連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その4)

「科学的社会主義」vs「元祖やきいも」

1999.1.22 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

 本連載を興味深く読んでいるとの現役日本共産党員からの個人宛mailを拝受。情報源を秘匿するのは当然の義務と心得るが、御声援有難う。頑張ります。


 日本共産党はその綱領の基本に「科学的社会主義」を位置付けている。

 かつては「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」とか称していたのだが、それらの総合的発展として「科学的社会主義」の用語を定めたのである。しかし、「科学的」という今更ながらの形容詞については、反発する向きも多い。

 本来、この「科学的」という形容詞は、マルクスの盟友、エンゲルスの著書『空想から科学への社会主義の発展』に由来するものであって、マルクスの主著『資本論』によって社会主義思想が、初めて科学的な基礎を与えられたという主張を意味しているのである。だから、論者によっては、「マルクスの理論そのものが一つの社会科学の体系を成しているのだから、ことさらに科学的という言葉で飾る必要はない」などということになる。

 私なども、世間を下から斜めに見るのが商売のマスメディアの世界に住んでいたから、「科学的」と気張って枕に振られると、ついつい笑ってしまう方である。実際に、日本共産党が「科学的社会主義」の用語を決定する以前にも、声を張り上げては、「科学的な情勢分析」を強調する名調子(?)の演説が得意な労働組合のオルグがいたのである。その頃から私は、この「科学的」の枕振り方式を「元祖やきいも」と名付けていた。

 では、『資本論』には、どのような「科学的」な基礎があったのかということになると、まともな回答ができる日本共産党の幹部は、あまり見当たらない。

 基本的なところから、私なりにこだわると、『資本論』の原題は、正確には、『資本/政治的経済学批判』なのである。原型となったマルクス自身の著書には、訳題『経済学批判』があるが、これも正確には同じく『政治的経済学批判』である。

 並み居る経済学者が、なぜ、この「政治的」(Politischen)を無視し続けたのか、私には分からない。誰に聞いても答えがない。もしかすると、戦前には「政治的」とあるだけで「発禁」が決定的になったからではなかろうか、などと興味津々。ともかく、この「政治的」と言う単語を無視すべきではないと考えている。意味に関しては、「政治的」という直訳よりも「国家主義的」と意訳した方が適切だと思っている。

 なぜかというと、日本では『資本論』の第4巻になっている「ノート」の『剰余価値学説史』の方が先に書かれていて、そこでの最大の批判の対象は、アダム・スミスの著書、訳題『国富論』または『諸国民の富』だからである。この原題は、以下のように長い。

「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」である。

 問題は特に、Nationの訳語にある。どんな英和辞典にも、「国民、国家、民族」の訳語が並んでいる。まともに考えると、いったいどれが適切なのかと、迷わざるを得ない。

 語源はラテン語だが、羅和辞典では natioが「出生、誕生、種族、人種、国民」などとなっていて、「国家」はない。本来は「出生」(natura,natus)に発する単語の群れの一つなのだが、近代になって「国民国家」または「民族国家」(nation state)の意味を帯びるに至ったのであろう。さらには、政治家が、自然の出生と国家への帰属を意図的に混同する「政治的」修飾によって、「種族」を「国民」に仕立て上げ、「国民」を「国家」の従属物とし、「国家」の名における集団殺人(戦争)の道具にまで陥れたのである。

 以上のような文脈で、私は、『資本論』の副題の「政治的」を、さらに具体的に「国家主義的」と意訳する方が、分かりやすいと考えているのである。

 しかし、このような考え方を議論する場は、日本共産党の通常の組織の中には、まるでなかった。

 私が参加していた「資本論勉強会」には、たまたま、現在の日本共産党の委員長、不破哲三の鉄鋼労連書記局員時代を知る先輩が何人かいた。彼らに言わせると、「フワテツは資本論なんてもんじゃはない」のだった。要するに資本論の勉強はしていないという意味である。世間周知のように、ミヤケンは「元文芸評論家」であり、資本論を云々した試しがない。不破哲三の実兄、上田耕一郎も同様である。

 若手の書記局長については寡聞にして何らの情報も持ち合わせていないが、やはり、それほどの経済学的知識があるとは思えない。これも若手の地元日本共産党議員らに探りを入れてみると、まさかの時は「**さんがいる」という返事になる。つまり、他は、それ以下ということである。

 以上のような「科学的」状況について、私は、一つだけ確実に言える事実を実体験している。それは不破哲三の『資本論』に関する発言の誤りと、その訂正の仕方の不誠実さである。この事実は、小さいことのようだが、人間の誠実さ、信頼性に関わることなので、私自身の日本共産党への評価と今後の可能性についての予測にとっては、決定的にマイナス効果を持っているのである。

 ある時、日本共産党の機関紙、日刊新聞の『赤旗』に、不破哲三の談話が載った。そこではマルクスが『資本論』に書いた言葉が、(資本家の思想は)「あとは野となれ山となれ」だとなっていた。だが、この「あとは野となれ山となれ」は、昔から日本にある表現である。私は、すぐに気付いた。不破哲三は、うろ覚えで、マルクスが引用した有名なルイ16世の表現、「わが亡き跡に洪水よ来れ」を、ほぼ同じ意味の日本語の表現と取り違えたのである。実は、この少し前に、『わが亡き跡に洪水よ来れ』(「亡き」は単に「なき」、「跡」は「後」だったか?)という題名の本も出ていたのである。かなり前には『洪水の後』だったか、うろ覚えだが、そんな日本語題名のフランス映画があった。「洪水」は、旧約聖書の目玉商品だから、いわば重要なキーワードである。欧米文化かぶれならずとも、およそ『資本論』を齧ったことのある者にとっては、この取り違えは恥となる。

 だから私は、早速、日本共産党の本部に電話をして、即刻訂正するように求めた。

 ところがまず、電話を受けてくれた『赤旗』記者が、『資本論』などまるで知らない。トンチンカンな長話を繰り返して(ああ、電話料金は、こちら持ちだった)、やっと「検討します」の返事に到達した。次には、その後、ウンともスンとも、まるで訂正記事が現われない。やっとしばらくして、不破哲三が、いかにも前から知っているかのように、「わが亡き跡に洪水よ来れ」という「マルクスが引用した有名なルイ16世の言葉」について語る記事が出現した。だが、不破哲三が、それ以前に「間違えた」または「取り違えた」という訂正記事は、一度も出なかった

 日本の大手新聞が、ほんの時たましか「訂正記事」を出さないことは、世間周知の事実である。だからといって、日本共産党が、どうせ「新聞記事」のことだからとばかりに、同じ真似をしても良いということにはならない。私は、この問題についての日本共産党または不破哲三個人の反省を求め続ける。

 なお、こちらは貧乏でも、「毎年ハワイに行っている」との批判も出るほどの大手になった『噂の真相』編集長と同様に、いや、よりも太っ腹だから、別に、恥を掻くのを心配して掛けた時の電話代に利子を付けて寄越せなどとは言わない。

 以上で(その4)終り。次回に続く。


(その5)「階級闘争」短絡思考は「マルクス読みのマルクス知らず」
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