聞き書き『爺の肖像』3

●3 北京の日本小鬼子

幼少期

 さて、北京での爺は、敗戦までに転居をしている。半世紀以上前のことなので、北京のどの地区であったか、どのように引越しをしたのかは定かでない。

 爺の過去の著作から、めぼしいものを拾って再構成する。出典は特に明記しないが、いずれも爺のサイト内の文章である。

 爺の住んだ大きな屋敷は、父親の勤務先のセメント会社の社宅で、中国人の大富豪の屋敷を接収したものだった。門番は中国人で、家には「お手伝い」の「クーニャン」と呼ばれる若い中国人の女性がいた(前回既述)。

 まるで小さな要塞のような屋敷の中に、いくつもの独立家屋があり、日本人の数家族が入っていた。周囲に巡らされた煉瓦造りの厚い塀の上には、尖った太い針がビッシリと植え込まれていた。

 敗戦後は、外出は禁じられ暫くその屋敷の重い扉の内に閉じ籠もることになった、とあることから、最初に暮らした家の記憶ではないであろう。

 当時は「隣組」指導の時代だったから、多分隣組の組長であったのだろう、「退役下軍曹」とか聞き及んでいた目付きの鋭い男性(以下、「組長」)が、非常に張り切っていて、その「組長」の指揮下に防空壕に入る訓練なども経験している。記憶に残る当時の映像を後から思い起こしてみると、「組長」は、かなりオッチョコチョイの「おにいちゃん」程度の人だったようだ。

 時折、中庭で集会が開かれ、「組長」が一生懸命に演説していたが、これも当時の爺にはまるで意味が分からなかった。

 想像してみよう。

 「組長」がギンギンに張り切って、北支那派遣軍の司令部あたりから聞きかじってきたらしい最新情報、例えば「匪賊と密通する不逞なる支那人の動向」について、胸を反らして演説していたのかもしれない。

 「組長」曰く、

 「北京大学の中国人歴史学教授が、密かに匪賊と通じ、わが皇軍を誹謗中傷する文書を、大学構内で学生に配布したことが内部通報により判明し、憲兵隊が直ちに逮捕に赴いたところ、すでに逃亡していたので、目下、捜索中である。今後、近辺で不審な者を見掛けたら、直ちに報告されたい」

 この「組長」情報を、普段は日本語が分からないふりをしていた中国人の門番か「クーニャン」が聞き、密かに「匪賊」に伝えた・・・以下略。あくまでも爺の想像(妄想)である。

 1937年生まれの爺が北京に渡ったのは1942年。国民学校に入学したのは1943年(昭和18年)4月のはずである。転校した記憶はあるが、そもそもどの国民学校に入学して、どの国民学校に転校したかの記憶はまるでない。

 『北京の日本人学校』小川一朗編著によると、当時の北京には、国民学校が6校あった。

 北京東城第一国民学校 児童数  2,350名
 北京東城第二国民学校      1,674名
 北京西城国民学校        1,966名
 北京城北国民学校        1,348名
 北京城南国民学校         674名
 北京西郊第一国民学校       173名
   合計            8,185名
  (1942年4月現在)

 覚えている記憶を辿ってみよう。断片である。

 北京は静かな都だった。中国は広い。戦争中でも、戦争は、いわば「局地戦」のようなものだったのである。北京では、上空の飛行機雲でしか戦争の映像は無かった。

 しかし、爺もまた時代の枠の中にあって、軍国少年だった。

 北京の国民学校に通う日本人の子供は、一年生から六年生までが一緒の通学班に編成されていた。男の子は戦闘帽をかぶり、カーキ色の学生服のズボンにはゲートルを巻く。背中のランドセルのほかに、両脇に水筒と防空頭巾、バッグを掛ける。バッグの中には非常用食糧のカンパン、ロウソク、マッチ、マーキュロ、包帯などが入っていた。

 通学班には隊長がいる。集合すると〈お早うございます!〉の敬礼、〈整列!〉、〈番号!〉、〈一、二、三……〉、〈前へッ進めッ!〉の号令、何から何まで軍隊の真似ごとである。

 国民学校1年から3年生の夏の敗戦まで、毎日、登校の際には上級生の引率で、北京の日本人専用の国民学校に向けて隊伍を組み、北支那派遣軍の歌などの軍国の歌の数々を、丸暗記で意味も知らずにがなって、日本軍の占領下の北京の町中を二列縦隊で行進していた。

