『電波メディアの神話』(2-5)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第二章 「公平原則」の玉虫色による
民衆支配の「奇術」 5

米騒動と日本新聞史上最大の筆禍「白虹事件」

 日本の新聞は、明治から大正前期(一八六八~一九一八頃)まで、ほぼ二種類に分れていた。政論紙の大新聞(おおしんぶん)と、大衆紙の小新聞(こしんぶん)である。現存の大手紙の代表格である朝日・毎日・読売は、ともに小新聞を出発点としているが、二〇世紀に入ってからは徐々に、政論も加える総合紙に転じていた。朝日と毎日は大阪の財界のあとおしをうけていたが、一九一〇年代半ばの高速輪転機導入にさきがけ、急速に発行部数をふやし、首都東京への進出をもはたした。

 この時期におきたのが、日本新聞史上最大の筆禍といわれる「白虹貫日事件」、または省略して「白虹事件」である。政治的背景はあとまわしにして、まずこの事件のあらすじだけを紹介しよう。

 一九一八年(大正七)八月、シベリア出兵をあてこむ買占めによって米の値段が暴騰した。おこった富山県の漁村の主婦たちが大挙して米屋におしかけ、うちこわしをはじめた。たちまち全国に火の手はひろがり、東京・大阪・神戸などの都市では焼きうち、強奪の大暴動となり、警察のみならず軍隊までが出動した。いわゆる米騒動である。

『朝日新聞の九十年』などの資料から要約紹介すると、時の寺内内閣は暴動拡大防止を理由に八月十四日、米騒動に関する一切の新聞報道を禁止した。新聞社側は東西呼応して禁止令の解除」および「政府の引責辞職」を要求し、記者大会をひらいた。八月二十五日に ひらかれた関西記者大会には、九州からの出席もふくめて八六社の代表一六六名が参加し、それぞれ口をきわめて政府を弾劾した。

 大阪朝日のその日の夕刊には大会の記事が掲載されたが、その中に問題の「白虹」ということばがあった。

「『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆しが……人々の頭に電の様に閃く」という文脈であるが、漢文で「白虹貫日」と記す中国の故事は、「革命」を意味していたのである。しかも、その一節の前には、「我が大日本帝国は、今や怖ろしい最後の審判の日が近づいてゐるのではないか」とあった。

 寺内首相は一挙反撃に転じた。朝日新聞の報道を「朝憲紊乱罪」(天皇制国家の基本法を乱す罪)という当時最大の罪にもあたるとし、新聞紙法違反により、これも最強力の罰則である「発行禁止処分」、つまりは廃業、会社解散においこもうとした。検事局は問題の記事の筆者である大西利夫記者と編集兼発行人の山口信雄を起訴し、各六月の禁固のうえに朝日新聞の発行禁止処分を求刑した。右翼のボスの組織である大同団結浪人会は、朝日新聞を「非国民」と断じて、その処分に関して司法権を監視すると決議した。

 朝日新聞の村山社長は、当局にたいして監督不行届きを陳謝し、社内の粛正を誓ったが、新聞社からの帰途、中之島公園内で数名の暴漢におそわれた。のっていた人力車は転覆し、村山は暴漢に杖でなぐられたのちに「代天誅国賊」としるした布切れを首にむすばれ、石灯籠にしばりつけられた。おそった暴漢たちは、人力車の車夫が姿を消しているのに気づいて警察への通報をおそれ、「檄文 皇国青年会」としるした印刷物数百枚などを現場にのこして逃走したが、その後のしらべによると黒龍会の所属であった。

 寺内内閣は九月に入るとたおれ、原敬が首相兼法相となった。原は郵便報知新聞の記者から大東日報の主筆をへて外務省にはいった経歴の持主であり、その後にまた大阪毎日からこわれて当時では破格の高給で三年間の契約社長に就任したことさえある。おしもおされぬ新聞界の出身である。だからかえって新聞操縦術にたけていたといえるだろう。村山は原をおとずれて寛大な処置をもとめ、編集首脳とともに自分も辞任した。結果として朝日新聞は「発行禁止」、つまりは廃業をまぬかれた。一件落着を記す『原敬日記』には、ことの次第がくわしくつづられている。

 原は新社長の上野理一を電報でよびよせ、「鈴木司法次官立会にて」決意をたしかめ、起訴された社員にたいして判決には控訴しないよう説得することまで約束させたのである。この会談の三日後にあたる一二月四日に、二人の被告はともに「禁固二月」をいいわたされたが控訴せず、朝日新聞は発行禁止処分をうけなかった。


(6)朝日新聞が権力に救命を懇願した屈辱の誓約