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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[16]人知を超えた地点で暴れる超現代科学「核」と「遺伝子組み換え」


反天皇制運動機関誌『モンスター』18号(2011年7月5日発行)掲載

3月11日夜に観ようと思っていた映画があった。地震が起こり、東京都内の交通網が遮断されたので、上映会は中止となった。その後、東北地方の農業や漁業の壊滅状態と、制御不能に陥っているとしか思えない原発事故の状況を見ながら、あの夜に観るはずであった映画のことがいっそう気になっていた。先日、その望みがようやく叶った。

いずれも、ドイツ・デンクマルフィルム製作の『Life Running out of Control(暴走する生命)』(2004年) と『パーシー・シュマイザー、モンサントとたたかう』(2009年) である。前者は、動植物や人間を遺伝子的に操作する動きがどこまで進んでいるかを(とはいっても、制作年度からいえばもはや7年前のことだ)描き出した作品だ。遺伝子操作が本格化したのは1980年代半ばからだから、この研究分野はまだ4半世紀の歴史しか刻んでいないが、遺伝子操作を加えること(GM)によって、通常の半分の生育期間で6倍の大きさに成長する鮭が出てきたり、GM菜種のタネが隣の農家の畑に飛ばされ有機農業を不可能にしたり――などの実例が生まれている。米国では、この鮭が食用としての承認手続きの最終局面にあり、開発した米社は、鮭の最大消費地=日本への進出に意欲をもっているというから、このままでは作物以外の動物・魚類では初の遺伝子組み換え品が、遠からず私たちの前にも登場することになるかもしれない。

映画に登場するノルウェイの分子生物学者の言葉が忘れられない。「遺伝子組み換え技術のことを知ったとき、これは人類に大きな恩恵をもたらすものと思い、熱狂して研究に打ち込んだ。実験をしていて気づいた、確かに科学者にはおもしろい。だが、これが現実の生態系・有機体で行なわれたら、大変なことになる」と。彼はいま、遺伝子組み換えによる「生命支配」を批判し、これに抵抗する活動を行なっている。彼の言い方は、チェルノブイリ事故以後「原発批判」の立場からの発言を積極的に続けてきた京大原子炉実験所・小出裕章の述懐に酷似している。小出もまた、学生時代に原子力の「輝かしい未来」に憧れこの専門分野を選んだが、その本質を知るにつれ「反原発」の立場に移ったことを繰り返し語っている。

核にせよ生命操作にせよ、人知の範囲で開発にまで行き着くことはできる。だがそれは、やがて、人間には制御不可能な未知の領域に入り込んでしまうのだ。それは、管理し得る人間の手を離れて市場に放り出された金融(カネ)と同じように、人間の知恵を超えた地点で、破壊的なまでに暴れまわることになる。

後者の映画は、世界最大のバイオテクノロジー企業・モンサント社を相手に果敢にたたかうカナダの農民夫婦を描いている。夫婦の菜種畑はGM種子によって汚染される。この種子を開発したモンサント社は、あろうことか特許権侵害で夫婦を訴える。裁判所も大企業に加担する。だが、夫婦は巨大企業を相手に粘り強くたたかい続けている。

モンサント社が農民と交わす(農民に強制するというべきだろう)協定の中身がすごい。「種子はモンサントからしか購入できない。農薬もモンサントからのみ。自家採種をしてはならない。モンサント社の私設警察は、農民の土地・貯蔵所・農場に入り、納税・農事記録を見ることができる」。しかも、ラウンドアップという名のその農薬は、あらゆる種類の植物を枯らす除草剤で、米環境保護局ですら「吐き気、肺浮腫、肺炎、精神錯乱、脳細胞破壊が起こる」と警告しているような代物である。

この2本の映画の監督はベルトラム・フェアハークだが、日本で自主公開された最初の作品は『核分裂過程』(1987年、クラウス・シュトリーゲルとの共同監督作品)だった。核燃料再処理工場の建設に反対するドイツ・ヴァッカースドルフの人びとの戦いを描いたドキュメンタリーである。超現代を象徴する「核」と「遺伝子組み換え」が孕む問題性に迫り続けているその先見性が、三陸・福島の事態を見るにつけ、胸に迫ってくる。

