『読売新聞・歴史検証』(1-1)

第一部 「文学新聞」読売の最初の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第一章 近代日本メディアの曙 1

準幕臣の江戸期文化人が創設した日本最古の大衆向け教養新聞

 読売は、「俗談平話」を旨とする「小新聞」(こしんぶん)として、一八七四年(明7)の一月二日に創刊された。現存の三大紙のなかでは最も古い。

 ただし、この創刊年代の古さに関しては、異論がないわけではない。

「新」の字を頭にいただく新聞商売でありながら、骨董品と張り合って「古さ」を競うのも滑稽なのだが、現在の読売は当然のように、その「古さ」を強調している。正力以前の半世紀をも、後生大事に「社史」の神棚に飾っている。ふりかえってみれば、正力による「乗っとり」が起きたのは、その時すでに半世紀を経ていた読売の題号が、老舗のブランド(語源は家畜の焼き印)としての値打ちものだったからこそである。古さと「元祖」の争いはなにも、焼きいも屋や「万世一系」の天皇制だけの特権ではない。古今東西の人類史に共通の自己宣伝の基本である。とにもかくにも、「長年通用してきた」という実績の証明だけにはなるからである。

 そこで、一九七〇年代に「朝・毎・読」の三大紙が、一斉に創立百年の記念事業を競った時期に、毎日が超々ウルトラCのダッシュを決めて、読売を追い抜いてしまった。

 タイム・マシーンが出てくるSFばりの奇妙な話なのだが、これにも一応の根拠がある。

 どうしてかというと毎日は、読売より創刊の早い政論紙の『東京日日新聞』を一九一一年(明44)に合併していたので、そちらの創刊の一八七二年(明5)二月二一日を全体の創刊日に定めたのである。

 本体の大阪毎日の前身で政治新聞だった大阪日報の創刊日は一八七六年(明9)であり、大阪毎日への改題は一九八八年(明21)一一月二〇日である。しかも、『毎日新聞百年史』によると、大阪毎日の系統の各本社発行の号数は、六年後に「『大阪日報』を身代わり新聞に残して藩閥政府攻撃に立上がった『日本立憲政党新聞』のそれを継承している」というややこしさである。大阪毎日と東京日日の題号を毎日に統一したのは、一九四二年(昭17)になってからである。

 合併した相手の創刊日の方が古ければ、そちらを採用するのが業界のしきたりだとすれば、読売も報知(最初は郵便報知新聞)を合併している。こちらの創刊日は東京日日と同じ年の一八七二年(明5)六月一〇日である。しかし、読売は報知を別途、現存のスポーツ紙の題号として独立させており、報知の創刊日を自社の出発点とはしていない。

『毎日新聞百年史』に明記されているところによれば、合併当時の東京日日は「経営的には不振の一途をたどり、三菱でもすでにもてあます状態に至った」のである。委譲の「条件は、東京日日新聞の題号を存続すること以外何もなく」、ただ同然どころか逆に「名義維持に必要な費用」まで寄託されて引き取ったのである。ところが、「名義維持」の方は中途で放棄しておいて、「創刊日」だけはいただきというのだから、毎日側の「古さ」の強調の意図も、大いに「眉つば」ものである。

 朝日は、一九七九年(明12)一月二五日に大阪朝日として創刊されている。東京への進出に当たっては、一九八八年(明21)に自由党系の政治新聞、『めさまし新聞』を合併し、同じ年に東京朝日に改題している。全国の題号を朝日に統一したのは一九四〇年(昭15)になってからである。『めさまし新聞』は、一九八四年(明17)に『自由燈』の題号で創刊されている。朝日の場合には、毎日とは逆で、東京で合併した相手の『めさまし新聞』の創刊日の方が遅かったから、そちらを全体の創刊日に定めるなどということは起こるわけはない。

 読売の場合は、東京生え抜きで、題号が最初から同じままであった。一六一五年(元和元)大阪夏の陣以来とされる「よみうりかわら版」に因む命名であり、最初はその伝統を生かして読売屋(よみうりや)と呼ばれた売子が、鈴を鳴らして街角で売ったという。

 創始者の中心で初代社長の子安峻は、一八七〇年(明3)一二月八日に創刊され、日本最古の日刊紙とされる『横浜毎日新聞』の創刊者の一人でもあったし、やはり日本最古といわれる鉛活版印刷所、日就社の創立者でもあった。

 日就社は、子安らが編纂する『英和字彙』(じしゅう)(英和辞典)の刊行を第一次の計画として、一八七〇年(明3)四月、横浜元弁天町に設立された。その刊行終了後、東京の芝琴平町に移り、そこでさらに、創立当初からの目的の一つでもあった第二次計画の新聞発行に至ったのである。一九一七(大正6)年に社名が読売新聞社に変更されるまでは、日就社発行の読売新聞だった。印刷と新聞を同じ「プレス」という単語で表現する欧米の習慣で考えると、読売新聞社の「プレス」としての創立は、日就社が創立された一八七〇年(明3)四月にさかのぼることになる。

