連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その1)

仮初にも「民主主義」を言うのなら

1999.1.1 WEB雑誌憎まれ愚痴連載 1999年元旦から毎週、のち散発の各号

 鼠が集まって誰が猫に鈴を付けるか相談する寓話があった。

 この寓話を枕に振ると、なおさらのことになるだろうが、どう転んでみても、私がここで日本共産党について論ずると、おそらく誤解だらけの反応が起きるに違いない。

 しかし、それを恐れていたのでは、「もの言わぬは腹ふくるる業」とか、少なくとも健康には宜しくない。むしろ、この際、大いに世間を騒がせてみたいものである。それぐらいのことをしないと、今の社会を変えるのは不可能であろう。

 つい最近のことだが、ある生真面目な日本共産党員と酒を飲みながらの話で、ついつい気軽に、「この問題では共産党も与党」という主旨の発言をしたところ、「他の政党と一緒にするな」と怒るので、私は、「他の政党は問題ではない」と彼をいなした。

 事実、社会党は空中分解してしまったし、新左翼諸流派は、まだまだ非力で、問題とするに足りない。

 そういう反体制派の実情を踏まえて考えると、日本共産党が「民主的」かどうかということは、周囲のすべての関係者、日本国籍ばかりではなくて、広い意味の関係者、たとえば古典的スローガン、「万国の労働者」全体にも影響するのである。

 そこで、普遍救済の立場から、この際、遺言のつもりで遠慮のない論評を開始する。

 まず最初に、私自身の党歴を簡潔に述べる。

「二重秘密党員」としたのは、第一に、私が日本テレビ放送網株式会社の社員だった頃、大手メディアの党員は「非公然」と称されていたからである。地域別の地区委員会ではなくて東京なら都委員会の直属組織に所属していたのである。

 第二に私は、のちに詳しく述べる特殊事情の下で、そこからも「秘匿」の扱いを受けたことがある。だから「二重」としたのである。

「非公然」組織所属の場合には、都党大会とか、党大会とかには、代議員として出席するわけにはいかない。一度だけ、専従の都委員を代議員に選ぶ会議に出席したことがあるが、その時には特に疑問を覚えなかった。

 その後、イリイチとか名乗る東大の学生党員が、伊豆で行われた党大会の会場前でビラを撒いて除名処分になった。その際の新聞記事に、「代議員の選出方法がおかしい」という主旨のイリイチの主張が載っていたが、これも、そんなに詳しい記事ではなかったので、少しは気になりながらも実情調査まではしなかった。

 フリーになってから、地元の支部に所属し、初めて迎えた地区党大会の代議員選出を経験して、やっとのことで実情が分かった。

 この実情については、その後、古参党員の何人かに話してみたが、皆が、首をかしげるだけで、まともな返事をしない。やはり、猫に鈴を付ける役回りは嫌なのだろう。

 以下、その実情を具体的に述べる。

 その時に私が所属していた支部には、18人の党員がいた。普段の会議、といっても月1回こっきり、党費と新聞代集めが中心の会議に参加するのは、4,5人だけである。地区党大会の代議員選出は最重要のイヴェントなので、出席できない党員からは委任状を集め、過半数を越える10人が集まった。顔見知りの地区委員も参加していた。

 地区党大会の代議員選出は10人単位で1 人だが、18人の場合には4捨5入で2人を選出できることになっているという説明があった。

 その時は、普段、いつも選出されて出席してきた支部長が、よんどころない用事ができて、私に代わってくれというので、公然化は嫌だなと思いながらも私が立候補した。

 もう一人立候補すれば、定員通りだから信任投票になる。ところが、その際、先に記した顔見知りの地区委員が、今まで一度も会ったことのない男を、「地区委員のだれそれ」と紹介して、彼を選んでくれと言うのである。彼は、支部の所属ではない。

 私は、長いこと労働組合の役員をやっていたから、即座に、「それはおかしい」と反対した。支部の代表として代議員を選ぶのだから、支部所属の党員にしか被選挙権がないのが当然である。それだけではない。「地区委員は、大会で批判を受ける執行部側なのだから、代議員になる資格はないはずだ」と私は主張した。これは開闢以来の事件のようであった。

 その時に、かつての非公然、直属時代の経験が蘇った。イリイチ問題の記事も思い出した。「これがそうか」と思い当たった。

 しかし、その時には他に立候補者もないことだし、私は、意見を保留して、自分一人の名前を投票用紙に記入した。

 ところが、選挙管理に選ばれた党員は、無記名の用紙を集計する際、非常に緊張した表情になり、「二人とも満票で当選」と発表したのである。明らかに間違いなのだが、ここで揉めても仕方がないと諦めて、地区党大会で異議を唱えることにした。

 結果として私の異議は無視されたのだが、地区委員会の説明では、日本共産党が朝鮮戦争の時期の分裂を解消した歴史的な「6全協」の際、「選ばれて出てこい」としたのが、この選出方法の始まりだと言うのである。

 これもおかしな話である。いい加減な習慣を許すと民主主義は崩壊する。事実、昔から、「日本共産党に民主主義はない」と大声で語る古参党員が多数いたのである。

 因みに、「市長が独裁化している」と批判されている最中の武蔵野市の市議会においてさえも、執行部側の市長や部課長は、答弁をする立場だけで、議決権は持っていない。

 以下、具体的な数字を示して、日本共産党の「代議員選出方法」のおかしさを、さらに詳しく説明する。

 おおざっぱに言うと、地区党大会の代議員は100名ほどである。地区委員は50名ほどである。代議員の内の50名を、本来は執行部側であるはずの地区委員が占めていたら、どういうことになるかというと、これは簡単である。執行部の地区委員会の提案に、それを作成した地区委員が反対するわけがない。地元では特に専従の地区委員のことを、「胃袋を機関に預けている人」などと言うのである。地区委員プラス平党員の代議員がわずかでも賛成すれば、シャンシャン大会となる。

 事実、私一人の「保留」で、ほとんどシャンシャン大会に終わった。これは、その後の私の「除籍」への伏線となるのだが、その話は、これまたのちに詳しく述べる。

 異議を無視された私は、腹が収まらないので無理をして、この地区党大会のメイン・イヴェント、都党大会の代議員に立候補してみた。地区委員会が用意した定員通りの立候補者以外の立候補は、これまた、開闢以来の事件のようであったが、私には3分の1の票が集まった。もちろん落選ではあるが、この3分の1を一般党員の代議員数で考えると、3分の2になる。過半数なのである。

 休憩時間には、見知らぬ党員が私の側に寄ってきて「勇気がありますね」と囁いた。

 以上が、今、唯一の野党などと言われる日本共産党の、一番底辺の「民主主義」の制度的な実情なのである。民主主義は制度である。この原則を無視する組織に、社会改革を語る資格があるのだろうか。「日暮れて道遠し」の感、なきにしもあらずである。

(その1)終わり。次回に続く。


(その2)ファシズムと紙一重の『一枚岩』
週刊『憎まれ愚痴』1号の目次に戻る
連載:元日本共産党「二重秘密党員」の遺言リンク