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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[86]「現在は二〇年前の過去の裡にある」「過去は現在と重なっている」


『反天皇制運動 Alert 』第13号(通関395号、2017年7月6日発行)掲載

今からちょうど20年前の1997年12月、一冊の「歴史書」が刊行された。『歴史教科書への疑問』という(展転社)。編者は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」と名乗った。煩を厭わず、目次を掲げておきたい。

はじめに(中川昭一)

1 検定教科書の現状と問題点(高橋史朗、遠藤昭雄、高塩至)

2 教科書作成の問題点と採択の現状について(高塩至、丁子淳、漆原利男、長谷川潤)

3 いわゆる従軍慰安婦問題とその経緯(平林博、虎島和夫、武部勤、西岡力、東良信)

4 「慰安婦記述」をめぐって(吉見義明、藤岡信勝)

5 日韓両国にとっての真のパートナー・シップとは何か(呉善花)

6 河野官房長官談話に至る背景(石原信雄)

7 歴史教科書はいかに書かれるべきか(坂本多加雄)

8 我が国の戦後処理と慰安婦問題(鶴岡公二)

9 なぜ「官房長官談話」を発表したか(河野洋平)

当時わたしは『派兵チェック』誌に「チョー右派言論を読む」という連載をもっていて、『正論』(産経新聞社)や『諸君!』(文藝春秋)などの月刊誌を「愛読」していた。当時から見て一昔前なら、泡沫的な極右言論が集う場であったそれらの雑誌は、記述の中身をますます劣化させながら、にもかかわらず社会の前面に躍り出てくる感じがあった。「劣化ぶり」とは、まっとうな歴史的検証に堪えられず、論理としても倫理としても明らかに破綻した文章が「堂々と」掲載されているという意味である。右翼言論のあまりの劣化ぶりを「慨嘆」しながら、それでいてかつてない勢力を誇示しながらそれが露出しつつあることの「不気味さ」を、天野恵一と語り合った記憶が蘇える。この「歴史書」の執筆者には、それらの雑誌で馴染みの名も散見されるとはいえ、そうでもない名も多かった。右派言論界の「厚み」を感じたものである。

「若手議員の会」なるものの発足の経緯にも触れておこう。これは「1997年2月27日、中学校歴史教科書に従軍慰安婦の記述が載ることに疑問をもつ戦後世代を中心とした若手議員が集まり、日本の前途について考え、かつ、健全な青少年育成のため、歴史教育のあり方について真剣に研究・検討すると共に国民的議論を起こし、行動することを目的として設立」された。1997年に先立つ前史を振り返れば、彼らがもった「危機意識」が「理解」できる。以下、年表風に記述してみる。

1991年 元日本軍「慰安婦」金学順さん、その被害に関して日本政府を提訴。

1992年 全社の小学校教科書に「南京大虐殺」が記述される。/訪韓した宮澤首相、「慰安婦」問題でお詫びと反省。

1993年 河野洋平官房長官談話、「慰安婦」問題での強制性を認め、謝罪。/細川護煕首相「先の戦争は侵略戦争」と発言。

1994年 全社の高校日本史教科書に「従軍慰安婦」が記述される。

1995年 村山富市首相、侵略と植民地支配を謝罪する戦後50年談話発表。

これが、1990年代前半の一連の動きだが、これに危機感をもった「若手議員の会」の役員構成は次のようなものだった。代表=中川昭一/座長=白見庄三郎/幹事長=衛藤晟一/事務局長=安倍晋三。そして、衆議院議員84名、参議院議員23名で発足した。中川と安倍は自他ともに許す「盟友」だったが、両者の動きは2001年1月に顕著なものとなった。NHKの「戦争をどう裁くか」第2回「問われる戦時性暴力」の内容を、なぜか事前に知った中川・安倍の両議員がNHK幹部に圧力をかけて番組内容を改変させたからである。NHK側の当事者であった永田浩三の『NHK、鉄の沈黙はだれのために』(柏書房、2010年)などを読むと、NHK幹部は『歴史教科書への疑問』をかざしながら、この連中が圧力をかけてきているといいながら右往左往していた様子が描かれている。

1997年には、日本会議と「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」が結成されている。振り返ってみて、この年が、日本社会の「現在」を作る原点的な意味を持つことが知れよう。最後に、「若手議員の会」の役員以外の主なメンバーを一瞥しておこう。下村博文、菅義偉、高市早苗、中山成彬、平沢勝栄、森田健作、八代英太などの名前が見える。森田は、もちろん、現千葉県知事である。何よりも冒頭のふたりの名前に注目すれば、「現在は20年前の過去の裡にあり」「過去は現在と重なっている」ことがわかる。(7月1日記)

ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで


『ガルシア・ロルカ生誕祭119』(2017年6月4日、広島のcafé-teatro Abiertoで開催)における講演

1)米西戦争

さてもさても、お集まりの皆さん、私はこの4年間、ガルシア・ロルカが生まれたこの季節になると、この舞台の上で、ロルカが書いた詩を原語でふたつ三つと朗読してまいりました。今年は趣向変わって、彼が生きた時代を背景に、その短かく終わった人生の足跡を辿ることに相なった次第。題して「ロルカの生きた時代――米西戦争からスペイン内戦まで」。わずか30分に彼の生涯を凝縮してお話しするのは至難の業ですが、ともかくそれを試みるゆえ、とくとお聞きあれ。

スペインといえば、だれもが知っている名前をいくつか挙げましょう。「ドン・キホーテ」という名は、この国では安売り雑貨屋の名としてまかり通ってしまった風情なれども、もともとは、16、7世紀スペインが生んだ文豪、セルバンテスが書いた長編小説のタイトルこそが『ドン・キホーテ』。世界的に見ても時空を超えた大傑作というべき小説のタイトルが、21世紀の日本国ではこんな店の名として「盗用」されていることを知ったならば、天国にいるのか地獄にいるのか、名付け親のセルバンテスはびっくり仰天しているに違いありません。

さらには、絵画の世界を覗けば、古くは18世紀のフランシスコ・ゴヤ、20世紀の現代に来れば、パブロ・ピカソ、サルバドール・ダリ、ジョアン・ミロなど、言い古された言葉なれども、まるで綺羅星のごとく天才的な画家たちが居並びます。あの奇怪にして魅力的な建築物を手掛けたアントニオ・ガウディ、その息遣いがチェロの音色と一緒になって聞こえてくるチェロ弾きのパブロ・カザルス、鬼才という形容がよく似合う、映画監督のルイス・ブニュエル、そして今日も、私たちの心を掴んで放さないカンテの歌やフラメンコの舞踏――ともかく、文化面からみれば、スペインという国は、妖しくも煌びやかな光を放っているのでございます。我らがガルシア・ロルカも、まぎれもなく、その中の一員だということをお忘れなく……。

さて、ロルカが生まれたのは1898年。今を去ること、120年前ということになります。ベン・シャーン、ジョージ・ガーシュイン、ルネ・マグリットなどが同じ年の生まれです。この年は、スペイン史においては忘れることのできない出来事が起きました。米西戦争、すなわち、スペインは、遠く大西洋を隔てた国、アメリカ合衆国との戦争を行なう破目に至ったのです。なぜか。

歴史を遡れば、スペインは世界史に植民地支配の時代を生み出した先駆けの国です。今から逆行すること5世紀ちょい、15世紀末に、スペイン女王の資金援助を得たコロンブスは大海原を西へ、西へと航海し、遂に現在のアメリカ大陸に到達しました。ヨーロッパには未知の土地であったこの大陸と周辺カリブ海の島々の大部分を、スペインは植民地としたのです。以来3世紀有余、スペインは、現在のメキシコからアルゼンチン、チリまでの広大な米大陸の支配者として君臨しました。ラテンアメリカの国々がスペインからの独立を遂げたのは19世紀初頭。したがって、いっときは海を伝って世界各地に植民地を築き上げたスペインは、米国との戦争が始まる19世紀末には、アジア太平洋のフィリピンとグアム、カリブ海のキューバとプエルトリコ、さらにはアフリカの一角のモロッコに植民地を遺すだけとなっていたのです。しかも、フィリピンとキューバでは、激しい独立闘争がたたかわれていました。

こうして、植民地帝国=スペインは追い込まれていた。一方、米国は1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおける先住民族スーの大虐殺によって、長年続いたインディアンの抵抗を最終的に圧し潰し、国内を「平定」することに成功した。だから、この時期以降の米国は、対外的に膨張する道を選び、まずは近隣のカリブ海に注目し、どこかの国に付け入る隙を虎視眈々と狙っていたのでありました。スペインに対して独立闘争を戦っているキューバこそ、絶好の機会を提供する場所。首都ハバナ沖に軍艦を派遣したところ、これが爆発・沈没した。歴史的に見ても、米国はフレームアップ、でっち上げの嘘を口実に戦争を仕掛けることが得意。米軍艦爆破はスペイン軍の仕業だとして、スペインに宣戦を布告したのです。落ち目の植民地帝国=スペインと、日の出の勢いの新帝国=アメリカの軍事力の差は歴然。アメリカはいとも簡単にスペインを負かしてしまったというのが、事の次第でございました。

