連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その11)

続:「ルーマニア問題」意見への「中央」反論

1999.3.12 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

 前回に再録した私の意見は、1990年6月14日号『赤旗』「評論特集版」(特集・臨時増刊第1号「第19回党大会議案についての意見」に掲載されたものである。

 文中の「いわな やすのり」(巌名泰得)については、当時、中央区の日本共産党地区委員当時に「クレムリン」と渾名された官僚主義者との批評も得ていたので、私自身には彼に同調する気持ちはなかった。しかし、事件当時のルーマニア『赤旗』特派員として外電のアムネスティ情報を翻訳して日本共産党本部に送ったことは事実のようなので、この事実を無視するわけにはいかないと位置付けていた。

 ところが、世間は狭いと言うべきか。この巌名泰得が、本誌の別掲連載「本多勝一『噂の真相』同時進行版」にも、近く、わが事件当時の『週刊金曜日』副編集長、その後、被告会社側証人として登場することになる。ここでは予告に止めて置くが、わが裁判では、巌名の「証人としての信憑性」に関する証拠として、つぎの2つの書証を提出した。興味のある方は図書館などで検索して、読んで頂きたい。

 甲第53号証の1.『サンデ-毎日』(1990.3.4)「元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!!/私のルーマニア警告はこうして無視された」

 甲第53号証の2.『現代』(1990.5)「元『赤旗』ルーマニア特派員の『爆弾寄稿』」「宮本顕治議長よ誤りを認めよ」「歴史に立ち遅れた『日本共産党』を徹底批判する」

 さて、私の非常に押さえて書いたつもりの「ルーマニア問題について」と題する意見に対して、中央委員の一人の名による反論が、5日後の同誌に掲載された。これは、かなり失礼な表現を用い、しかも、重要な論点を外しているので、以下に全文を再録する。

 以下は、『赤旗』「評論特集版」(特集・臨時増刊第2号「第19回党大会議案についての意見」1990.6.19.No.697.p.21-22)に掲載された「増田紘一(中央)」の名による「ルーマニア問題での大きな誤解」である。これにまた私が反論し、さらに再反論が、「ルーマニア問題での大いなる曲解について」とエスカレートしたのである。


「ルーマニア問題での大きな誤解」

増田 紘一(中央)

 臨時増刊第1号でルーマニア問題について、徳永修(埼玉)と山本一郎(北海道)の2人の同志が決議案に批判的な意見を出しています。

 徳永同志は、1966年の第10回党大会で定めた「外国の党と関係を結ぶ基準」との関係でルーマニア共産党についてのべ、「いかに生成期社会主義国の限界があろうとも、相手の党が『自国内』の『民主主義と人権』を踏みにじり、到底その国の人民を代表すると判断できない場合においては、その状態を単に『路線』や『内政』として見逃してよいとするものではない」「『ルーマニアのチャウシェスク政権』は、その最後の状況からみて、明らかに『基準』から適用除外されるべき典型例」だが、「その『基準』適用除外の判断」は「遅きに失した」と主張しています。

 山本同志は、「たとえ他国の国内問題(ルーマニアの政治体制の評価)や他党の内部問題(チャウシェスク個人崇拝)であっても、問題があると考えれば積極的に態度表明すべきである」とのべ、ルーマニアの「自主独立」路線は「スターリン主義とナショナリズムに基づくものであったため、国内の人権抑圧と不可分だった」「わが党の『自主独立』路線も、ルーマニア共産党と同じ積極面と限界を持っている」としています。

 2人の意見には、日本共産党の国際路線にたいする大きな誤解があります。なによりもまず、わが党の自主独立の国際路線が人権問題を国際問題としても重視していることを十分に理解しない議論となっていると思います。(注1)

 そもそも日本共産党は創立いらい、日本において人権(自由と民主主義)をもっとも重視し、そのためにいかなる犠牲をはらっても断固たたかい続けてきた68年の輝かしい歴史を持つ唯一の政党です。

 そのような政党ですから、国際的な人権問題についても確固とした明確な基準をもっています。日本共産党は、人権の尊重と保障が労働者階級をはじめ世界諸国民の多年にわたる闘争と努力の成果であり、人権問題は重要な国際問題であるという公理にしたがい、国際問題となり民主主義と社会主義の前進とその将来にかかわる問題については自主的見解と態度を明らかにする権利と義務をもつことを、遠い以前から宣明しています。とくに民主的自由と基本的人権にたいする侵害を科学的社会主義の原則からの重大な逸脱とみなす立場は一貫し、自主独立の国際路線と不可分なものです。

 歴史的に振り返って見ても、社会主義国の人権問題について、すでに1974年初め重要な国際問題としてのソルジェニツィン問題について自主的な批判的立場を表明し、その後は、77年のチェコスロバキアでの「77憲章」をめぐる人権問題、80年のサハロフ氏のモスクワからの「追放」問題での批判的態度の表明、最近では中国の天安門事件での断固とした糾弾があります。

