『読売新聞・歴史検証』(12-1)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略 1

「自らを罪するの弁」から「一斉に右へならへ」までの軌跡

 大手メディアの戦争責任と戦後五〇年を語る場合、問題があるのは読売だけではない。

 日本の大手メディアは全体として、天皇制とともに、いやむしろ、それよりも巧妙に戦争責任を回避し、敗戦後の混乱を生き延び、今や国際語の「ケイレツ」支配を拡大し続けた。最大の秘訣は、各社それなりの「民主化」の許容と、さらにはそれと裏腹の関係のレッド・パージによる後始末の成功であった。読売の場合には他社に先駆けて二度の争議を経ている。正力に反旗をひるがえした労組の中心的な幹部や記者たちのほとんどは、すでにレッド・パージ以前から社外に追い払われていた。

 敗戦直後の戦争責任追及の社内外の世論のなかで、毎日社長の奥村信太郎が八月末に自主退社したのを皮切りに、朝日の村山長挙ら四〇社の新聞社長が、次々に退陣した。ただし、この「退陣」には、「少なくとも表面上は」という留保をつけ加えておいた方が正確であろう。結果を見れば、株主の地位に変化はなかったし、多くの経営陣が、その後の「逆コース」時代に地位を回復しているからだ。

 その後といっても、敗戦から数えてたったの四年後の一九四九年から一九五〇年にかけて、レッド・パージの嵐が日本全土を吹きまくった。それとはまったく逆に、一九五〇年から戦犯の公職追放解除が始まり、裏部屋に隠れ住んでいた旧新聞経営者は続々と元の重役室に戻ったのである。

 アメリカ人記者、マーク・ゲインは、『ニッポン日記』で、その頃の日本の新聞経営者が「一斉に右へならえ」をしたと皮肉っている。

 戦後の新聞の「反省」の経過については、元毎日新聞記者、前坂俊之の『戦争と新聞1926-1935』などに、注目すべき分析が見られる。新聞の企業ジャーナリストだった立場の筆者による新聞の戦争責任追及としては、かなり踏みこんだ鋭い批判をふくんでいる。それを土台にして、わたしの「反省」批判の視点を整理してみたい。

 朝日が敗戦直後の八月二三日に発表した「自らを罪するの弁」、一一月七日の社告「国民と共に起たん」などが、「反省」の典型である。それらは、前坂も批判するように、まことに不十分なものであった。

 わたしの批判は、結論からいうとさらに厳しくなる。起草の中心になった記者や、労組活動家などの個人的な思いとは別に、それらは、「米占領軍の支配下で自社の存続を図る苦しまぎれの集団的意思の表われでしかなかった」というのが、わたしの結論である。

「反省」の関係者が悪質な嘘つきだったというつもりではない。当然のことながら、記者も人間である。特別の資質が備わっているわけではない。むしろ、普通の人間だということを強調しておきたい。その人間の弱さというものについては、わたし自身も、戦後も二七年後から一六年にわたって経験した解雇反対闘争の過程で、つくづく味わってきたのである。

 本当に皆が「新聞が犯した罪」について心から反省していたのであれば、ただちに自社の解散を決議し、それをあらゆる手段に訴えて実行すべきだったのである。実際に個人的な実行におよんだ事実としては、元朝日記者、むの・たけじの「たいまつ」発行などのいくつかの例証がある。だが、むののようないわゆる「馬鹿正直」な記者は、ごくごくの少数派であった。大多数は、「自社維持」、つまりは自分と家族の「生計維持」の本音を、潜在意識の奥底に押しこんで、きれいごとの「言葉の羅列」にすがりついていたのではないだろうか。だから、レッド・パージの雷鳴が轟いた途端に、即席の組織と友情は、もろくも崩れ去ったのである。


(12-2)「新聞自体が生きのびるため」の基本条件を棚に上げた議論