スペイン人から見れば、世界に先駆けて植民地帝国となった15世紀末以降しばらくは「黄金時代」、それが見る見るうちに後発のヨーロッパ列強に追いつかれ、追い越されてきたのがスペイン近代史の流れでしたが、「黄金時代」から4世紀を経て、とうとう「(18)98年の不幸」と自嘲する時代に突入したのでした。スペインがなお支配していた植民地は、北アフリカのモロッコだけになりました。モロッコは、この後の歴史でも重要な地名として再登場します。覚えておかれますように。

さて、しかし、歴史的な「逆行」の時こそ、個々人の精神の深部では、とりわけ芸術家にあっては自らの真の姿に真っ向から向き合う時――先に触れた、ガウディの建築を筆頭にした文化的ルネッサンスの動きは、まさにこの時期を前後して始まっていたのです。かの有名な「サグラダ・ファミリア=聖家族教会」や「グエル邸」関連などの建造物は、この時代の真っただ中の仕事です。アフリカの彫刻に深い関心を抱いたピカソが、キュビズム革命の発端となる「アビニヨンの娘たち」を描いたのも1907年ですから、この時代の文化的な凝縮のほどが知れます。早熟にして多面的な才能に恵まれていたロルカは、まさにこの文化的ルネッサンスを養分として育ったのでした。

さて、しばらくは、その後のスペインの歴史の流れを一瞥しておきましょう。1898年にフィリピンとキューバ民衆の独立闘争によって長年にわたるスペインの植民地支配が打倒されたならば、それは、いわば、歴史的な必然であった、と言えましょう。スペインはその運命を甘受し、祖国再生の道を歩んだことでしょう。だが、この独立闘争は、スペインの後釜としてこれらの地に君臨しようとするアメリカの奇襲作戦によって、性格を一変させたのでした。フィリピンとキューバの民衆にとっては、自らの解放を賭けた独立闘争が、スペインとアメリカの2大大国の戦争になってしまったのですから、たまったものではありません。いつ変わることのない、大国の身勝手さに悔しい思いをしたことでしょう。この事件は、実は、世界全体から見ても重大な意味を持っていました。アメリカという国は、この戦争を通して、他国に軍事介入さえすれば、新たな領土や資源や労働力や軍事基地を獲得できるのだという価値観をもってしまったのです。だから、あれから1世紀以上も経ったいまなお、アメリカはそのようにふるまい続けています。72年も前に戦争が終わった沖縄に、新しい軍事基地を作ろうとしているのを見れば、この言い方が的外れでないことがお分かりでしょう。

ただ、どんな国にも、大勢に流されず、ひとりになっても抵抗の言説をやめないひとはいる。それを知ることも大事です。この時代のアメリカの場合、それは作家、マーク・トウェインでした。そうです、あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』の作家です。米西戦争の結果、アメリカは敗戦国スペインからフィリピンを買い取りました。新たな植民地にしたのです。大国間の身勝手な取引きに抵抗・反対して、フィリピン民衆は、やってきた米軍にゲリラ戦で闘いを挑みました。米軍はすさまじい弾圧をこれに加えました。これを知って、マーク・トウェインは言ったのです。「われわれは、何千人もの島民を鎮定し、葬り去った。彼らの畑を破壊し、村々を焼き払い、夫を失った女や孤児たちを追い出した。こうして、神の摂理により……これは政府の言い回しであって、私のものではない……われわれは世界の大国となったわけだ」

20世紀初頭の、忘れることのできないエピソードです。どんな時代にあっても、このような人物が実在することは、私たちへの励ましです。どんな社会も「ファシズム一色」「侵略戦争賛美一色」に塗り込められるのではないのです。

2)スペイン内戦

さて19世紀末のスペインに戻りましょう。スペインにとっては、アメリカへの軍事的な敗北は屈辱でした。政治的・社会的には、混乱と混迷が続きました。政党政治は立ち行かなくなりました。残された唯一の植民地モロッコでは、反スペイン暴動が頻発し、これを鎮圧するために軍隊を派遣する事態が度重なりました。この状況の中で、もともとスペインの土地に根を張っていたアナキズムの思想と運動が急速に育っていきました。とりわけ、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方の工場労働者と、万年飢餓状態に置かれていたアンダルシーア地方の農民は、権力から遠く、「土地と自由」を愛するアナキズムの理念を、いわば身体的に受容したのです。「土地」とは、そこに種を蒔き、貴重な農産物を手にすることのできる場所です。「自由」とは、人が生きる上で譲ることのできない絶対的な価値です。「土地と自由」とは、人が生きるための物理的・精神的な根拠地なのです。アンダルシーアは、ロルカが生まれ育った地でもあることを思い出しておきましょう。

さて1920年代にも起こったモロッコでの反乱を鎮圧するために出動しこれに成功した軍部がその後政治の実権を握り、軍事独裁の時代が誕生します。1930年、8年間にわたって口を封じられてきた民衆は、王政か共和制かを問われた地方議会選挙で、共和制を選んだ。国王は逃亡し、第2共和国が誕生した。これが、世界史的に見ても忘れがたい1930年代スペインの幕開けでした。これ以降、左右両派の対立が激化します。1936年の国会議員選挙で人民戦線派が勝利すると、ファシストたちが暴動を引き起こす。人民戦線派の労働者は、ストライキをもって対抗する。

さて、このころスペインが保有していた唯一の植民地、アフリカのモロッコには、暴動鎮圧のためにスペイン軍兵士が多数派遣されていたことには、先にも触れました。このモロッコの地で軍がクーデタを引き起こしたのです。指導者はフランコ将軍でした。時は1936年7月18日。同時に、スペイン各地の主要都市でファシストの武装蜂起がいっせいに起こりました。そして共和国に対抗したのです。ここに、スペイン内戦、スペイン内乱、あるいはスペイン市民戦争とも呼ばれますが、それが始まったのです。

当時、ヨーロッパには、すでに二つの国で、ファシズム体制が成立していました。ヒトラーはドイツで全権を掌握し、ナチス党の独裁が始まっていました。イタリアでもムッソリーニが権力を握り、エチオピアへの侵略を開始していました。アジアにおいては、日本が「大東亜共栄圏」建設の美名の下で、近隣のアジア諸国侵略の道を突き進めておりました。日本、ドイツ、イタリアのファシズム3国が「日独伊防共協定」を結ぶのは1937年です。このような世界情勢を背景に展開されたスペイン内戦は、考えるべき大事なことがいっぱい詰まっています。きょうはとても時間がないので、かいつまんで、いくつかの重要な点にのみ触れます。

この内戦は、1939年3月までの3年間にわたって続きました。

ファシストは強固に結束していました。国際的にはドイツとイタリアの支援を受け、首都マドリーの攻防戦では、イタリア軍の地上軍派遣が大きな役割を果たしました。バスク地方を含む北部戦線にあっては、反乱軍を支援したドイツの空軍部隊がゲルニカという小さな村で無差別爆撃を行ない、それが引き起こした惨状に怒りと哀しみを押さえきれなかったピカソは、即座にあの大作「ゲルニカ」を描くに至るのです。スペイン人の精神生活上重要な役割を果たしているカトリック教会が、フランコ指揮下の反乱軍は「無神論と共産主義」から祖国を救う十字軍だと称賛したことも、人びとを結束させるうえで計り知れない助けとなりました。

これに対して、共和国側はどうだったでしょうか。共産党からトロツキスト、アナキストなど、さまざまな潮流がおりました。考え方や政治路線の違いはあって当然ですが、その違いを内部矛盾として上手に処理する知恵を欠いていた、と言えます。とりわけ、官僚主義的な共産党、これはモスクワのソ連共産党からの指示に基づいて行動するのですが、当時ソ連ではトロツキストをはじめとするスターリンの「政敵」対する粛清の嵐が吹きすさんでいた頃でした。スペインではトロツキズムやアナキズムの運動が根強い大衆的な基盤を持っているのに、モスクワの指示に従ってこれを弾圧すれば、どんな結果が生じるかは自明のことだったのです。すなわち、共和国側には、異なる集団間の路線上の違いを解決する術がなかったのです。とりわけ、ソ連共産党のスターリン主義的な路線が果たした役割は犯罪的であったと断言しても過言ではないでしょう。

スペイン内戦は、それが孕んでいた「希望」と「錯誤」ゆえに、あの時代に生きていた世界中の人びとに大きな影響を及ぼしました。これをテーマに小説、ルポルタージュが書かれ、映画にもなりました。イギリスの作家、ジョージ・オーウェルは『カタロニア賛歌』を、アメリカの作家、アーネスト・ヘミングウェイは『誰がために鐘は鳴る』を書きました。スペインでは、ホセ・ルイス・クエルダが『蝶の舌』を、ビクトル・エリセが『ミツバチの囁き』を制作し、イギリスの映画作家ケン・ローチも『土地と自由』と題した作品でこのテーマを描いています。

ここで私は、忘れることのできない一人の女性の発言を記録しておきたいと思います。フランスの思想家、シモーヌ・ヴェイユの発言です。ヴェイユは、もちろん、その思想的・政治的な立場からしてファシストの敗北を願い、共和国側の勝利を願ったひとです。内戦が勃発した直後の1936年8月、共和国側に加担するためにスペインへ義勇兵として赴いてもいます。事故で火傷を負い、心ならずも2ヵ月で帰国することになったのですが、その彼女がスペイン戦争で現認したことは、「理性や信条を無意味化する戦争のメカニズムというものがある」ということでした。彼女は、共和国派の、とりわけ底辺の民衆の渇望や犠牲的精神に促された義勇兵への共感を決して放棄してはいない。同時に、味方の軍勢の中で吸い込んだ〈血と恐怖のにおい〉も記さずにはいられなかった。それは〈解放の主体〉であるはずの者が〈金で雇われた兵隊たちのするような戦争に落ち込んで〉いき、〈敵に残虐な行為の数々〉を加え、〈敵に対して示すべき思いやりの気持ち〉を喪失する過程であった。

スペインで内戦が勃発したことをパリで知ったヴェイユは、「勝利を願わずにはいられなかった」反ファシズムの側にも、このような現実があったことを知ったのです。私は、ファシズムとたたかった人びとの感動的なエピソードをいくつも知っていますが、同時に、この現実からも目を逸らすわけにはいかないのです。

スペイン内戦をめぐるこれらのエピソードから得られる教訓は明らかです。

ファシズムは、もうたくさんだ!

