1938年北京生まれ。父の仕事の関係で移住した大連で敗戦を迎えた。エッセイストとしても名高い。(敬称略)

 「私の猫たち許してほしい」103~105頁から引用させていただく。

 《(前略)
 引き揚げ船の中で出された初めての食事は、さばと大根の入っているおじやだった。巨大なたるの中にそれは入っていて、大きなひしゃくで、家族が持ってきたなべの中に流しこまれた。

 そのおじやが米であることに、私たちは感激した。おじやはねっとりして甘かった。パサパサしたコーリャンのおかゆや、とうもろこしの団子を食べていた私たちに、米のねばりは、心からの充足と、これから帰る日本への希望を与えてくれた。私は次の食事を待ちのぞみ、アルミのおわんを、洗う必要のないほどなめつくした。

 私はその食事以外に何ものぞまなかった。

 貨物船の船底は荷物がびっしりとうまり、その間に、人が荷物によりかかって坐っていた。荷物によりかかって人々は眠り、昼も同じ姿勢でほとんど身動きが出来ないのだった。

 私のとなりに、ひどく年とった老婆がいた。彼女は小さくまるまってうずくまっていた。彼女は歩けないほど年とっていたので、甲板のトイレに行くときは、息子の背中にくくりつけられた。彼女はうずくまったままボソボソ何か言っていた。いつも同じことを言っているのだった。

「おすしが食べたいよう、おすしが食べたいよう」

「内地にかえったらね」

 息子の奥さんがいう。

「おすしが食べたいよう」

「もうすぐだからね」

 それでもおばあさんは根気よく、「おすしが食べたいよう」をくり返すのだった。
あんなおいしい大根とさばのおじやがあるのに、私はおばあさんがぜいたくでわがままだと思った。

 ある朝、目がさめると、私の横に灰色の毛布でくるくる巻かれたものが横たわっていた。毛布の両はしがひもでしばってあった。昨夜、私が寝ているうちに死んだおばあさんだった。二日ほど、毛布でくるまれたおばあさんは私の横にいた。海の様子が悪くて、船はなかなか日本に着かないのだ。息子はおばあさんをかついで、甲板に上がっていった。

 はしごをのぼってゆく息子は、巨大なのり巻きをかついでいるようだった。海に捨てにいったのだ。
(後略)》

 爺も佐野洋子も満州組も、とにかく引揚者を満載した船は日本の港に着く。爺の船は佐世保に着岸した。待っていたのは、等しくDDTの洗礼であった。DDTの毒性が問題になるのはかなり経ってからのことである。なにしろ健康状態も衛生状態も劣悪な集団が、チフスなどの伝染病を媒介するシラミなどの寄生虫もろとも船内に詰め込まれていたのだ。

 襟首を掴まれ、あるいは上下を破いた袋を被せられ、係員あるいは米兵から真白になるほどDDTを散布された。

 そして、1人当たり新円の千円札が1枚貰えた。赤ん坊の妹を背負っていた弟が「妹の分は背負っている自分のもの」と言い張ったことを爺は記憶している。結局親がまとめて受け取り何かに使ったはずだ。

 引揚者目当てに集まった抜け目のない商売人たちに、あっという間に散財させられた人も多かったようである。

 とりあえず、爺の一家は本籍のある九州の豊津(現「みやこ町」)に戻った。父の弟が相続していた亡き祖父の家である。可愛がってもらった覚えのない祖母は健在であった。

 爺は地元の小学校に編入する。そこで待っていたのは、今も昔も変わらない「いじめ」であった。

 大陸育ちの爺は、「外地」の学校教育のお陰で標準語を身に付けていた。それだけで、九州の田舎の村で反発を買うには充分である。くわえて、実戦に巻き込まれなかったとはいえ、敗戦・身一つで帰国するという体験の中で大急ぎで成長せざるを得なかった。同級生が幼く見えて仕方ない。子供たちは異質なものを敏感に感じ取る。

 かくして、田舎の村の子供たちから集団攻撃を受けることになる。爺は小柄ながら負けん気充分、断固戦い抜いて襲撃を撃退し続け、教師からは、「喧嘩太郎」の渾名を付けられた。北九州の山の中の当時の子供の喧嘩は、野蛮も野蛮、小石を投げ合うのが常だった。

 この爺の喧嘩太郎振りは、後に東京へ出て来て、調布の小学校へ5年生で転入しても変わらず、当時の同級生は今でも爺を「ワルだった」と記憶している。

聞き書き『爺の肖像』13 九州2