『電波メディアの神話』(03-6)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 6

当局発表うのみの「学説公害」オンパレード

「二枚腰をきたえる」というのは、理論構築に万全を期すという意味である。その前提はまず、電波メディアに関する「学説公害」の正体の徹底的な暴露にある。

 十数年前の旧著三冊の執筆にあたって私は、自己流の自称「愚直調査」方式で、手当り次第に関連する資料を調べあげた。

 その結果、放送の歴史と理論に関するいくつかの意外な埋もれた事実を発見し、いわゆるアカデミズムの教えとは相反する独自の意見を発表した。その中心が「電波メディア神話」、とりわけその創世紀の「希少性神話」の告発にあった。最初が間違っているから、そのあとは当然、ボタンのかけ違えとなっている。

 法律家の世界には、シェークスピアと同時代の劇作家兼俳優マクリンがのこした「法律は奇術の一種である」という有名な警句がつたわっているが、電波関連法規の数々はまさにその典型である。最先端の科学技術は、政治的な神話にとりまかれ、権力の光輪にしたてあげられているのだ。権力の神官たるアカデミズムは、当然、技巧をこらして神話をかたりつぎ、民衆をあざむきつづける。

 だが当時の私には、日本テレビ放送網(株)に在籍(労組の全面支援を得て不当解雇撤回闘争中)という特殊事情があって、匿名の発表にせざるをえなかった。それでも旧著はそれぞれに版を重ね、数千冊は売れて在庫は完全にゼロである。主要な図書館やジャーナリズム関係の研究室にもはいっているし、メディア論を専門とする教授などからの反応もあった。

 しかし、アカデミズムからは完全に無視された形になっている。アカデミズムの実状、「産・官・学」共同の正体は先刻承知の上だから、別に残念ともおもわず、ひがみもしないが、匿名発表のためにアカデミズムをにがしやすい面もあったと感じている。私の流儀から いうと、本来、ペンネームの執筆にはそれなりの筆者の事情があるのだから、かえってインサイダーの情報源として重要視すべきなのである。

 のちにもくわしく紹介するが、「“アンガージュマン”の欠如」などとなげくひまがあったら、ペンネームのアングラ情報に目をひからした方がいい。それができないのは想像力の欠如というしかない。象牙の塔にこもりっきりで、世間知らずのままフランス語だか「実存主義」哲学語だかを舌たらずにあやつってみても、現実はみえてこないのだ。

 流行り言葉でいえば「たかがアカデミズム、されどアカデミズム」といったところで、アカデミズムも大手メディアも虚名ながら世俗的な権勢をほこっている。水にたたきおとして正体を暴露し、二度とふたび浮かびあがれないようにシッカリとたたきのめさなければ、悪影響の除去は不可能だ。だから一九八八年に和解で退職して以後、フリーになり、いずれ実名で、しかも無視できないようなやり方で挑戦しなおそうと考えていたところへ、椿舌禍事件が突発したのである。


(03-7)著名大学教授や著名評論家らの社会的役割