スターリン主義は、もううんざりだ!

ひとびとからモラル(倫理)を奪い取る戦争は、もうたくさんだ!

すべてが、現代を生きる私たち自身に関わってくる課題です。スペインを二分してたたかわれた内戦は、深い傷跡を残しました。独裁者フランコ将軍は1975年に死ぬのですが、実に35年近くその支配が続いたのです。共和国派の人びとは、そのかん一貫して、逮捕・投獄・拷問・軍事裁判による重刑判決・亡命などの運命を強いられました。30年もの間、自宅の「壁に隠れて」暮らしたひとの実話も残っているくらいです。スペイン内戦で問われた事柄は、遥か昔の話ではなく、過ぎ去った過去でもないのです。

3)ガルシア・ロルカの生死

さて、このような時代を駆け抜けたロルカの人生を簡潔に振り返っておきましょう。

120年前の6月5日、ロルカが生を享けたのは、グラナダ市に近いフエンテ・バケーロスという町でした。私は訪れたことがありませんが、広がる沃野の中に白壁の家々が立ち並ぶ、南スペインの典型的な小部落だと言われています。音楽と詩が好きだった母親の影響はよく言われるところですが、彼は、母、祖母、伯母、乳母たちに囲まれて、抱きかかえられるようにして大事に育てられたと言います。とりわけ、年寄りの召使ドローレスが語るアンダルシーアの伝説や、歌う土地の民謡を聞きながら眠ったようです。ロルカは、後年、アンダルシーアの民間伝承に深い関心を抱き、カンテ・ホンドや各地の子守歌を採集し始めるのには、この幼児体験が基盤にあるようです。

やがて、ロルカの一家はグラナダへ引っ越します。皆さんもご存じでしょう、グラナダは、アルハンブラ宮殿を初めとしてイスラーム文化の痕跡が数多く残る街です。ロルカは心から愛したこの町で大学へ通い、哲学・法律。・文学などを学びました。10代後半に熱中したのは音楽でしたが、師匠の突然の死に出会ってその道は挫折し、文学に方向を転換しました。ここで彼は詩作を始めます。

1919年、21歳になったロルカは、グラナダ大学の法律の教授で、社会主義者であったフェルナンド・デ・ロス・リーオスを敬愛していましたが、彼の勧めでマドリーの「学生館」

へ赴きます。若い芸術家や文学者のたまごが集まる場所です。ここで彼は、すでに名前を挙げたサルバドール・ダリやルイス・ブニュエルなどと知り合い、親友となったのです。およそ10年をここで過ごしました。土着的な詩的伝統に深い関心を抱いていたロルカは、ここで、友人たちが熱中するシュルレアリスムなどの近代的な感覚や表現に出会ったのでした。最初の詩集『詩の本』を先駆けとして、『カンテ・オンドの詩』『組曲集』『歌集』『ジプシー歌集』はすべてこの時代に書かれているのですから、充実した時期を過ごしていたことがわかります。戯曲も手掛けていましたし、遺されているデッサンの多くもこの時期に描かれたものです。

したがって、マドリーからグラナダに戻ったロルカの「名声」は高まっていた。だが、その名声にも疲れたのでしょう。リーオスと共にニューヨークへ発ったのが1929年でした。コロンビア大学に入り、一年間を過ごします。1929年とは、あの世界大恐慌の年です。資本主義市場が大混乱に陥るなかで、彼にはハーレムだけが落ち着く場所だったようです。そこではじめて聞いたジャズの向こう側に、故国のフラメンコのリズムの魅惑を再発見した、と言われています。ニューヨークの次には、キューバのハバナへ行きました。キューバはフィリピンと違って、米西戦争後独立は遂げていました。しかし、米国の海軍基地が強引に設けられ――驚くべきことに、そのグアンタナモ米軍基地は1世紀を超える115年が経った今もキューバに返還されることなく、米軍は居座り続けているのです!――、経済的にも米国企業の支配下に置かれていました。そのことへのロルカの反応は残されていませんが、ニューヨークのハーレムで会った黒人たちとジャズに深い印象を受けていたロルカは、キューバではまた別な黒人と出会ったことに心を動かされたと言います。つまり、アングロ・サクソンの文化ではなく、ラテン系の文化の中での黒人に出会ったのです。音楽好きであったロルカが、ハバナの街のあちらこちらから聞こえてくるキューバン・リズムに感興を掻き立てられたであろうことは、想像に難くありません。

ロルカがスペインに戻ったのは1930年でした。翌年の1931年には、国王が国外に逃亡し、共和制に移行したことはすでに触れました。政治的・社会的な激動は、一般的に言っても、文化・芸術表現の世界にも活況をもたらします。民衆文化を掘り起こし、これを再興しようとする機運が盛り上がったのです。それは、以前から、ロルカが求めていた道でもありました。ニューヨークへも同行した、敬愛するリーオスは、共和政府の教育相に任ぜられました。ロルカは古典劇の傑作を携えて、全国を巡回しました。移動劇団【La Barraca ラ・バラッカ=仮小屋、掛け小屋、バラック】プロジェクトです。演じるのは主として学生、トラックには簡素な舞台装置を積み込み、辺鄙な農村にまで出かける。「黄金世紀」の喜劇を即興的なセリフでアレンジし、ロルカの中に蓄積されていた古い民謡に関する知識を生かして編曲した音楽が盛り込まれる。自分の世界に近しい物語や音楽に触れることができた、観客となる農民たちの喜びが、目に浮かぶようです。

この時期、ロルカは、さすがに多作です。『血の婚礼』、『イェルマ』、『ベルナルダ・アルバの家』の代表的な戯曲の3部作を書き上げます。牛の角に刺されて死んだ親しい友人の闘牛士、イグナシオ・サンチェス・メヒーアスを哀悼する詩集も出版します。また、グラナダの地に似つかわしくも、アラビアの詩型を借りた一連の短い抒情詩を『タマリット詩集』と題して出版する準備も始めました。まさに、脂の乗り切った時代の活躍ぶりと言えましょう。

1936年7月13日、恒例の家族の集まりに顔を出すために、ロルカはマドリーからグラナダに向かいました。先にも触れましたが、この3日後に、モロッコでは軍部のクーデタが起こりました。スペイン全土で、ファシストの蜂起がいっせいに起こりました。ロルカが戻った故郷=グラナダも、右翼ファシストであるファランヘ党員による制圧下にありました。ロルカは、直接に政治に関与していたわけではありません。しかし、移動劇団「ラ・バラッカ」は明らかに共和政府の保護の下で行なわれていました。また、共和派の側に立つことを公言していた彼は、こうも言っています。「私はすべての人びとの兄弟であり、抽象的な国家主義的観念のために自分を犠牲にしようとする人びとを憎む」と。また、「芸術家はただひとつのもの、すなわち芸術家であらねばならない。芸術家、とりわけ詩人は常に、言葉の最良の意味においてアナキストでなければならない」「僕は絶対に政治家にはならない。僕は革命家なんだ。だって、革命家じゃない本物の詩人なんていないからだよ」という言葉も残しています。

ロルカの立場は鮮明でした。1936年8月18日早朝、ロルカは友人の家からファシストたちに連れ去られました。オリーブ畑に運ばれたロルカは、連行された他の共和主義者と共に、自らの墓穴を掘らされた挙句、その場で銃殺されたのです。

享年38歳でした。

さて、私はここまで25分間をかけて、ガルシア・ロルカの生涯とその時代を駆け足で語ってきました。1898年に生まれ、1936年に死んでいったひとりの人物。スペイン現代史を画する年が、その生年と没年に刻印されています。いかにも、象徴的なことです。ここで、私の話を止めるべきでしょうか。否、私は止めません。止めるわけにはいかないのです。ファシズムが勝利し、その過程で我らが愛するひとりの詩人が殺されたところで話しを止めるわけにはいかないのです。このままでは、人間の歴史があまりに哀しすぎる。

最後に、ロルカの詩を読むのも一つの方法です。でも、それは今までも読んできました。きょうは、小さな子どもが大好きであった詩人のひとつのエピソードに触れます。親友サルバドール・ダリの故郷を訪ねた時のエピソードです。子どもたちが海辺で遊んでいると、そばにいたロルカは突然風に吹かれて飛んできた紙を掴むふりをした。「あっ、小さなマルガリータの手紙だ」と言ったロルカは、次のように続けたのです。「愛する子どもたち。私は、たてがみを風になびかせて、星を探している白い馬だ。星を探すために、どんなに走っているか、見てほしい! でも、見つからないんだ。疲れた、これ以上、走れない。疲労が私を溶かして煙にしてしまう。形がどう変わるかみてごらん」。

