連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (16-1)
「ガス室」裁判 判決全文 10

1997.4.18. 提訴
平成9年(ワ)7639号 名誉毀損・損害賠償請求事件

判決全文 10 理由の第二 原告の主張に対する当裁判所の判断(一の1~5)

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理由(続き)

第二 原告の主張に対する当裁判所の判断

一 本件記事に使用された字句自体が原告を誹謗・中傷し、その名誉を毀損するとの主張について

1 基本的な考え方

 前記の事実から明らかなように、本件記事は、その多くの部分は、原告が本書において唱える「ガス室否定論」という「見解」・「意見」に対する批判・反論であって、直接には原告の社会的な人格そのものに向けられたものではない。もっとも、部分的には、表現上、そのような見解・意見を有する個人としての原告に向けられたものと解されるものもあるけれども、その究極の目的とするところが右のような見解・意見に対する批判・反論にあることは、前記の論争の過程に照らして明らかである。

 このような「歴史解釈」をめぐる論争は、我が国の法体系の下においては、本来見解が対立する者同士の自由な議論に任せられるべき分野の問題であって、法が濫に介入すべきものではない。かかる議論の過程においては、自説の正当性を主張し、反対説の誤りであることを読者に訴えかけるため、往々にして誇張された、又は刺激的な言辞が使用されることがあり得ることは見やすい道理であって、そのような目的・過程において発せられた言辞は、原則として名誉毀損などの法的問題を生じないというべきである。殊に、原告が本書で取り上げる「ガス室否定論」は、これまで全世界のいわば常識とされてきた「歴史」に疑問符を投げかけるものであり、事柄の性質がなお現代社会における政治的・宗教的・人道的な問題を孕む微妙なものであるだけに、これをめぐる論争がある程度激烈にわたることもやむを得ないものと考えられる。

 しかしながら、右のような論争の過程において用いられた言辞であっても、客観的に見て、その本来の議論の主題と相当の関連性を持たず、また、これを用いるべき合埋的な理由がないにもかかわらず、濫に相手方論者の人格自体を攻撃する趣旨の下に使用された言辞であって、それによって当該相手方の個人としての社会的評価を低下させるおそれのあるものについては、もはや社会的許容性の範囲を超えるものとして、民法上名誉毀損などの不法行為を構成するものと解すべきである。以上の観点に立って、原告の主張の当否を検討する。

2 平成8年10月2日号・「論争」欄の記事について

 本誌同号の浜地の論稿中に、原告が主張する「自著の宣伝文句に大言壮語を連ねる」、「かかるいかがわしさ」、「議論の余地なくそれらの言説はネオナチ宣伝」及び「政治的デマゴギー」の言辞が使用されていることは、前記のとおりである。

(一)これらの言辞のうち、「大言壮語」は、原告がその著作について内容以上の宣伝をするという意味に用いられているものと解されるが、意見を異にする相手の見解を批判ないし攻撃する言辞としては、極く日常的に用いられるものであって、格別に異とするに足りない。

(二)「かかるいかがわしさ」というのは、用いられた文脈をたどってみると、執筆者の浜地が、原告の梶村論稿に対する批判が正鵠を欠くもので的を得ておらず、事実に反するレトリックを弄んでいるものと認識し、かかる認識に基づけば、原告の「ガス室否定論」は、その理論的構造と言説において「いかがわしい」ものと判断するという趣旨であることが明らかであり、本件の論争の前記のような性質にもかんがみれば、社会通念上許容し得る範囲を超えるものとはいい難い。

(三)「議論の余地なくそれらの言説はネオナチ宣伝」というのは、「ガス室否定論」は、政治論として語られる限りは、その論者の思惑いかんに拘わらず、「ネオナチ宣伝とみなすという浜地の政治的見解を表明するものであつて、少なくとも原告の信条が「ネオナチ」であると断定するものではないことが明らかである。一部の読者は、あるいは、右の言辞から原告が「ネオナチ」の思想を有する者であるとの印象を抱くかもしれないが、それは、浜地の右の政治的見解に共鳴する結果にほかならず、右の文脈から当然にそのように認識させるものとはいえない。したがって、仮に、「ネオナチ」と称されることが原告の社会的評価を低下させるものであるとしても、それは、浜地の右の文章がもたらすものではないというべきである。

(四)「政治的デマゴギー」というのは、その文脈からすれば、間接的には原告の「ガス室否定論」を指しているものと解されるが、この言辞は、その本来の意味合いはともかく、およそ現代の政治的論争においては反対論を攻撃する常套語の一つといえるほどに慣用化されているものであり、また、その言辞が原告の人格自体に向けられたものでないことが明らかであるから、かかる言辞を用いたことをもって、原告に対する名誉毀損を問擬するには到底足りないというべきである。

3 平成8年19月25日号・「論争」欄の記事について

 本詰同号の梶村の論稿中に、原告が主張する「冒涜」、「ほぼパラノイアに近い」、「ガス室否定論者の西岡昌紀氏と共に室内に入り、同志の花田紀凱氏に外からチクロンBを放り込んでもらえばよい」、「デマゴギーの典型」及び「売れない自著の宣伝意図までが見え、実に不毛かつ不愉快」という言辞が使用されていることは、前記のとおりである。

(一)「冒涜」という言辞は、「ガス室肯定論」の立場からすれば、「ガス室否定論」はガス室の犠牲者となったといわれている人々やその遺族、あるいは「ガス室」の生存者を「けがす」ものと映るという感覚を表現したものと理解される。したがって、原告自身にはそのような意図はないとしても、「ガス室否定論」が反対論者からそのような批判を受けることはやむを得ないものといわざるを得ないし、かつ、右の言辞が「ガス室否定論」そのものに向けられたものであって、原告が人間を「冒涜」するような性格の持主であると断じているものではいことも明らかである。

