『電波メディアの神話』(03-7)

電波メディアの国家支配は許されるか?……
マルチメディア時代のメディア開放宣言

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.1

序章 電波メディア再発見に千載一遇のチャンス 7

著名大学教授や著名評論家らの社会的役割

 私の手元の活字メディアによる椿舌禍事件報道と論評のファイルの厚さは約六センチに達している。それだけの騒ぎではあったのだが、私がもっとも不満なのは、せっかくのチャンスなのに一番基本的なことが追及されず、電波メディアの基本原理がいささかも明らかにならなかったことだ。これでは従来からの「学説」公害のたれ流し、むしかえしでしかない。千載一遇のチャンスだというのに、根本的な改革への可能性が生かされていない。

「基本原理」の反対側にはもちろん、すでに冒頭にものべた「学説公害」がある。

 新聞ばかりでなく雑誌もふくめて大手の活字メディアは、およそ放送やら言論やらにすこしでもかかわりのありそうな著名大学教授や著名評論家らを一斉に動員した。「放送法では云々」という文章が、そこらじゅうにあふれた。にもかかわらずそこには、なぜ放送だけが、活字メディアにはない「公平原則」という現実には実現不可能な法的義務を課せられ、結果として体制擁護の役割をはたたしつづけてきたのかという、もっとも根本的かつ根源的な疑問に迫る論評はまるでみあたらなかった。ましてやその謎をとく核心的な歴史的事実にまでさかのぼろうとする努力は、ほぼ皆無だった。これでは、その場しのぎの、おざなりの仕事でしかない。結果として、「学説公害」のたれ流しのままになっていた 。

 こういう簡単なことが、どうして著名大学教授や著名評論家らには理解できないのだろうか。もっとも私は、このところ連続して似たようなおもいをしている。湾岸戦争、佐川疑獄、カンプチアPKO、いずれも核心的な歴史的事実がぬけおちた一時的で表面的な報道と論評の連続だった。だれの仕事かといえば、やはり、大手メディア、著名大学教授、著名評論家、著名政党の著名政治家らの仕事であった。

 読者はおどろき、かつあやしむだろうが、私の言を疑う前に最近の日本の政治状況とそれに関する新聞記事解説などをおもいうべてほしい。それらも、かなりいい加減なものではないだろうか。放送などという世間には表面しかみせない世界のできごとに関しては、さらに輪をかけていい加減な論評がまかりとおってきたのである。

 私自身もかつては初学者として放送に関する類書を何冊か買いもとめ、比較検討しながら読んだ際、そのあまりの粗雑さにおどろいてしまった。私が放送の歴史を本格的に勉強しだしたのは、日本テレビ放送網(株)(営利会社の意味を強調するためにフルネームを使用)で十数年働き、労働組合関係で「放送民主化」のたたかいをながらく経験したのちだった。つまり、放送事業の実態を底辺であじわい、本音と建前のくいちがいを実感し、かなりの辛酸をなめたのちに、アカデミズムが説明する放送の(カッコつき)「歴史と理論」にふれたわけである。そうでなければ、のちにのべるような「模範答案」の暗記を得意とする優等生たちと同様に、「学説公害」を信じこみ、それを克服できなかったかもしれない。


(03-8)国際的にも非常におくれた放送の歴史的研究