子どもたちは、やがて、馬のたてがみやシッポや、星までをも幻視したと言います。石を読んでと言って、ロルカに石を渡した子がいました。すると、ロルカは「愛する子どもたちよ。私は何年も何年もここに住んでいます。その間、一番幸せだったのは、蟻たちの巣の屋根になれたことです。蟻たちは、私が空だと思っていたので、私もその通り空だと信じ込みました! でも、今、私は自分が石だと気づいたので、この思い出は、私の秘密です。誰にも、この秘密を話しては、だめだよ」

ここしばらくのあいだ、ロルカの詩に親しんで来られた聴衆のみなさんは、これらの即興表現には、ロルカの詩的世界が横溢していると思いませんか。登場する生き物にも、使われているメタファーにも……。

子どもたちにこのように接したロルカの、詩人の魂に乾杯! です。

そして、ロルカの、このような即興の小さな物語を柔らかな心で受け止め、理解し、自分の心の中で大きく育てていくであろう、過去・現在・未来の世界じゅうの子どもたちがもつ可能性に希望と期待を抱いていることをお伝えして、私の話を終わります。

ありがとうございました。

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国の、再び夢は夜ひらく[62]相手の腐蝕はわが魂に及び……とならぬために


残す任期が少なくなってきた米国大統領オバマについては、歴史に名を残す「レガシー(遺産)づくり」のニュースが絶えることはない。革命直後からの半世紀以上にわたって敵視してきたキューバとの国交正常化は具体化の途上にある。他方、オバマの任期中に、黒人奴隷の末裔たちに賠償金が支払われるのではないかという「噂」も根強い。奴隷労働「最盛期」にその労働に従事させられていた人の数、1日の労働時間、現在の最低時給額、結局は支払われなかった賃金の、100年以上に及ぶ未払い期間の金利を複利計算して、それらを総合し、奴隷の子孫が請求できる対価を59兆2千億ドル(約7100兆円)とする計算もある。現在4千万人である黒人でこれを分配すると、1人当たり148万ドル(約1億7760万円)になる。米国の2015年度歳出額が3兆9千億ドル(約468兆円)であることを見ても、実現不可能な数字であることは明白だ(4月26日付け東京新聞)。賠償が実現するか否かはいまだ不明だが、第2次大戦中に強制収容した日系人に対する賠償金の支払いが実施された例もあり、突飛なことではない。ともかく、歴史的過去をめぐるふりかえりが、このような水準でも行なわれている米国の社会状況の一端は見えてくる。

フランス大統領オランドは、去る5月のキューバ訪問の際に、その隣国で、旧植民地であるハイチも訪れた。遥か昔の1804年、世界初の黒人共和国としてハイチが独立したとき、フランスは「独立承認の条件」(!)として多額の賠償金をハイチに支払わせた。今回、オランドはその事実を十分に意識しながら、「過去は変えられないが、未来は変えられる」と演説し、5年間で1億3千万ユーロ(約175億円)の援助表明も行なった(5月13日付けサンパウロ=時事)。

対外政策だけを見てみても、オバマは無人機爆撃も活用しながら世界各地で侵略的な軍事路線を遂行しており、オランドもまたアフリカやアラブ地域に対する戦争政策を憚ることなく展開している。私から見て、決して信頼しうる政治家ではない。それでいてなお、右の2つのエピソードから私は微かなりとも「歴史の鼓動」を聞き取っているのだが、それはとりもなおさず、自分が住まう社会=日本の政治からは、それが決して響いてこない種類のものだからである。

5月27日と28日の両日、衆議院安保法制特別員会において共産党の志位委員長が行なった質問と首相らの答弁の全容を、新聞の6面全体を割いて詳報する「しんぶん赤旗」の同月30~31日号で読んだ。国会中継は見る時間がない。仄聞だが、首相らが窮地に立つ場面はカットされる、最近とみに恣意的な編集が目立つというニュース番組は、隔靴掻痒であるうえ、「(下劣な政治家は)顔も見たくない」というのが本音だから、ほぼ見ない。一般紙が報じる質疑内容は、あまりに簡略化されていて、よくわからない。たまに、こうして、質疑応答の全容を伝える記事を読むと、現在の国会論議の水準がよくわかる。水準はわかるが、首相らの答弁の意味はほとんど理解不能だ。志位は苛立ち、質問にだけ答えよ、と繰り返すが、首相らは聞く耳を持たぬ。質問にはまともに答えないままに、長々と持論を展開する……。とりわけ、日本政府がいう「後方支援」なるものは、国際的には「兵站」といい、「兵站こそ武力行使と一体不可分であり、戦争行為の不可欠の一部だ」と追及されても、「兵站は安全が確保されている場所で行なう」としか答弁しないのだから、討論そのものが成立しないのである。

美術に通じている友人が、言ったことがある――2流、3流の絵画ばかりを見ていると、目が腐ります。

私の考えでは、B級映画にもB級グルメにも得難いものはあるが、美術の世界は違うかもしれぬ。素人なりに納得する意見である。

日本の政治状況を眺めながら、友人の言葉をよく思い出す。論争する相手がその人なりの論理をきちんともち、あっぱれな倫理性の持ち主でもあり、賛同はできぬまでも、持てる政治哲学や歴史認識の方法にも一家言ある人ならば、それに対峙する私たちも切磋琢磨しなければならず、自分なりの高みを目指しての努力を続けることはできる。そうではない人間たちを相手にしなければならないとすれば……? こんなのを相手にしていると、自分自身が腐蝕していくような気がする。相手の腐敗・腐蝕はわが魂に及び、とでもいうか。とめどなく奈落の底にでも落ちていくような。心底、疲れる。この無論理と非倫理をもって、あいつらは私たちを疲れさせようとしているのだろうか? それが、あいつらの狙い目なのだろうか? (6月5日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[59]東京大空襲報道から見てとるべき戦後社会の全景


『反天皇制運動カーニバル』第24号(通巻367号、2015年3月17日発行)掲載

去る3月10日、米軍による東京大空襲の日から70年目を迎えた。例年より少しは関連報道が多いように思えた。6日浅草で開かれた、空襲被害者などの民間人の戦争被害問題の解決を求める集会で、一連のA・S政権の政策に危機感をおぼえて以来、本来の氏の保守的な立場を超えた発言の目立つ憲法学者の小林節が、集会実行副委員長として「いままでこの世界を知らず、人生観が変わるほどのショックを受けている」と語ったという報道(3月7日付け「赤旗」)が目についた。その正直なもの言いに倣うと、私は私で、空襲による朝鮮人犠牲者を追悼する集いもあったという記事の中(3月8日付け「朝日新聞」と「赤旗」)で、10万人を超える犠牲者のうち朝鮮人は1万人以上だと「言われています」という「赤旗」の記述に衝撃を受けた。犠牲者の一割を朝鮮人が占めていたようだ、という推定に。「朝日新聞」は、東京の下町には軍需工場などで働く朝鮮人が多く住んでおり「空襲で相当数の人が亡くなったとされるが、人数ははっきりしていない」と記している。関東大震災とその後起きた、6千人以上と「推定」される朝鮮人虐殺という恐るべき事態は、空襲の時点からふりかえると23年前のことだ。日本近代史には、人為による死者、とりわけ異民族のそれの場合には、「おおよそ」とか「推定される」とかしか言えないような〈暗闇〉がある。そのことに私たち自身が無自覚であることで、私たちはいまなお、その場に留まり続けているのだと改めて思った。

私もスタッフとして参加している「死刑映画週間」(例年、2月に開催)では、昨年に引き続き今年も『軍旗はためく下に』(深作欣二監督、1972年)を上映した。戦没者名簿に載る夫の欄には、ニューギニア戦線で敵前逃亡した罪のゆえに処刑されたと記されており、したがって1952年に施行された戦没者遺族援護法の対象外であると厚生省に説明された妻が、夫の死の真相を求めて彼が属していた部隊の生存者を訪ね歩くうちに、事の真実が明かされるという物語である(原作は結城昌治、1971年)。戦争と戦場の恐るべき実態が明らかになる本筋もさることながら、物語の背景にある「全国戦没者追悼式」の開催と「戦没者遺族援護法」の制定という史実が、これまた〈暗闇〉の中にある戦後史の解明のために、深く示唆的であると私は思う。

敗戦国=日本の占領統治を始めることになる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、早くも1945年11月24日に、戦前の日本軍国主義を支えた基盤を断ち切る二つの措置を採用している。一つは「軍務に服した者に特権的補償を与える制度の廃止」であり、二つ目は「戦争利得の除去および国家財政の再編成」である。前者は、日清戦争、韓国義兵闘争への弾圧、日露戦争、韓国の植民地化を挟んで、第一次世界大戦、ロシア革命後のシベリア出兵など、明治維新以降の近代国家=日本が「戦歴」を積み重ねていくうえで「お国のために戦った」軍人に報いる恩給制度の根を断つ布告である。後者は、軍需会社に関わる補助金・損失補償金・工場疎開費用などを国家負担する約束を反故にする措置である。GHQの指令は、それ自体として見れば冴えており、適確だと思われる。逆に言えば、延命できた日本の戦前体制の護持者――退位しなかった天皇とその周辺者、政治家、軍関係者、官僚たち――からすれば、近代国民国家には不可欠な「戦死者を殉国者として顕彰する」装置である軍事恩給制度を禁じられたのだから、その「口惜しさ」と「屈辱感」も一入だったと思われる。