(二)「パラノイア」という言辞は、「ガス室否定論」を持している原告自身に向けられているという要素をも含むものと解されるが、この言辞も、先の「デマゴギー」と同様、およそ論争の一方当事者が相手方(特に自説をなかなか曲げようとしない相手方)を攻撃する場合に用いられる常套語の一つであって、本件のような論争においては格別の侮蔑的な意味合いを帯びるものとは評し難く、いまだ原告に対する名誉毀損を問擬するには足りないというべきである。

(三)「ガス室否定論者の西岡昌紀氏と共に室内に入り、同志の花田紀凱氏に外からチクロンBを放り込んでもらえばよい」との記述は、梶村が原告の「ガス室否定論」を検証する方法として提案するものであるところ、梶村がその直後に自らも勧めないと自省するように、やや感情的で不用意な発言であることは否めない。しかしながら、この言辞は、梶村の原告の主張に対する強い反発を表わすものであり、原告の社会的評価に直接に関わる内容を含むものではなく、かつ、本件で問題とされている事柄の性質に照らし、まだ社会的に許容できる議論の範囲内のものとみるべきである。

(四)「デマゴギーの典型」という言辞が、本件において名誉毀損を構成するものといえないことは、先に「政治的デマゴギー」について述べたと同様である。

(五)「売れない自著の宣伝意図までがみえ、実に不毛かつ不愉快」という言辞は、ガス室否定論に対する批判ではなく、原告個人を対象にした侮蔑的な表現ではあるが、本件の論争経緯に照らぜば、これが社会的許容性の範囲を超えて原告の社会的評価を低下させるものとはいえない。

4 平成8年12月13日号・「投書」欄の記事について

 本誌同号に、原告が主張する「犠牲になった全ての人々の魂を冒涜すること」及び「年寄りのヨタ話」という言辞が用いられていることは、前記のとおりである。

(一)このうち、「犠牲になった人々の魂を冒涜すること」が原告の反対論者の側からすれば、やむを得ない発言であることは、前に述べたとおりである。

(二)「年寄りのヨタ話」というのは、「ガス室はなかった」とする原告の見解が、根拠のない「でたらめな話」という意味と解される。本稿の論者である寺門にとっては、仮に原告の見解が真実であるとすれば、ポーランド攻府が虚偽の情報をばらまき続けているということを意味するものであって、同人の想像力を超える出来事だとの思いがあり、それが「ヨタ話」という発言を生んだものと推測される。「ヨタ話」というやや品性を欠く言辞が適切であるかとの問題は残るものの、原告の見解を本誌において2度にわたって批判した寺門の強度の疑問を呈する表現として、社会通念上許容される範囲にあるとみるべきである。

5 平成9年1月10日号・「投書」欄の記事について

 本誌同号に、原告が主張する「自らの『仮説』が正しいとうぬぼれるならば、実物大のシャワー室を造り、再現実験を全世界の歴史修正主義者を被験者として、ぜひ行うべきだ」、「片々たる妄説」、「木村氏の友人目ネオナチ」及び「信念のない、もっとも下劣な政治的レトリック」という言辞が使用されていることは、前記のとおりである。

(一)「自らの『仮説』が正しいとうぬぼれるならば、実物大のシヤワー室を造り、再現実験を全世界の歴史修正主義者を被験者として、ぜひ行うべきだ。」という発言は、本稿の論者である西村が、「証明されない推論よりも、当事者の証言の方が資料的価値が高いという常識を指摘したい」がために提案するもので、前記梶村の発言と基本的には同じ発想に基づくものと解される。そして、かかる発言の法的評価については、右梶村の発言に関して前に述べたとおりである。

(二)医師である西村は、ナチスの似非医学思想とこれによる犠牲者の存在を指摘し、この残虐行為の事実は消し去ることができないものであるとする。かかる西村の認識からすれば、「ガス室はなかった」とする原告の見解はナチスによる残虐行為を矮小化するものと映り、そこから「片々たる妄説」という言辞が発せられたものと考えられる。この言辞が適切なものであるかは問題があるが、本件における問題をめぐる論争で、自説の正当性を強調するための言辞として、社会通念上許容されるものというべきである。

(三)「木村氏の友人=ネオナチ」という発言は、原告の見解がネオナチの思想と同質又は親近性を持っていることを指摘するものと解される。これと同旨の発言は、前記の浜地の論稿にも見られたところであり、その評価についてもそこに述べたとおりである。

(四)西村は、原告が、「自らの反ユダヤ主義・人種差別を隠すイチジクに、パレスチナ問題をもちだし、片方でソ連の陰謀説を唱えながら、ドイツ基本法が反共だと非難」しているとして、「こういうのを、信念のない、もっとも下劣な政治的レトリック」と評する。異説に対する批判とはいえ、これを「もっとも下劣」と決めつけることは、正統な論争のルールを逸脱するものとの感を免れない。しかし、この西村の発言も、原告個人の人格や品性を「もっとも下劣」としているものではなく、原告の政治的見解又はその論理の展開手法を批判しているものであることは明らかであり、原告の本音を「反ユダヤ主義者・人種差別主義者」と措定した上での主張であることを考慮すれば、これに対する批判の言辞としてやむを得ない面もあると考えられ、少なくとも、不法行為上の問題にまで至るものではないと解すべきである。


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