 徳永、山本両同志が、日本共産党が国際路線で人権を軽視あるいは否定的に位置づけていつかのように述べているのは、適切を欠いています。

 もう一つの大きな誤解は、国際問題としての人権侵害の事実の認定についてです。徳永同志はもっぱらわが党の対応が「遅きに失した」と主張しますが、それはルーマニアにおける人権問題の経緯の中に質的な大きな変化があったことを見ない議論です。

 ルーマニアでは、ある時期から個人崇拝の問題や他の東欧社会主義国の民主主義の欠如の問題と同様の若干に問題が報じられました。わが党がそれを支持するものでなく、批判的な見解をもっていても、関係を絶つことをしなかったのには理由があります。それは、人権問題を重視するが、各国の歴史的条件の違いを無視して、自分を国際的な審判官とする立場をとったり、自己の見解や判断を他に押しつけたりすることはしないという立場を明確に貫いているからです。外国の党との国際的課題での共同にあたって、人権蹂躙の国際問題としての深刻な展開を立証できる明白な証拠がある場合は別として、全面的な一致を必要として相手の党の内政をこまかく調べあげるという態度はとらないからです。そして覇権主義に反対するなどの国際的な大義での共同は、社会進歩をすすめるうえで重要な意義があるからです。

 同時に、ルーマニアの人権問題は、チャウシェスク政権末期では実態もことされに隠蔽されていて、人権蹂躙の決定的証拠の把握もきわめて困難でした。しかし、わが党は問題の本質、チャウシェスク政権の重大な変質の現れを見逃しませんでした。

 国際的なルーマニア問題のひき金となったのは、88年3月の農村再編計画をめぐる人権状況の悪化です。すでにこの時点で、わが党は問題を重視し、資料を集めて検討、『世界政治』88年9月上旬号で特集的に報道しました。

 そして、より明確には、「チャウシェスク政権の変質が国際的にはっきりあらわれたのは、昨年の6月の天安門事件にたいしてこれを支持する態度を表明したことだった」と決議案ものべているように、チャウシェスク政権の変質を鋭く重視し、変質の態度があきらかになるごとに機敏で断固とした批判をくわえ、「その党との過去の経緯はどうであっても、世界の公理、世界の進歩に反する行為にたいしてはき然として対応」したのでした。

 この変質こそは、自主独立を擁護する原則を投げ捨て、他国への介入をよびかける立場に転落し、国内的にも武力で人民を弾圧する立場への転落であったのです。

 徳永同志は、この決定的な変質にいたる経緯をあえて見ないで議論を展開しているのです。さらに山本同志は「党中央はルーマニア共産党とその体制を批判してこなかっただけでなく、美化すらしてきた」などと、事実に反する独断的な批判をしています。これは、決議案で「外国の党と関係をもつことが、その党の路線全体への支持や内政問題などの肯定を意味するものではないことは、いうまでもない」とのべられている重要な事実を理解できないか、無視するものです。

 日本共産党は綱領で、自主独立を守るだけでなく、それを侵害する覇権主義、大国主義の克服を課題としています。それは人権はいうまでもなく、国際人権条約でもその根本原則とされている主権と民族自決権をあくまでも擁護する立場を貫くためであります。

 山本同志は、チャウシェスク政権が変質して人権擁護も自主独立の原則もともに投げ捨てたことを見ないで、ルーマニアの「自主独立」路線は「国内の人権抑圧と不可分だった」と主張して、日本共産党の自主独立路線も「同じ積極面と限界を持っている」などといっています。自主独立の路線を投げ捨ててポーランドへの介入を呼びかけた重大な変質の現れなども機敏に見抜いた日本共産党の自主独立路線こそは、山本同志のいう「限界」どころか、真に自由と民主主義を守り抜く本領を発揮しているのではないでしょうか。

注1.:この部分をはじめとしてして、手持ちの『赤旗』「評論版特集」には鉛筆の傍線が何箇所かに引かれているが、それらの箇所に共通するのは、内容の空疎さである。要するに私が要約して指摘した「資料」問題への具体的な答えはなかったのである。その点は、私からの反論で指摘し直すことになり、それには(中央)も答えざるを得なかった。

 以上の「注1.」のようないくつかの問題点をはらむ増田(中央)の反論に対して、私は、まず最初に、「私と山本氏(北海道)の意見をまとめて切って捨てるという、いわば十把ひとからげの非礼な構成」など、基本的な態度の悪さを指摘して厳しく反論した。これには、とにもかくにも、私一人を相手にする「再度の反論」が戻ってきたので、この「十把ひとからげの非礼」にだけは応えたといえるのであった。

 最後には再び、本部への出頭指示がきたのだが、次回には、再度の反論を再録する。

以上で(その11)終り。次回に続く。


(その12)(中央)に私が厳しく反論、関係幹部の総退陣を要求
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