戦後においても、戦争責任を追及されることなく支配体制の中軸に居座り続けた彼らは、果たせるかな、占領下にありながら、占領体制解除=独立後の社会の準備を怠ることはなかった。1952年4月28日サンフランシスコ講和条約公布の2日後の同30日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布された。1回目の「全国戦没者追悼式」は、5日後の5月2日に実施された。戦争被害に関わる補償制度は、この段階で、旧軍人およびその遺族を特権的に遇し、民間人の被害は「受忍」させる原則が定められた。同時に「国籍による外国人の排除」も確定した。旧軍人であった本人と遺族に対する支給金は、52年以降現在に至るまでに総額54兆円となった。それは、明らかに、身内の死を〈金目によって癒す〉作用としてはたらいた。それは、自らの社会が総体として行なった植民地支配と侵略戦争に対する反省の契機を私たちから奪い去った、大きな理由の一つをなした。

東京大空襲をめぐる報道から、私たちはこのような戦後社会の全景を見て取るのである。

(3月14日記)

私の裡での、大杉栄像の変貌――1963年から2014年まで


『大杉栄全集』第5巻「月報」掲載(2014年12月、ぱる出版刊)

私が学生時代をおくっていた1960年代に、現代思潮社版『大杉栄全集』は刊行された。1963年から65年にかけて、全14巻であった。高校を卒業するまでは、さして文献を深く読み込むこともないままに、漠然たる憧れの感情をソ連社会主義に対して抱いていたものであった。その頃までには『幻視の中の政治』に収められた埴谷雄高の政治論は読んでいたから、スターリン主義批判の問題意識は持ってはいたのだが。

創業まもない1960年代初頭の現代思潮社からは、レオン・トロツキー、ローザ・ルクセンブルグらの選集も刊行されていて、私の世代は、先行する世代とは異なって、マルクス、レーニンなどの文献と共に、トロツキーやローザの論文をも合わせ読むめぐり合わせとなったのだった。そこへ、大杉栄である。クロンシュタットの水兵叛乱やマフノ運動やアナキストに対する弾圧を断固として擁護するボリシェヴィキの公認文献や、いささか弱気に弁護する進歩派の論文と同時に、これを厳しく批判する大杉栄の論文を読む機会にも恵まれたのである。これは得難い機会であった。私がスターリン主義の呪縛から比較的に早くから解放されたとすれば、それは、ソ連邦で進行する事態を、何事もまだ〈理想〉と〈夢〉で彩って解釈するのが趨勢であった同時代にあって、冷静に批判的な分析を行ない得た大杉栄の存在に与ったところが大きいと思う。

大杉栄はその後も、政治的な文脈で、あるいは思想史的な領域でたびたび参照する対象であったが、昨年(2013年)は「大杉栄・伊藤野枝 没後90周年集会」で(東京)、今年(2014年)は「大杉栄メモリアル2014」で(新発田)、それぞれ公開の場で大杉をめぐって話す機会があり、久しぶりにじっくりと「大杉栄とその時代」をふり返る契機となった。時代は、極右政権が一定の民衆の支持を受けて成立し、近隣の諸民族に対するむき出しの憎悪と嫌悪の言葉が街頭で公然と吐き出される状況下にある。思いは、当然にも、大杉栄自身が「その時代」の犠牲者のひとりであった、1923年9月の関東大震災直後の朝鮮人虐殺の史実へと向かった。そこで、久しぶりに、姜徳相著『関東大震災・虐殺の記憶』(青丘文化社、2003年)を取り出した。これは、1975年刊の中公新書版『関東大審査』の新版である。

姜徳相氏はそこで、震災当夜の9月1日から始まる朝鮮人虐殺、川合義虎ら10人の日本人社会主義者たちが惨殺された9月3日~4日にかけての亀戸事件、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の3人が虐殺された9月16日の大杉事件――この3つを「並列して」論じる常識的な傾向に対して、厳しい疑義を唱える。時期、様態、そこへ至る経緯、規模、問題の「発覚」、権力と民意の反応、報道、加害者の処罰の有無などすべての面において、前一件と後二件との間には「共通性」が見られないことを指摘するのである。しかも、当時の労働組合運動の担い手や社会主義者たちは、亀戸事件と大杉事件の虐殺は非難したが、それに先んじてあれほどの規模で行なわれた朝鮮人虐殺の事実に対しては沈黙と無関心の立場に終始したことにも触れる。このような事実に即して事態を見るならば、日本人犠牲者と朝鮮人犠牲者とを、大震災後に起きたひと続きの「悲劇」によってもたらされたと捉えることは難しい。すなわち、民族・植民地問題という契機を導入して、あの時代に起きた「悲劇」を振り返るよう、読者を誘うのである。

大杉栄の『自叙伝』を再読していてこの文脈で再認識したこともある。大杉の父親は軍人であったことはよく知られているが、彼は日清戦争に従軍して、その戦功によって金鵄勲章も受けている。この史実を、次のような事態の中での参照事項と捉えることが重要だと思える。すなわち、関東大震災直後には戒厳軍が出て朝鮮人虐殺の先頭に立った。戒厳軍がそこで発揮した暴力の「質」を、「富国強兵」をめざした明治維新以降の軍事的体験の蓄積過程に据えることである。台湾出兵、日清戦争、韓国義兵闘争への弾圧、日露戦争、(韓国併合を挟んで)第一次世界大戦、そしてシベリア出兵――日本軍はわずか数十年の裡に、植民地で、あるいはその獲得をめざした土地で、これだけの戦争を絶えず繰り広げていた。

2014年、訪れた新発田の町には陸上自衛隊新発田駐屯地があって、その広報史料館には、旧日本軍が上記の戦争で収めた「赫々たる戦果」を誇る展示がなされていた。大杉栄を新たな視点で捉える作業が必要だという私の考えは、いっそう強まった。労働運動に関する発言は多かった大杉だが、植民地問題についてはどう捉えていたのか。「自由」と「叛逆」の精神や、悲劇的な死にのみ収斂させない大杉栄象が、いま、私たちには必要だ。

(2014年10月20日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[56]朝鮮通信使を縁にして集う人びと


『反天皇制運動カーニバル』大21号(通巻364号、2014年12月9日発行)掲載

雨森芳洲の『交隣提醒』(平凡社・東洋文庫)を読んでいたせいもあって、今年こそは、例年11月に埼玉県川越市で開かれる「多文化共生・国際交流パレード/川越唐人揃い」へ行ってみたかった。由来をたどると、江戸時代の川越氷川祭礼では、朝鮮通信使の仮装行列が「唐人揃い」と呼ばれて、大人気の練り物だったという。「唐」は「中国」を指す呼称ではなく、外国を意味する言葉として使われていたようだ。

秀吉による朝鮮侵略(いわゆる文禄・慶長の役 1592~98年)の後、徳川家康と朝鮮王国との間で「戦後処理」が成り、1607年から1811年まで12回にわたって、友好親善の証しとして朝鮮通信使が招かれた。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」の意である。雨森芳洲がいた対馬藩は対朝鮮外交の任に当たっていたから、多くの場合4、500人から成る通信使一行はまず対馬に立ち寄り、そこから瀬戸内海を抜けて大阪までは海路を行く。そこから江戸までは陸路だが、護行する者や荷物を運ぶ者を加えると4千人以上の大移動になったというから、旅の途上で宿泊することになったそれぞれの土地に住まう町衆の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。江戸にも店を持つ川越の一豪商が、或る日、日本橋を通った通信使一行の華やかな行列に目を奪われ、郷里の町民にもその感動を伝えたいと考えて、地元の祭りの機会に乗じた仮装行列を思いついたそうだ。通信使が川越を通ったことは一度もないというのに、金持ちの道楽がその後の民際交流の素地をこの土地につくり出したのだから、おもしろいものだ。

川越では、2005年の「日韓友情年」を契機に、この江戸時代の「唐人揃い」を「多文化共生・国際交流パレード」として復活させ、今年は10回目を迎えた。パレードの前日には、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 川越大会」も開かれた。通信使ゆかりの16自治体と41の民間団体は1995年に「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を発足させ、毎年持ち回りで全国交流会を続けている。それが今年は川越で開かれたのだが、関東地域では初めての開催だったそうだ。

私は、対馬を初めとして主として九州・四国・中国・関西地域はもとより、韓国からの参加者の話を聞きながら、民際交流のひとつの具体的な成果を実感した。地域に住む人びとのなかに、このような催し物の積み重ねを通して浸透してゆく、開かれた国際感覚を感じ取った。対馬では、韓国人が盗んで持ち帰った仏像が返却されない問題で、名物行事の通信使行列が中止になったり、「何が通信使か」という誹謗中傷が島外から浴びせかけられたりする事態が起こっているが、それでも韓国の友好団体との交流は続けるべきだと語る「朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長」松原一征氏の言葉(10月8日付け毎日新聞)を読んで、雨森芳洲の精神が対馬には生き続けていると思った。氏は、福岡と対馬を結ぶフェリーを運航している海運会社の経営者だという。

集いを司会したのは地元・川越の女性だったが、次のように語った――「外国」のものを楽しげに受け入れる、江戸以来の伝統が川越の町には根づき、1923年の関東大震災の時にも、朝鮮人虐殺が行なわれた他の関東各地と違って、川越にいた朝鮮人18人と中国人2人は町民と警察に保護されて無事だった、と。翌日のパレードには20以上の団体が、さまざまな衣装・言語・歌・踊り・パフォーマンスで参加し、その多様性は十分に楽しめるものだった。