【追記:ここで触れた映画はすべて、小林大木企画 Tel&Fax042-973-5502 によって自主公開されている。http://www.bekkoame.ne.jp/ha/kook】

歴史の中のシモン・ボリバル


静岡芸術劇場2011年7月公演パンフレット掲載

静岡芸術劇場に通う演劇フアンにはおなじみのオマール・ポラスが演出・出演する「シモン・ボリバル、夢の断片」は、元来は、ポラスの故国コロンビアの建国200周年を記念して、2010年に制作された作品だ。今回の静岡公演は、やむを得ない事情から、初回公演とは構成が変更されるが、シモン・ボリバル (1783~1830年) という歴史上の人物が物語の軸をなすことに変わりはない。ここでは、「建国200周年」という用語からわかる、2世紀前のコロンビアを初めとするラテンアメリカ諸国独立の過程、そこでシモン・ボリバルが果たした役割、そしてボリバルの「夢」が奇しくも実現しつつあるかにも思える形でラテンアメリカ地域に展開されている同時代の動きを簡潔にスケッチしてみよう。

1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、以後「征服」の時代が始まる。コロンブスの航海を経済的に支えたのはスペイン女王だったが、そのスペインは、ポルトガルが征服したブラジル以外の、現在ラテンアメリカと呼ばれる地域のほぼ全域を植民地化したのである。植民地時代は、ほぼ3世紀もの長きにわたって続いた。その間、ピラミッド型の人種別社会階層構造が強固に形成された。最上位からいうと、スペインから来た白人 (ペニンスラーレス)、アメリカ大陸生まれの白人 (クリオーリョ)、白人と先住民の混血 (メスティーソ)、先住民族 (インディオ)、そしてアフリカから奴隷として強制連行された黒人という序列構造である。

3世紀という時間幅は長い。植民地権力は腐朽する。イギリス、フランス、オランダなどの後発のヨーロッパ列強が台頭して、膨大な利益が得られる植民地貿易に参入したり、領土争奪戦に加わったりする。ピラミッド型社会構造の最下層で徹底した抑圧と差別の下に苦しんできた先住民族と黒人が反乱を起こす。それらが顕著な動きになったのが、18世紀末から19世紀初頭にかけてだ。1780年、現ペルーの一角で、先住民族による反植民地主義反乱「トゥパック・アマルの反乱」が起こった。1804年、フランス領になっていたカリブ海の島でも黒人反乱が起こり、鎮圧のために派遣されたナポレオンの軍隊を打ち破って、そこは世界初の黒人共和国=ハイチとして独立した。指導者の名をとって「トゥサン=ルーヴェルチュールの反乱」として知られるこの黒人蜂起は、1789年のフランス革命と無関係に起きたのではない。フランス革命の精神を伝える書物や、ルソー、ヴォルテールなどの啓蒙思想の著作も、厳しい検閲を逃れながら、スペイン領アメリカに入ってくる。

そんなさなかの1783年、シモン・ボリバルは、現ベネズエラのカラカスに生まれた。クリオーリョの富裕な、屈指の「名家」の出身である。軍人だった父親も、教育熱心だった母親も早くに亡くしたボリバルは、叔父のもとで育ったが、家庭教師として就いた自由主義者、シモン・ロドリゲスの影響は、後年のボリバルが形成されるうえで決定的だった。植民地政府への反抗心を持つロドリゲスから、自由、平等、共和国などについての基本的な概念を学び取る機会となったからである。16歳で本国スペインへの旅に出た。貴族の娘と出会い結婚してカラカスへ戻ったが、翌年妻は他界した。名家に生まれた経済的特権を享受しながら、早々に両親と妻を失うという個人的な不幸が、ボリバルのその後の運命を定めた。