 子安峻は元岐阜大垣藩士である。同じく日就社を創始した仲間には、元佐賀藩士の本野盛亨、長崎の医者の養子の柴田昌吉がいた。三人ともに、薩摩や長州の出身者が主流を占めた明治維新政府の下では、下手をすれば反主流の失業インテリになる立場であった。ところが、この三人は幕末に洋学を志し、しかるべき実務経験をも積んでいた。明治維新政府の下に横浜で、子安と柴田は外務省翻訳官、本野は運上所事務取扱などの立場で合流し、共同の事業を計画したのである。

 読売を創刊する時点では、本野が外務省一等書記官としてロンドンに赴任しており、柴田は日就社の「出版方」を担当したから、読売の中心はもっぱら初代社長の子安であったといえる。子安は、幕末に大垣藩から江戸に派遣され、幕府の神奈川奉行(のちの裁判所)で翻訳方などを勤めていた。そこで同じ仕事のまま、新政府から「引き続き奉職」の辞令を受けている。いわば元準幕臣の出身である。薩長閥支配の明治維新政府の下で、東京の古くからの住民が読売に「江戸の香り」を覚えたとしても、それは偶然ではなかった。

 ただし、ここで「江戸の香り」という表現をしたのは、別に、薩長閥やら、大阪の財界を背景に進出した朝日や毎日への、「江戸っ子」の対抗意識に荷担する意味ではない。わたし自身は九州出身だから、九州弁の「田舎なまり」を嘲る「江戸っ子」気取りの俗物臭をも、存分に味わっている。歴史を客観的に見直すためには、「公方様のお足元」気取りの江戸っ子が、薩長閥の「田舎もん」や、がめつい大阪の「贅六」(ぜいろく)に対して抱いた実感を、知る必要があると思うだけである。

 子安峻らの人となりについては、旧著『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』(汐文社)執筆の際、大いに興味を惹かれながらも、専門誌の資料探索にまで至らず、不十分さが気になっていた。果たせるかな、それ以前に「子安峻」に関する論文が『新聞研究』(52・8)に発表されていたことが分かった。わたしがそれを知ったのは、その論文が単行本の『日本ジャーナリズム史研究』(みすず書房)に収録されていたからである。著者の西田長壽(たけとし)はすでに故人であるが、巻末に記された略歴によると、一九三〇年から一九六四までの三四年間、東京大学法学部明治新聞雑誌文庫に勤務していた。子安についてまとめた文章の発表については、みずから、「古新聞の番人である私の義務」と表現している。書き出しは、つぎのようになっている。

「わが国の新聞の草創期の功労者を幾人か挙げるとすると、そのうちの一人として是非加えてもらいたいのが、この子安峻である。晩年不遇であったために、彼がわが国の文明の進歩にあずかった幾つかの事績も、彼の名とともに忘れられがちであることは、彼のために惜しいことである。もし彼が、明治十年代のはなやかさを持ち続けて、世を終わっていたとしたならば、新聞経営者としての彼の名も、朝日の村山龍平や、毎日の本山彦一等とともに今日の新聞人の胸に生きていたかも知れぬ。そこに人間の運命とでもいうものがあるのだろう」

 子安が中心になっていた「事績」は、貿易会社、貯蓄銀行、保険会社、日本銀行の設立から、能楽堂の建設などにまで至っていたようだ。まさに明治初期の民間の「元勲」とでもいうべき人物である。いわゆる「文明開化」の先導役だったのだ。「晩年不遇」については、「決定的な打撃は九州で経営していた炭礦事業の失敗とのことであるが、これについては語るべき資料に接していない」とある。新聞やその他の文化的事業における失敗ではないし、その不遇の晩年にも、『いさみ新聞』(のち『勇新聞』に改題)の発行で「捲土重来を期した」が、これも一二五号で廃刊になったという。新聞発行に対する想い入れが、人並み以上に強かったようだ。

 西田によれば、『故子安峻氏の略伝』には、つぎのような読売創刊の主旨が記されているという。

「氏尚以為く我国を開明に導かんと欲するには人智を開発すべき新聞紙無る可らずと因て英和字彙出版後は其活字を以て新聞紙を起こさんことを計画し明治七年に至りて始て我読売新聞を発刊せり」

 創設仲間の「本野盛亨の懐古談は、この点をやや具体的にしている」という。その要点は次のようである。

「当時人情風俗が極腐敗して居りましたから一番新聞を出して、それを改良しようといふ相談をしまして、忠臣義士烈貞女といふような、とに角善行ある者の事を俗談平話体に書いて、中以下の……以呂波さへ読める者には誰にも読めるやうにしたいと相談をきめました」

 以上のような主旨は、すべての漢字に「ルビ」を振るという工夫にも表われている。「忠臣義士烈貞女」の価値観の方については現在、いささか異議があるだろうが、「人情風俗」の「改良」を上からの号令や説教ではなくて、庶民レベルの「俗談平話体」で語ろうとした点に、子安の思想の基本がうかがえるような気がする。

『読売新聞百年史』の欄外に設けられた「子安俊」の項によると、一八七七年(明10)年に「外務少丞」を「退官し士族籍も返上」している。つまり、子安は、華族・士族・平民という明治維新から戦後まで続いた身分制度に反対だったのかもしれない。その一方で、所属の佐賀藩が幕末に新政府側に付いたという立場の本野の方は、子爵位を授けられ、華族になっている。


(1-2)文学の香りに満ちて銀座の一時代を築いた明治文化の華