思うに、映画・演劇・音楽・美術などの文化分野では、国境を超えた共同作業がごく自然なこととして行われて始めて、久しい。朝鮮通信使を媒介にした日韓および日本国内の草の根の交流も、その確かなひとつだろう。

中央の極右政権が行っている排外主義的ナショナリズムに純化した外交路線を批判しつつ、それと対極にある各地の理論と行動に注目したい。もちろん、自分自身がその実践者でもあり続けたい。(12月6日記)

1979→2014年 或る雑誌に併走した精神的スケッチ


『インパクション』第197号(休刊号、2014年11月25日発行)掲載

『インパクト』誌(後の名『インパクション』誌)が刊行されてきた1979年から2014年までの35年間に及ぶ事柄を、ある程度この雑誌の内容に即して併走しながら思い起こすことで浮かび上がってくる、この時代の普遍的な精神史があるように思う。いささかならず私的な記述が混じってしまうが、それがどこかで普遍性に繋がっていることを願いつつ、その思いを書き綴ってみたい。

1 イランとニカラグア

『インパクション』誌の前身である『インパクト』誌が創刊された1979年の記憶は、当時の世界情勢との関連で、いまも鮮明だ。この年には、2月に、イランで長く続いたパーレビ国王(当時は、こう表記されていた。いまでは、バフラヴィーと書くのがふつうになった)体制を打倒する革命が成就した。ここに至る社会運動の主力になったのがイスラム教徒であったことから、イスラム革命と呼ばれた。私は彼の地の歴史や情勢にさして詳しいわけではなかったが、無知ゆえに掻き立てられる関心なり興味というものもあり、注視していた。同年11月に起こったテヘランの米国大使館占拠・人質事件には、それまでの米国の介入の事実を知っていれば、学生たちの怒りの発露として当然だろうとの思いしか起きなかった。

7月19日には中米ニカラグアで、1930年代から続いていた、一族支配のソモサ独裁体制を倒す革命が勝利した。私は、ニカラグアに、そのつい数年前の74年末と76年半ばの2回、それぞれ1ヵ月間ほど滞在していた。独裁体制からの解放闘争をたたかうサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の共鳴者であろう幾人もの作家や詩人たちと国内で会い、講演や詩の朗読も聴いていた。コスタリカやメキシコなどの亡命先で、この解放闘争をさまざまな形で支援するニカラグア人とも会っていた。1回目の滞在時は、サンディニスタ民族解放戦線が元農相の豪邸で行なわれていたクリスマス・パーティの場を襲い、大勢の要人(米国石油企業代表や、前年の軍事クーデタを起こしたチリの大使など)を人質に取った軍事作戦の時に重なった。要求は以下の4点だった。(1)獄中の同志14人を解放しキューバへの出国を認めること。(2)最低賃金を引き上げること。(3)1万2000字から成るコミュニケを新聞・テレビ・ラジオを通じて報道させること。(4)600万ドルの資金を提供すること――人質の「重要度」から行って、ソモサ政権はこれを飲まざるを得なかった。私は、ちょうど乗っていた長距離バスの中で、ラジオを通じてコミュニケが放送されるのを聴いた。満員の乗客が息を潜めてそれに聞き入っている姿が印象的だった。ソモサにとってはかつて味わったこともない屈辱であり、客観的には鉄壁を誇った抑圧体制が崩れゆく予兆でもあった。翌日、バスで隣国コスタリカへ向かう出国手続の場でニカラグアの税関吏たちは荒れた。独裁体制下では、軍・警察と共に税関には独裁者にもっとも忠実な官吏が配置されている。ソモサが前日強いられた恥辱を晴らすかのように、荷物を乱暴に扱い、新聞・雑誌を隈なく点検した。コスタリカへ移ってからでもニカラグアの新聞は入手できた。私は掲載されていたサンディニスタのコミュニケを大急ぎで翻訳し、友人を通じて『情況』誌に送ってもらった。それは同誌75年6月号に掲載された。

このような経緯もあって、ニカラグアは、中米・カリブ海における超大国の支配を断ち切る革命の可能性を感じて、現地でも、帰国後にも、大いに注目していた土地だった。歴史過程もそれなりに研究していた。解放戦線の指導部の中のひとりのメンバーは、『ニカラグアの反植民地主義闘争における先住民の根』と題した書物を著していて、先住民族の存在を軸に、この大陸の歴史過程を捉える方法を模索していた私には、深く示唆的だった。だから、サンディニスタ革命勝利の報に接すると、具体的に思い浮かべることのできる、その渦中にいるであろう人びとの貌がいくつもあって、こころが躍った。

この年の7月に創刊された『インパクト』誌には(9月刊の第2号にも)、このイランとニカラグアの最新情勢に触れた文章が載っていた。研究者の厚みも、まだ、なく、一般的な関心もさほど高くはないと思われた地域に関して、深みのある分析を行ない得る書き手を素早く見つけて関連論文を掲載していることに、少し驚いた。台頭する第三世界の政治・社会・文化の鼓動を聴き取るだけの素地が、この社会にも出来つつあるのかと感じた。

2 政治犯への死刑判決

未知であった『インパクト』編集人から連絡をもらったのは、それからしばらく経った頃だった。私は当時から、東アジア反日武装戦線被告の救援活動に携わっていたが、1979年末には第一審の判決が迫っており、戦後史で初めて政治犯に対する死刑判決が下されることは、公判過程を見ていれば必至だった。これに対する反撃の特集を組みたいので協力を、という要請だった。仲間と手分けして、いくつかの観点から、東アジア反日武装戦線の思想と実践が提起した諸問題と、これに対する死刑判決が意味するものを分析する文章を書いた(同年11月刊の第3号で「死刑制度を問う」特集が組まれた)。『インパクト』誌および『インパクション』誌が、ひいてはインパクト出版会が、死刑制度廃絶という明確な目標の下に〈死刑〉をテーマにした企画と単行本をかくまで積み重ねてきている出発点は、ここにあったのか、といまにして思う。

当時、大衆運動の場で〈反日〉の名は、ほとんど、禁句にひとしかった。つい4、5年前のことでしかない、実践された「テロリズム」の記憶は、人びとの中でなお鮮明だった。それが生み出した甚大なる死傷者の存在が、遺族ではないとしても、癒しがたいものとなって人びとの脳裡には残っていた。学生時代に、サヴィンコフの『テロリスト群像』や、またの名、ロープシンの『蒼ざめた馬』を読み、また啄木の「ココアのひと匙」の影響もあったりして、私などはそれまで「テロリスト」という語の響きにどこかロマンティシズムを感じないではなかったのだが、実際に発動された「テロ行為」の結果は、あまりに無惨だった。

この行動形態には反対だが、その基底にあった植民地支配と侵略戦争への批判の志は受け止めたいと考える人が、よしんばいたとしても、それを口にしただけで、まわりの世界は凍りついたほどだった。公安警察の動きも執拗だった。救援のメンバーが駅前に置いた自転車が「何者か」によってパンクさせられたり、どこかへ持ち去られたりすることは、日常茶飯のことだった。自宅周辺に公安警察のアジトがあって、四六時中監視下に置かれていたメンバーもいた。周辺のシンパにも嫌がらせの手は伸び、あなたの恋人は爆弾魔=〈反日〉のメンバーと親しく付き合っているよ、と垂れこみがなされる場合もあった。

それでも、〈テロリズム〉への批判から〈反日〉救援者を排除していた人びととの間にも、やがて、対話の契機は生まれる場合もあった。救援者が、〈テロリズム〉の問題に正面から向き合い、それへの批判を明らかにしつつも〈救援〉の論理は確固として立てた場合には。

逆に、それを曖昧なままに放置すると、そのぶん、公安警察が布いた「分断線」は効き目を発揮した。そのとき公安警察の嫌がらせと脅しによる、見えない恐怖と怯えがもたらす波及効果は大きかった。そんな時期の只中になされた『インパクト』誌第3号特集「死刑制度を問う」は、左派や進歩派の間では敬して遠ざけられるきらいのあった死刑というテーマが、避けては通れぬ課題として次第にせり上がってくる上で、ひとつの重要な役割を果たしたものであったと言える。

3 ニカラグア、そしてイラン、ふたたび

その後の事態の展開の中で、ニカラグアと死刑制度の問題とは、私にあっては互いに出会うことになった。ニカラグア革命は、基本的には社会主義的方向をめざすものではあったが、その意味では先達というべきロシア、中国、キューバなどの諸革命とは違う方向性をいくつか示した。その最たるものは、複数政党制を維持したこと、および死刑制度を廃止したことである。先行した社会主義革命はいずれも、ここで躓いた。唯一絶対の権威を誇りたがる前衛党指導部は、どこにあっても、政治・社会・文化・経済・軍事などあらゆる分野の全権を握ることが、〈反革命〉勢力の跳梁を許さないためには不可侵の正義であるとの「論理」に基づいて、社会を統制した。サンディニスタ指導部はその道を選ばなかった。事実、11年後の大統領選挙では、サンディニスタは破れて下野した。米国は革命政権を打倒するために、コントラ(旧独裁体制時代の軍人や多国籍の傭兵を組織した反革命軍)を支援してニカラグアを内戦状態に陥れたために、79年の革命成就後長く続く内戦に疲れた民衆は、90年の選挙でサンディニスタを見限ったのだ。レーガン政権時の米国政府はこのコントラに対する支援資金を、イランに対する武器輸出の代金から工面していたことが後日(86年)わかって、このスキャンダルは「イラン・コントラ事件」と呼ばれた。スキャンダルというのは、イラン革命後に学生たちによってテヘランの米国大使館が444日間にも渡って占拠され、それに対してなす術もなかった屈辱を味わった相手国=イランに対して、その後80年に始まったイラク・イラン戦争に際しては支持せざるを得ず、したがって武器輸出も行なう立場に追い込まれたうえ、それによって得た収入をニカラグアの内政に干渉するコントラ戦争に振り向けていたことを指している。東西冷戦構造(米ソ対立)を最大の矛盾として成立していた戦後世界にあっては、このような複雑怪奇な現実が、たびたび生み出されたのだった。

