『電波メディアの神話』(2-2)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

第二章 「公平原則」の玉虫色による
民衆支配の「奇術」 2

「多様性の確保」や「複数意見の提出」は可能か

 さて、ここまではまとめて「公平原則」とよんできた規定は、椿舌禍事件に際 だが、これらの「少数派を重視して多様性を確保する」とか「複数の意見をはっきりと提出すること」とかは、どうすれば可能になるのだろうか。または、それを不可能にするために、現体制はいかなる策略をめぐらしてきたのであろうか。この疑問にこたえるためにも、やはり、現行法規のみを金科玉条のごとくに扱う近視眼的な議論に終始していてはならない。権力支配の構造は、どの時代でも複雑だったし、近代に至ればなおさら複雑さをましている。複雑さを避けた議論では、権力によるメディア支配の巧妙さをあばくことはできない。

 井上ひさしの場合には、「公正中立」という、ともに放送法にはない「公正」「中立」の二つ単語の組みあわせで、放送法にかかわる椿舌禍事件を論じていることになる。だが、ここにもこだわるべきではない。さきにものべたように、これらの用語に共通する「あいまいさ」にこそ意味があるからだ。

 たとえば法律の世界では、裁判に「公正らしさ」が必要だという議論がある。私は自分の解雇事件で十六年の裁判を経験したが、その実感をこめて強調したい。裁判の「公正らしさ」と放送の「公平原則」とは、基本的におなじ「あいまいさ」をもち、その「あいまいさ」をふりまくことによって、たくみに現代の国家独占資本による支配の実態をおおいかくす「隠れ蓑」の役割をはたしている。「公」という文字だけにこだわれば、「おおやけ」であり、「きみ」であり、支配者である。「公正らしさ」とは、支配者がいかにも正しくみえることだ。「あいまいさ」のたとえとしてもっとも適切なのは、古代権力者の勾玉に飾られた玉虫色の衣装である。「あいまいさ」がはたしてきた実際の役割は、ことばの解釈だけでは検証できない。やはり、時空をさかのぼり、歴史的事実にもとづいてたしかめるしかない。


(3)無自覚または中途半端な「不偏不党」論議