『電波メディアの神話』(2-6)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第二章 「公平原則」の玉虫色による
民衆支配の「奇術」 6

朝日新聞が権力に救命を懇願した屈辱の誓約

 さて、問題の「不偏不党」は、朝日新聞が判決を前にして紙面で発表した一文によって、世間に公表したものである。

「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」(大阪朝日18・12・1)という長文の宣言であったが、これを原敬は日記の中で、「紙上に全く方針を一変する旨並に改革の次第も記載して世上に告白した」ものと評価している。「不偏不党」は、具体的には事件後の十一月十五日にさだめた「大阪朝日・東京朝日新聞に共通すべき編輯綱領」「四則」の内、三項の書きだし部分であり、前段をなす「四則」の一項には「皇基を護り」とうたわれていた。「不偏不党」に始まる第三項の全文は、つぎのようなものである。

「不偏不党の地に立ちて、公平無私の心を持し、正義人道に本(ママ)きて、評論の穏健妥当、報道の確実敏速を期する事」

 つまりは「穏健妥当」な報道の約束でもあった。しかも、「本紙の違反事件を報じ、併せて本社の本領を宣明す」という宣言のなかでは、「この綱領四則は、今日新たに制定せし者に非ず。……先輩等の語り継ぎ言い伝えつつ実行し来れる不文律」とし、「是れ我社が従来の不文律を明文に著はして、以て永遠の実行を期する所以なり」としたのである。実際には「不文律」どころか、執筆者の西村天囚が直後に「先輩」たちから「さんざんにつるしあげられ」(『朝日新聞の九十年』)たというのが真相であり、いわば歴史の捏造に類する作文の「詫状」であった。

 時代的背景をのべればきりがないが、シベリア出兵の契機は一九一七年のロシア革命である。日本の国内にも急速に革命的な気分がひろがっていた。朝日新聞だけではなく、自由主義的ないしは社会主義的な論調があふれ、のちに大正デモクラシーとよばれる世相がみられた。シベリア出兵には反対の論調をはる新聞がおおく、大阪朝日はその急先鋒であった。政府は、発売禁止で対抗し、出兵がせまった七月三十日には全国で六十もの新聞が発売禁止となっていたのである。

 一方にはその逆に、シベリア出兵につづいて大陸侵略を拡大しようとする流れも強まっていた。村山社長をおそった暴漢が所属する黒龍会は、「黒龍江」(アムール)にちなむ命名からもあきらかなように、中国大陸侵略の先兵をもって自認する右翼暴力団体であった。朝日新聞への一斉攻撃には、かねてからのねらいがひそんでいたにちがいない。

 こうした事実経過からみると「不偏不党」とは、存亡の危機に直面した新聞社がひざを屈して、政府批判をひかえるからと救命を哀願した誓約以外のなにものでもなかった。ヨーロッパでは「カノッサの屈辱」が、ローマ教会と王権のあらそいを象徴する歴史的事件としてかたりつがれているが、それに匹敵する日本の大手メディア「痛恨の屈辱」事件だったのである。以後の経過からみても日本の大手メディアは、軍国主義、侵略戦争への協力になだれを打ってはせ参じている。「不偏不党」を誓約した新聞社は、以後、それに類する「現実主義」だの「公正中立」だの「客観報道」だのという自己弁護のことばいじりによって、結局は読者をだましつづけてきた。


(7)戦後の「新」朝日新聞綱領に復古調の隠し味