ヨーロッパ列強の角逐が続くなか、1805年、スペイン・フランスの連合艦隊はイギリス海軍に大敗した。イギリスに取り入ろうとするスペインの動きを見て、1807年ナポレオンはスペインを侵略した。本国スペインの弱体化の機会を捉えて、ラテンアメリカ各地では独立運動が活発になった。1810年コロンビアの独立宣言、1811年ベネズエラの独立宣言は、その端緒をなした動きである。だが、スペインとの独立戦争はこの後でこそ激化する。ベネズエラ解放軍司令官となったボリバルの活躍は、ここから目覚ましい。一時的敗北やジャマイカへの亡命も経験しながら、1819年コロンビアを解放、同年ベネズエラ、コロンビア、エクアドルから成るグラン・コロンビア共和国形成、1821年コロンビア、エクアドルの全面解放、1824年ペルー解放などの戦いで主導的な役割を果たした。1825年に解放されたアルト・ペルー地域は、南米諸地域の独立戦争におけるボリバルの戦功に因んで、国名をボリビアとしたほどである。現在のメキシコ、およびアルゼンチン、ウルグアイ、チリなどの諸地域でも、同じ時期に独立戦争が戦われて、その目的が成就された。

ボリバルが抱いていた夢は、北はメキシコから、南はアルゼンチンやチリまで、独立したラテンアメリカ諸国が単一の共和国連合として統合されることであった。グラン・コロンビアはその萌芽として構想された。メキシコの北に存在する米国がモンロー宣言を発して (1823年)、ヨーロッパ列強をアメリカ大陸から排除した米国中心の勢力圏構想を打ち出していただけに、ヨーロッパから自立し、同時に米国とも対抗しうるボリバル構想の意義は小さくはなかった。だが、その内部ではやがて、理想からはかけ離れた権力欲に根差す対立が深まるばかりだった。構想は瓦解し、部下の裏切りもあって、ボリバルは失意のうちに47年間の生を終えた。

ベネズエラ独立運動の担い手が独立後も奴隷制の維持を目指すような人びとであることを知った黒人は反乱を起こしたが、そのときボリバルは「非人間的で凶暴な人間たちである……黒人の革命」と表現するような価値観の持ち主だった。ペルー解放直後にボリバルが、農地所有制度の再編や先住民族保護の名目で発した法令は、クリオーリョ支配層の既得権を奪うものではなく、したがって、先住民族は相変わらず過酷な搾取にさらされることとなった。その意味では、ボリバルが主導した独立革命はあくまでも白人=クリオーリョ主体であって、その恩恵に浴することのなかった膨大な社会層が取り残されたことは見ておく必要があるだろう。

それが、今からおよそ200年前のラテンアメリカ独立をめぐる状況であった。ボリバルの単一共和国構想が実現しなかったラテンアメリカ地域は、急速に大帝国となっていく米国のさまざまな影響下におかれることとなった。それは、20世紀現代史でも貫かれた。とりわけ、キューバ革命が勝利した1959年以降は、ソ連圏対米国圏という東西冷戦構造に巻き込まれることになった。しかし、キューバを敵対的に包囲していた軍事政権体制が全域で崩壊し、ここを席巻していた新自由主義経済秩序による負の遺産を克服しようとする政権と民衆運動が広範に登場している現在、状況は大きく変わった。米国の影響力を排除したうえで、各国間の相互扶助・連帯・協働による自主的な地域連合を形成し、貧困削減・天然資源擁護をめざそうとする動きが具体化している。そこでは、ときに、ボリバルの構想との繋がりが強調されている。200年前のボリバルの未完の企図を、現在に生かそうとする人びとが存在しているのである。

オマール・ポラスと同郷の優れた作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは『迷宮の将軍』(新潮社)においてボリバルを描いた。「解放者」(リベルタドール)として溌溂たる行動に従事している時期ではなく、失意の晩年を主軸に据えた作品だった。この人物の偉大さも、卑小さも浮かび上がる秀作だ。マルケスのこの作品を知らぬはずはないオマール・ポラスが、どんなボリバル像を打ち出すのか。その日の舞台を待ち望むばかりである。