 戦闘帽を被り、ゲートルを巻き、ランドセルの他にも、非常食料のカンパンや消毒治療薬の「赤チン」、包帯まで入れた雑曩を肩に掛け、まるでチビっ子兵隊の格好で、呆れて見ながら笑う気にもなれないはずの中国人の眼の前で、オイチ、ニ、サン、シ、と一生懸命に手を振り、足並みを揃えて「行軍」したのである。

 「軍歌行進」で、当時は意味が分らずに勝手に解釈しながら、かなり間違えて歌っていたのだが、その難しい軍歌の歌詞の始まりはこうだった。

 〈御稜威の下に益荒男が、一死を誓う御戦の、堂々進む旗風に、威は平原を圧しつつ、粲たり北支派遣軍〉………

 《日本小鬼子!》(リーベン シャオ クェイズ!)

 そんな時、中国語で罵られたある朝の記憶には、いまだに生々しいものがある。まさに《日本小鬼子》以外の何者でもなかった頃の、自分達の奇妙な姿と周囲の光景は明瞭に記憶に留まっている。

 ある朝、中国人の老婆が門口に立って何やらブツブツつぶやいていた。

 家族が二、三人、何やら叫びながら飛び出してくる。老婆の両腕をつかんで中へ引きこもうとする。老婆は身を振りほどこうともがき、一際高い声で叫ぶ。家族はますます慌てて老婆を取り押える。言葉は分らなくても、大いに危機感を覚える情景であった。

 その時の言葉が〈リーベン シャオ クェイズ〉だったのである。意味が分らないまま、これは自分達に投げ付けられた罵りの言葉として記憶し、後年それが《日本小鬼子》であることを知った。

 他にも意味も分からず丸暗記、小さな右手の拳を固めて、威勢良く振り振り、かなり間違えて歌って歩いた歌の文句である。

 「天に代わりて不義を撃つ、忠勇無双のわが兵は、歓呼の声に送られて、へ、へ、へ、へ、へ、の屁、」

 正確には、「天に代わりて不義を撃つ、忠勇無双の我が兵は、歓呼の声に送られて、今ぞ出でたつ父母の国、勝たずば生きて帰らじと誓う心の勇ましさ」[軍歌「日本陸軍」(出陣)]である。歌詞は以下(斥候)(工兵)(砲兵)(歩兵)(騎兵)(輜重兵)(衛生兵)(凱旋)(平和)と延々と勇ましく続く。

 上級生の指導で、意味も分からずに、丸暗記で歌い続けたものはまだある。

「どこまで続くぬかるみぞ、三日二夜を食もなく、雨降りしずく鉄かぶと。ひずめのあとに乱れ咲く、秋草の花しずくして虫が音ほそき 日暮れ空。」

 正確には「討匪行」

一番 どこまで続く 泥濘ぞ 三日二夜を 食もなく 雨降りしぶく 鉄かぶと 雨降りしぶく 鉄かぶと
二番 嘶く声も 絶えはてて 倒れし馬の たてがみを かたみと今は 別れ来ぬ かたみと今は 別れ来ぬ

と、以下十五番まで続く。

 朝礼では必ず、教頭の号令に従い、一斉に東(江戸城跡の方向)に向きを変えて最敬礼した。東方遥拝(とうほうえいはい)、遥か彼方の「皇居」を拝む儀式である。太陽が上がる方向を「日出る国の天子」様のいるところと理解していた。(当然、敗戦後には全てがひっくり返る思いを味わうことになる。)

 北京の冬は寒い。公園の池がそのままスケート場になる。だから冬の思い出が多いのだが、そのなかでも特に不気味で強烈な映像を留めているのが、路上に放置されたままの凍死体》である。学校へ通う道に、ゴロゴロという印象なのである。毎朝ではないが、それ以外には登校の道筋についてのはっきりした記憶がないから、思い出す度に印象が強まり、本当に毎朝で、そこらじゅう死体だらけだったような気がしてくる。

 《凍死体》はアンペラにくるまっていた。そして厳密にいうと、《凍死》した死体ではなかった。頭の中には映像と一緒に、その当時の日本人の大人の説明が植え付けられている。「支那人は昼間から阿片吸って怠けとる」と、……。阿片窟で息を引取った身元不明の「遙者」(いんじゃ、阿片中毒患者)が、路上に放り出されていたのである。

聞き書き『爺の肖像』4 敗戦