連載:元共産党「二重秘密党員」の遺言(その18)

続:緒方批判・警備員同席で厳しく「嘘」を追及

1999.4.30 WEB雑誌憎まれ愚痴連載

 さて、伊東駅から山手線の代々木駅までの往復の電車賃を、こちらが請求したわけでもないのに、「出すから来い」と電話で言われて、1990年の秋、私は、静岡県は伊豆半島の背骨の小山の上から自転車で転がり落ちて、電車に乗って、丸一日を費やす覚悟で、日本共産党本部を訪れた。誰がロビーに迎えに来たのか、などの細部の記憶が薄れているが、ともかく、奥まった一室に通された。

 名刺を貰ったような気もするが、先に紹介した「反論」の(中央)こと、中央委員の増田紘一と、確か、もう一人が、向かい側に座っていた。最初に増田が、勢いのない声で、弁解とも説教とも付かぬ「日本共産党のルーマニアも問題に対する態度」を、おどおど、くだくだ、繰り返した。私は、しばらくは我慢して聞いていたが、段々と腹が立って来たので、持ち前の大声で叱り付けた。確か、つぎのようなこと言った。

「いい加減にテープレコーダーを止めろ。こちらは貧乏暇無しで、呼ばれたから仕方無しに来たんだ。そんな弁解は聞き飽きている。緒方がアムネスティの報告を読まずに嘘を付いたことを、党として認めるのか。認めないのか。謝るのか。謝らないのか!」

 すると、突然、これもどちらか覚えていないのだが、多分、増田が命じて、もう一人の「お付き」風の男が電話をした。その雰囲気で警備員を呼んでいることが、すぐ分かった。私の叱り声に増田が震え上がっていたからだ。私は、その無礼なやり方に対しても厳しく叱り付けた。確か、「俺は声が大きいが、それはカンカンに怒っているからだ。暴力を振るったわけでもないのに、失礼じゃないか。どうせ呼ぶなら、もっと呼べ。中央委員全員を呼べ。皆の前で同じことを言ってやる!」などと言った。

 緒方の「嘘」を簡単に繰り返すと、元ルーマニア特派員の「いわなやすのり」の方が挙げたアムネスティ報告の数々と、緒方の反論に出てくるアムネスティ報告は、数だけでなく質も違っているのである。特に、ルーマニアにおける残虐行為についての特集報告が欠落しているのは、致命的である。しかも、この連載で先に記した通りに、1990年春の段階でさえ、中央委員会の国際部を代表し、かつ私をわざわざ呼び出して同じ代々木の本部の一室で会った責任者自身が、日本共産党中央委員会は「アムネスティ報告を所持していない」と答えているのである。

 しばしの沈黙の後、増田は、また、くどくど、だらだら、説明を試みたが、今度は私が増田を遮って、持参した資料の該当箇所を指差しながら、緒方の嘘を指摘した。すると、借りてきた猫のようにおとなしくなった増田は、「どうして緒方さんは、こう言ったのでしょうかね」と、まるで人ごとのように力無く呟くのである。これは形の上では私の完勝であるが、その時までには、先の大声でストレス解消したものか、怒りの波が静まってしまったものか、私は、勝利感よりも、愕然、血圧が急速に低下したような気落ちの状態に陥ってしまった。

 言葉にすれば、「こりゃ何じゃ……」という感じだった。暖簾に腕押し。空気を掴むような当て外れ。突然、足場が消え失せて、空中遊泳してるような、なんとも心許無い気分である。どうにもこうにも馬鹿馬鹿しくて、仕方ないから、今度は、折角来たついでという気分で、まずは増田が私より若い、いわゆる全共闘世代だということを確かめた上で、日本共産党の無謬主義の一例として、ハンガリー動乱の評価に関する私の間接的体験を語った。私の学生時代の同窓生で1960年安保闘争の死者、樺美智子は、当時の東大学生細胞がハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉を批判した経過の中で、日本共産党から除名されたグループの一員だった。この経過が、今なお続く全学連の分裂につながる。私の方は、ラグビーやら演劇やら麻雀やらで授業もさぼってばかり、政治は好きではなかったので、1960年安保闘争のデモに友人から誘われて参加する以前には、政党などとの関わりは一切持っていなかった。だから、樺美智子らの除名の経過も知らなかった。

 ところが、その後、日本共産党中央委員会の方が、歯切れは悪いが、ともかく、スターリン批判に転じ、ハンガリー動乱におけるソ連の武力干渉についての当時の見解を修正した。その時に初めて、私は、樺美智子らの除名の政治的経過を知ったのである。以後、特に興味があったわけもないし、忙しくて調べる機会もなかった。そこで、「来たついでに」聞いてみたのである。それならばなぜ、ささいな規約違反だ何だかんだの経過にこだわらずに中央委員会の方が誤りを認めて謝罪して、樺美智子らへの除名処分や、その後の「トロッキスト批判」を撤回しないのかというのが、私の質問もしくは意見の主旨だった。増田との話が、そこまで進んだ時、それまで黙っていた「お付き」の方が、口を挟んだ。どうやら、そちらの方が年長だったようで、樺美智子らが属していた東大細胞の一団が代々木本部に来て、揉めた時のことを言い出したのである。

 簡単に言えば「ここで暴力を振るった」というのだが、私が、「若いのが怒れば手ぐらい出るだろ。誰が手を出したのか。誰か怪我でもしたのか」と聞くと、それには返事がない。まるで具体的ではない。誰かが手を出したから、しめたとばかりに、まるごと除名処分して片付けたという感じだった。いずれにしても、警察に届けたわけではないから、何の公式記録もない。ともかく、些細な衝突を根拠に、その後の経過から見れば、正しい主張をしていた若者のグループが、まるごと日本共産党から排除され、しかも、以後どころか、私も直接その姿を見ている樺美智子の場合には、国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていたというのに、死後にも「トロッキスト」呼ばわりされ続けているのである。

 私は、こう皮肉ってやった。「私も大声出して警備員を呼ばれたから、危ないところだった。暴力分子にされかねない」

 なお、その場でも、緒方との直接の対決を求めたが、どうやら同じ中央委員でも格が違うらしく、まるで雲の上の人扱い。増田は「無理でしょう」と力なく呟くだけなので、これも愕然、気落ちがさらに深まった。

 まあ、ともかく、そんな経過で、本当に馬鹿馬鹿しくなって、以来、ルーマニア問題はほったらかしにしてきた。ところが、これも本連載で先に記したように、『赤旗』が拙著『マスコミ大戦争/読売vsTBS』(汐文社、1992)の広告掲載を拒否し、聞いても拒否の理由を明らかにしないという「糧道を絶つ」手段に出てきたのである。

以上で(その18)終り。次回に続く。


(その19)1960年安保に溯る共産vs新左翼諸派の抗争
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