ニカラグア革命が、従来の革命との差を著しく示したもう一つの特徴は、革命直後から死刑制度を廃止したことである。社会主義を名乗る革命においては、それまで、旧体制を支えた政治家、軍人、弾圧機構の主要人物たちに対する報復処刑が行なわれるのが常であった。それは、まっとうな裁判の過程をくぐることもないままに、新たな革命権力の恣意性の下に強行された。それを認めること/許すことは、一事が万事を意味した。「摘発」の矛先は、次第に、自らの新体制内部の「政敵」や「反革命の煽動者」にも向けられるようになり、「粛清の論理」が社会主義革命を貫く特徴であるかのような現象にまで至った。「新左翼」を名乗る日本の多くの党派のなかにも、この論理は浸透した。党派間で、政治路線なりイデオロギー的な基盤なりに食い違いが起こると、それを直ちに「敵対矛盾」と解釈して、凄惨な殺し合いに全力を挙げる者たちが登場した。社会主義が本来的に内包していたはずの「崇高な」理念は、このような愚かにも醜悪な現実によって、世界的にも国内的にも裏切られてゆくばかりであった。

この現実の中でニカラグア革命において死刑制度が廃止されたことは、未来へ向けての確かな指標であると私は感じた。サンディニスタの古参兵士であり、独裁政権時代には何度も投獄され拷問も受けたトマス・ボルヘは、革命後に内相として語っている。「戦いが終わって、私を拷問した者が捕えられたとき、私は彼らに言った。私の君らに対する最大の復讐は、君らに復讐しないこと、拷問も殺しもしないことだと。私たちは死刑を廃止した。革命的であるということは、真に人間的であるということ。キリスト教は死刑を認めるが、革命は認めない」。旧弾圧機構=国家警備隊隊員は5700人もが革命後に逮捕されたが、刑務所は復讐の場ではなく、赦しと再教育の場であるから、次の五段階に分けて設けられた。閉鎖施設・労働施設・半解放施設・開放施設・監視付き家庭復帰。最長期刑は30年が限度とされた。「力の論理に、善意の論理は対抗しうるか」と問われたボルヘは答える。「革命家とは夢想家だ。夢がなければ、われわれが建設するものは死の海にすぎぬ」(野々山真輝帆『ニカラグア 昨日・今日・明日』、筑摩書房、1988年)。

解放/革命闘争の途上ならば、〈敵〉の負傷兵や捕虜兵への処遇において、運動主体が人道主義的な態度を貫いた事例に事欠くことはない。だが、いったん〈勝利〉した革命権力は違うのだ――無念にも、そんな実態を見せつけられてきた私の眼に、ニカラグアの実例は新鮮に映った。私は当時、ニカラグア革命の意義に関していくつかの文章を書いたが、死刑制度の廃絶に関しては「死刑を認めぬ革命――ニカラグアの〈可能性〉」と題した文章を書いた(日本死刑囚会議麦の会編『死刑囚からあなたへ』所収、インパクト出版会、1987年)。埴谷雄高は、数千年を通じて変わらぬ人類の政治の意思は「奴は敵である。敵を殺せ」に尽きると喝破したが(「政治のなかの死」、『中央公論』1958年11月号、のち『幻視のなかの政治』所収、中央公論社、1960年)、それを超える実践例が現われたのであった。

それに続く20世紀末には、アジアやラテンアメリカなどで長く続いた軍事独裁政権が倒れ、民主化の過程をたどる国々が数多くあった。アフリカでも、ナミビアの独立や南アフリカの人種隔離体制(アパルトヘイト)の崩壊と新体制の成立があった。そのすべてにおいてではなかったが、刑罰のあり方や死刑制度の問題をめぐって、この時代、世界の趨勢は明らかに変化を遂げた。新体制下で、血を血で洗う、復讐の虐殺劇が繰り広げられるという、目を覆う光景は少なくなった。厳しい人権弾圧が行なわれた独裁時代の「真実究明」はあくまでもなされなければならないが、それが数々の困難を乗り越えて実現した後には「赦し」と「和解」の過程が待っている、という時代がきた。もっとも示唆的な経験は、アパルトヘイト体制を廃絶した南アフリカの「真実和解委員会」の活動によって試みられた。

遅きに失したという思いがないではないが、それでもこれが、人権の確立に向けた人類史のたゆみない歩みの一成果であった。このような世界風景を背後に置いてみると、2014年の日本社会の異常さが際立って見える。ここでは、植民地支配にせよ侵略戦争にせよ、その「真実を究明」して和解に向かうどころか、真実を覆い隠そうとする考え方の者たちが政権の座に就いている。それを支えるかのように、書店には「偽造する歴史修正主義者」たちの雑誌や本が山積みになっている。もっとも深刻なことには、それを支持する民衆が少なからず存在している。

革命後のニカラグア社会やアパルトヘイト廃絶後の南アフリカ社会の試行錯誤の過程は、私の裡にあっては、このような時間的・空間的な射程の中でこそ活きてくるもののように思える。

4 近代と先住民族

『インパクト』誌創刊の翌年の1980年、私たちは、ボリビア・ウカマウ集団製作の映画の自主上映運動を始めた。初めて上映する映画は『第一の敵』といい、19690年代のアンデス地域で、大地主に対する抵抗の闘いの渦中にある先住民族と、都市部から来た反帝国主義闘争をめざすゲリラ部隊の出会いの物語であった。現地でウカマウの映画作品を幾本か観て、私はこれが、当時すでに必然的な課題になっていたヨーロッパ中心主義の歴史像と世界像を克服し、新たなものを作り上げるうえで大きな役割を果たすと感じていた。先住民族を主体に据えて、近代総体を問い直す視点に共感した。進化した映像・音響機器の普及によって、若者たちはすでに、何ごとにせよ活字媒体に依存して学んでいた私たちの世代とは違って、常時五感すべてを使って世界を感じ取る時代になっていた。だから、ヨーロッパ起源の芸術表現の方法を駆使しつつ、稀有な観点から歴史の読み替えを企図する、ウカマウの映像が持ちうる意味を信じたいと私は思った。あるいは、監督のホルヘ・サンヒネスが語った言葉で言えば、「映像による帝国主義論」の構築をめざす彼らの作業に協働しようと考えた。

先に触れたニカラグア革命の最終蜂起の過程を見ながら、私はその闘争の中で先住民族が果たしている大きな役割に注目していた。それに『第一の敵』で描かれている先住民族像と重ね合せて論じる形で、映画の紹介文を書いた。この場合、現実とフィクションが、偶然のことではあったが、重なり合って見えることが重要だった。手作りの自主上映運動は、一定の成果を生み出しながら34年後の現在まで続いている。関連する図書もずいぶんと出版してきた。『インパクト』誌の別冊としてウカマウ映画のシナリオ集を出版できたことも、意味は大きかった。『第一の敵』(1981年)と『ただひとつの拳のごとく』(1985年)の2冊である。

先住民族と名づけられる人びとの存在を軸に据えるということは、歴史上、植民地主義が担った役割を考えることを意味した。1492年の「コロンブスの航海」以降数世紀をかけて、ヨーロッパは世界じゅうに隈なく植民地をつくり上げ、それによって自らの近代を可能にしたが、その近代に孕まれる、非ヨーロッパ地域という〈裏面〉に注目することを意味した。20世紀末、そのような歴史検証・思想再構築の作業は世界規模で深化した。それには、いくつかの契機が考えられる。ソ連・東欧の社会主義圏で体制崩壊が起こり、資本主義は勝利を謳歌しグローバリゼーションの時代の到来を讃えたが、翻って、ここへ至る歴史過程を検証するなかで、資本主義的な近代を可能にした植民地の存在が浮かび上がったこと。コロンブスの航海とアメリカ大陸への到達から500年目を迎えた1992年に、世界で一斉に、ヨーロッパ近代と植民地主義の関係を捉え返す作業が始まったこと。国連のような国際機関で、先住民族の権利を回復するための宣言が出されたり、諸活動が取り組まれたりしたこと。その結果、2001年には、国連主催で「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(通称「ダーバン会議」)が開かれ、奴隷制や植民地主義に内在する諸問題が、初めて世界的なレベルで討議されたこと――確かに、従来の歴史観では捉えきることのできない、地殻の変動が起こっていた。日本社会でも、北のアイヌと南の琉球人とが、国連が認めた、先住民族が手にすべき諸権利に基づく主張を行なって、歴代の中央政府が積み重ねてきた先住権否認政策に抗議する動きが目立つようになった。『インパクション』誌においても、編集委員であった故・越田清和などの手によって、先住民族をめぐるテーマがたびたび取り上げられたことは、周知の通りである。

