『読売新聞・歴史検証』(12-2)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十二章 敗戦後の「ケイレツ」生き残り戦略 2

「新聞自体が生きのびるため」の基本条件を棚に上げた議論

 当時の日本の有力紙の記者たちは、戦争協力に走ったメディアの右傾化の根本原因を、知らないわけではなかった。前坂は、朝日で戦前の東亜部、戦後の外報部長、専務取締役を経験した秦正流の発言を引用しているが、その核心部分は、つぎのようである。

「新聞が、どうして戦争協力に走ってしまったか。それは新聞自体が生きのびるためであった」

 前坂はさらに、同じく朝日で戦前は編集局長、主筆、転じて情報局総裁を経験した緒方竹虎の、戦後になってからの、次のような「大新聞がなぜ敗北したか」の弁明を引用している。

「私はもし、主張のために新聞を発行するのならば週刊紙でなくてはだめだ、というのが、その時に得た結論だった。大新聞は正にその反対であった。一回の発売禁止によって数万円の損をかもす。それに米国と違って暴力の直接行動に実に弱い。

 こうかつな暴力団は新聞社の弱点は広告にありと広告主を脅し、朝日新聞から広告をボイコットさせようとした。広告主としてはいうまでもなく、とんだ迷惑であり、もちろんその尻は新聞に来ざるを得ない。重役会はここに到ってわけもなく無条件降伏である」

 前坂は、この弁明にたいして、「それならば、もっと販売力の弱い地方紙の『福岡日日』[後出、現『西日本新聞』]の抵抗はどう説明できるのだろうか」と批判しているが、この点に関しては若干の異論がある。

 この緒方の弁明には、たしかに、小器用で「こずるい」メディア人の逃げ口上の、典型を思わせるものがある。しかし、これは以外に正直な本音なのではないだろうか。

 まずは、中央紙と地方紙では、政治的な位置づけがおおいに異なる。むしろ、わたしは、地方からの草の根民主主義に反撃が弱かったことの方に、日本の近代の底の浅さを見るべきだと思う。

 つぎに、当時の地方紙は、新聞統合政策の結果、県域内でのシェアの拡大ができた。競争相手がなくなり、経営が安定していた。

 もちろん、一県一紙体制で生き残るためには、政治的な妥協も必要だったにちがいないだろうが、『福岡日日』の場合にはとくに、伝統的な地盤が強固だった。すでに朝日の「白虹事件」と「不偏不党」宣言に関する項目でふれたように、『福岡日日』の中興の祖とされる征矢野半弥は、政友会の代議士でもあった。地元では県政友会の指導者だった。征矢野は、社の方針として「偏理偏党」を掲げ、政論紙としての位置づけを明確に宣言していた。部数拡大、ひいては広告収入増大のために一喜一憂する「大新聞」とは、伝統的な経営方針がまるで異なっていたのである。

 さらには、頑固一徹をよしとする九州人の心意気もある。当時の『福岡日日』の副社長、菊竹六鼓による「五・一五事件」批判や「議会政治の擁護」の論戦には、まだまだ、それなりの地元の支えがあったのだ。しかも、その菊竹ですらが、前坂も認めるように「満州事変では満蒙権益論を支持する」という程度の、やはり、国際的に見れば手前勝手な侵略思想の持ち主でしかなかったのである。

 あえていえば、当時の企業ジャーナリスト全体の水準をも、この際、改めて問い直す必要があるだろう。前坂は、戦後に辞任した毎日社長、奥村信太郎の「お家大事」の弁明を批判して、「言論機関としての使命の放棄ではないだろうか」と問いかけている。だが、この種の批判は、実は、ないものねだりではないのだろうか。かれらのような「経営者」たちに、「使命感」などが、もともと少しでもあったのだろうか。

 それ以前の毎日社長だった本山がすでに公然と、「新聞は商品である」と唱えていた。もとをただせば、毎日も朝日も、江戸っ子からいわせれば「贅六(ぜいろく)新聞」の出であって、新聞記者のほとんどが「言論人」を潜称する「官報的情報」の運び手であり、単なる「商売人」でしかなかったのだ。現在でも、その種の自称ジャーナリストは、そこらじゅうにウヨウヨしているではないか。ジャーナリズムという一見偉そうな用語自体も、もとを糾せば、古代ローマでカエサルが創始した官報の中の「ディウルナ」(日刊)という単語に発し、「速報性」の意味しか持たないのである。

 命を賭けても守り抜くという覚悟を抱けるほどの、自信のある主義主張がなかったからこそ、戦前の「大新聞」の記者たちは、簡単に暴力に屈してしまったのである。過去の宗教家や、一揆の指導者とくらべてみれば、戦前の企業ジャーナリストの精神的な弱さは明白である。その弱さの、もうひとつの表われは、労働組合はおろか、記者の横のつながりとしての親睦団体すら結成できなかったことだ。この弱さは、第一部で紹介した読売記者の最初のストライキの失敗以来、まったく克服された気配はない。戦後五〇年の現在でさえも、まだまだ「五十歩百歩」の実情である。要するに「殿様の成れの果て」のままなのだ。


(12-3)「社長……」と嗚咽しつつ、今度は米軍に妥協した戦後史