『電波メディアの神話』(2-7)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第二章 「公平原則」の玉虫色による
民衆支配の「奇術」 7

戦後の「新」朝日新聞綱領に復古調のかくし味

 ところが戦後になって再び、この「不偏不党」が吟味不十分なまま「朝日新聞綱領」に盛りこまれてしまった。なぜだろうか。起草者の一人、笠信太郎はこう回想している。

「あれこれと書いては消し、消しては書いて、頭をひねくり回したあげくの果てに、文句までも同じの『不偏不党の地に立って』ということに帰ってしまった」(『朝日新聞社史』大正・昭和・戦前編)

 つまり善意に解釈しても、新聞記者流のいわゆる美文調のことばえらびの結果にすぎず、理論的な厳密さなどを期待するのが無理だといわざるをえない代物なのだ。「新」朝日新聞綱領はみじかいので、まずはその全文を紹介しておこう。

 さて、一番決定的なのは、この新綱領がつくられた一九五二年(昭二十七)という、時期の問題である。当時の日本はすでに戦後反動期にはいっていたのだ。

 新聞界にたいする反動攻勢は国際情勢をさきどりしていた。東西冷戦の開始を布告するトルーマン・ドクトリンが発表されたのは一九四七年であるが、一九四六年には読売の第二次争議が敗北におわっていた。朝日では一九四八年、新聞放送単一労組の「十月闘争」ゼネストの際、第二組合が結成され、西部分会委員長以下八名が解雇された。翌々一九五〇年には朝鮮戦争がはじまり、レッド・パージで一〇四名が解雇された。組合は一九五二年に再統一しているが、解雇争議は解決していない。「朝日新聞綱領」の起草者は、当然、解雇されなかった記者たちである。

 それどころか「新」綱領起草の中心となった笠信太郎は、戦前のいわゆる昭和維新に際して、国家総動員を準備した革新官僚らと呼応し、経済評論で名を売った記者であり、まさに戦争犯罪人の一人として裁かれてしかるべき人物だった。現「朝日新聞綱領」は「新」どころか「戦後反動」または当時流行の複古調にほかならなかった。

 朝日新聞にはすでに、敗戦直後に読者にむけて宣言したはずの「国民と共に起たん」朝日45・11・7)の反省はきえうせていた。なぜならすでに、この宣言では「罪を天下に謝せんがため」に「総辞職」したはずの「村山社長」らの公職追放は解除されていた。レッド・パージと戦犯パージ(公職追放)とは、いれかえになっていた。会長として復帰した村山は、この新綱領について、「あくまでも旧綱領に盛られた朝日新聞の伝統的精神を生かしたもの」とか「強調したもの」(『朝日新聞の九十年』)とかたっていたのである。

 なお、笠信太郎は、一九六〇年に日米安全保障条約改訂が強行された時期に、論説主幹の地位にあった。六月十五日の流血の惨事に際してだされた在京七社名義の「共同宣言/暴力を排し、議会主義を守れ」は、地方紙を含めて四八社が掲載するところとなったが、朝日・毎日・読売の三社首脳が起草したものであって、その中心には「美文家」の笠信太郎がいた。拙著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』では同共同宣言の全文を引用したが、長文なのでここではこの宣言にたいするつぎのような新聞労連・日放労(NHK労組)・民放労連の抗議声明の一部を紹介するにとどめる。

「(前略)共同宣言は、事態の本質を『そのよってきたるゆえんは別として』という無論理な表現でゴマ化し、事実上岸(首相)の汚れた手に、救いの手を貸す役割を果たそうとしている」

 さて、なぜか戦前型の「不偏不党」と、戦後型のアメション型ザアマス思考による「公平」とを同時に条文にふくむ現行放送法は、一九五〇年五月二日に公布された。

 当時の放送はNHKラディオだけである。そこでも朝日と同じく新聞放送単一の放送支部が一九四八年の「十月闘争」ゼネストに惨敗し、四分五裂していた。レッド・パージでは一一九名が解雇されたと記録されているが、実際に職場から追われたのはもっと多かったのではないかと疑うむきもある。日本はまだ占領下にあったし、全権を握るGHQ最高司令官マッカーサーの祖国アメリカでは、アカ狩りのマッカーシー旋風がふきまくっていた。マッカーシーがアカ狩りの告発をはじめたのは一九五〇年二月からであり、六月二五日には朝鮮戦争が勃発した。放送法が成立したのは、そのような混乱の真最中だった

 一九四六年に「放送行政全般を管掌」するという趣旨で発足した放送委員会は、新会長推薦のほかには具体的な業績をのこさず、消滅してしまった。関係者の評価はわかれているが、「旧協会独占方式を生き残らせるために適当に利用された」(『戦後改革』)とする憲法学者の奥平康弘の指摘が、もっとも核心をついているようだ。

 奥平が指摘するGHQのかくれた意図、つまり、ニッポン占領支配という基本目的のために「旧協会独占方式を生き残らせ」て利用するという方針は、放送法の成立にも作用したと考えるべきだろう。時代背景を考慮にいれれば「不偏不党」「公平」の規定にも、まだまだ裏の裏がある。奥平はまた、一九七〇年六月号の『アメリカ法』誌に「最近の判例」という文章をよせており、「公平原則」の祖国アメリカにおける「公平原則」のスローガン化、イデオロギー化の「危険性」を指摘しつつ、つぎのようにしるしていた。

「第一に、現在のマスコミ機構を疑われざる所与の前提として、しかもそこに真の『公平原則』が貫徹しうると楽観しうるのかどうか、第二に、そもそも政府による『公平原則』の完全な実行ということを期待しうるものなのかどうか、問題視される余地もあろう。(中略)ひょっとすると、『公平原則』制度は、これにより、公平性が担保されているという幻想を与えるだけの役割を果たすものにすぎないかもしれないのである」

 とかくものごとを善玉か悪玉に単純化したがる日本人には、このあたりの事情はのみこみにくいのかもしれない。だが、近代の民主主義とか議会政治とかいうものが、実際にはブルジョワ支配の隠れ蓑だという理解にたてば、そんなにわりにくい事情ではない。ミコシをカツぐ僧兵が京都の町中でくりひろげた強訴の昔から、なにかといえばどこぞの威光を借りては私利私欲を満たすやからにはことかかない。むしろ、そういう事情を先刻承知のはずの反体制派を自称する論者たちまでが、コロリコロリとだまされてしまうことの方が、私には不思議でならないのだ。


(8)金髪で色白、ブロンド優先の言論の自由に疑問