5 戦争と死刑と国家

先にも引用した埴谷雄高は、同じ論文でこう書いている。1958年のことである。政治は「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」――と。当時の埴谷は、政治(それは、「国家」あるいはその「時どきの政府」と同義であると捉えられていよう)の意思を「奴は敵である。敵を殺せ」というスローガンに見ていたのだから、いかなる個人からも集団からも超越している国家が、その存在の「至高性」を見せつけつつ他者に死を強制し得る手段として「戦争」と「死刑」の発動権を独占していることに注目したのであろう。事実、あの時代であれば(21世紀の現在になっても廃絶のための微かな望みすら見えない戦争は論外として)死刑制度を存置している国は圧倒的に多かった。一般刑事犯であれ政治犯であれ、国内秩序を最悪の形で乱す者に対しては、刑の執行それ自体は非公開で行われる場合でも、究極の刑を科すことで人心の引き締めが可能だと統治者たちは考えていたのである。

だが、死刑制度の存否をめぐって、世界は動き始めた。19世紀を含めたごく早い時期から死刑を廃止していた国々は別格として、先にニカラグアで見た例がこの時代の特徴を表わしている。以下に、この前後から死刑を廃止した国を挙げてみる。【( )内は廃止した年度、「一部」は通常の犯罪に関してのみ廃止、言及なしはすべての犯罪に関して廃止した場合である。】

ポルトガル(1976)、デンマーク(1978)、ルクセンブルグ、ニカラグア、ノルウェー、ブラジル、ペルー、フィジー(1979、後三国は一部)、フランス、カポベルデ(1981)、オランダ(1982)、キプロス、エルサルバドル(1983、両国とも一部)、アルゼンチン(1984、一部)、オーストラリア(1985)、ハイチ、リヒテンシュタイン、ドイツ民主主義共和国(1987)、カンボジア、ニュージーランド、ルーマニア、スロベニア(1989)、アンドラ、クロアチア、チェコスロバキア連邦共和国、ハンガリー、アイルランド、モザンビーク、ナミビア、サントメプリンシペ(1990)、アンゴラ、パラグアイ、スイス(1992)、ギニアビサウ、香港、セーシェル、ギリシャ(1993、末尾国は一部)、イタリア(1994)、ジプチオ、モーリシャス、モルドバ、スペイン(1995)、ベルギー(1996)、グルジア、ネパール、ポーランド、南アフリカ、ボリビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ(1997、後二国は一部)、アゼルバイジャン、ブルガリア、カナダ、エストニア、リトアニア、イギリス(1998)、東チモール、トルクメニスタン、ウクライナ、ラトビア(1999、末尾国は一部)、コートジボアール、マルタ、アルバニア(2000、末尾国は一部)、ボスニア・ヘルツェゴビナ、チリ(2001、後者は一部)、キプロス、ユーゴスラビア(2002)、アルメニア(2003)、ブータン、ギリシャ、サモア、セネガル、トルコ(2004)、リベリア、メキシコ(2005)、フィリピン(2006)、アルバニア、クック諸島、ルワンダ、キルギスタン、カザフスタン(2007、後二国は一部)、ウズベキスタン、2008)、ブルンジ、トーゴ(2009)、ガボン、ジプチ(2010)、ラトビア、モンゴル、シエラレオネ、南スーダン(2011)――

煩を厭わず最近の死刑廃止国を列挙したのは、これが紛れもなく現代史の動きだからである。このリストに目を走らせた私たちの多くにとっては、同時代史として進行していた事態であることを確認するために、である。ニカラグアと南アフリカの実例にことさら注目した私の記述がどこか誇張に思えるほどに、「ふつうの国」が次々と死刑を廃止している。現在、死刑廃止国と実質的な廃止国(国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの基準では、制度が残っていても過去10年間にわたって死刑執行が行なわれていない国は「実質的な廃止国」に分類されている)とは合わせて140ヵ国に上るが、実にその半数は、この40年間近くの現代史の歩みの中で死刑廃止に至ったことを、右のリストは物語っている。戦争は廃絶し得ないまでも、差し当たって死刑は廃止できた国が、これほどまでに増えたのである。政治が「死刑と戦争のあいだを往復する振子であって、ついにそれ以外たり得ない」という埴谷雄高の60年有余前のテーゼには、いくぶんかの修正を施さなければならないだろうか。

EU(欧州連合)は、加盟国が死刑制度を廃止していることを加盟のための必須条件に据えている。死刑の非人道性に目覚めてそれを廃止できた欧州の国のなかには、21世紀に入って以降のアフガニスタンやイラクでの「反テロ戦争」に参戦したり、現在でもアラブ世界での無人機爆撃に加担したりしている国もある。国家にとって、死刑廃止に至るハードルは、戦争のそれよりもはるかに低いことがわかる。

この点で異様なのは、東アジア各国の情勢である。日本、中国、朝鮮民主主義人民共和国の三国はいずれも、歴代の統治者の意思で強硬な死刑存置国であり続けている。政治的には複雑な構図の中で激しく対立している三国が、こと死刑の存続という課題では「隊伍を組んでいる」のは皮肉な話である。韓国には制度は残っているが、自身がいっとき死刑囚であった金大中が大統領に就任(1998~2003三年)して以降、大統領は幾代も変わったが今日に至るまでの16年間、死刑の執行はなされていない。したがって、現在では「実質的な廃止国」に挙げられている。軍事政権下では頻繁に死刑の執行が行なわれていただけに、あの時代との対比が鮮やかに見える。

こうしてみると、現在の日本はいかにも特殊な状況下にある。為政者と法務官僚には、死刑廃止に向けた意志は微塵も見られない。死刑という制度や死刑囚という存在についてほとんど情報を持たない民衆は、多くが暗黙の支持を死刑に対して与えているように見える。もっとも、廃止国の外交官に言わせると、死刑制度が存在している時代に世論調査を行なえば、どの国にあっても廃止に「否!」と答える者が多い、それが世論というものだ。制度の非人道性に気づいた政治家やメディアや言論人などがイニシアティブを発揮しなければならないのだ――という。政治レベルでの働きかけの重要性はいっこうに減じないが、私たち死刑廃止運動が考えたことは、情報が厳密に封鎖されている死刑という制度にさまざまな風穴を開けることである。制度を維持するために施されている粉飾を剥ぎ取ることである。その方法は多様にあり得ようが、まず取り組んだのは、死刑囚表現展と死刑映画週間の開催である。前者は2005年から10回、後者は2012年から3回を数えた。死刑囚表現展は大きな反響を呼んできた。死刑囚が描いた絵を見たり、俳句や短歌を読んだりすることで、一面的にしか捉えてこなかった死刑囚という存在、および死刑制度について考え直してみたい、との印象をもつ人が多い。絵を見て「人間の魅力に気づかされた」という声すらある。死刑囚にとっても、自らが犯した行為をふり返るうえで、あるいは囚われの身でも自由な空想の世界に浸るうえで、そして冤罪を訴えるうえで、自らなす「表現」の力を実感し始めていることがうかがわれる。それが10年間続いてきたことの成果であろう。当初10年間の時限で始めたこの試みは、死刑制度廃止の展望が立たないいま止めるわけにはいかず、また新たな基金の提供者も現われて(いわゆる島田事件でいったん死刑が確定しながら、再審で無罪を勝ち取った赤堀政夫さん)、さらに5年間継続することになった。死刑映画週間にも、死刑存置の立場の人も含めて毎年多くの人びとが詰めかけて、古今東西のすぐれた映画作品から何ごとかを汲み取る場として定着してきた。来春以降も、なお続くだろう。

*          *        *

約めて言えば、先住民族という存在を生み出した民族・植民地問題を追究するという課題において、また、国家が戦争と死刑を通じて他者の死を命令する独占的な権限を持つ事実に対する批判を深めるという課題に関しても――私たちはこの雑誌と併走することができた。この雑誌なき明日以降も、揺るぎない確信をもってこの道を進むことができるくらいの素地は、そこで育っていると信じたい。 (11月4日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[55]四、五世紀の時間を越えて語りかけてくる、小さな本


『反天皇制運動カーニバル』第20号(通巻363号、2014年11月11日発行)掲載

現在のように、あまりに虚偽に満ちた言説が大手を振って罷り通る時代には、これを批判するためには目を背けたくなる言動とも付き合わなければならない。「慰安婦」問題はその最たるものだ。だが、それだけでは心が塞がれる。いしいひさいちの『存在と無知』『フラダンスの犬』『老人と梅』『麦と変態』『垢と風呂』(挙げていくと、きりがない)などの漫画本で気を晴らしたりもするが、気晴らしではない小さな文庫本を幾冊も手元に置いて、落ち着いて読みたくなる。そのうちの数冊からは、拾い読みでも、この耐え難い「現在」を生き抜くうえでの智慧と力を与えられる。歴史の見通し方を教えられる。いずれも幾世紀も前に書かれ、本文だけなら文庫本で百頁にも満たないか、せいぜい200頁程度の小さな書物だ。誰でもそんな本をお持ちだろうが、最近の私の場合について書いてみる。

1冊目は、今までも何回も触れてきた書だが、スペインのカトリック僧、ラス・カサス(1484~1566)の『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(原著は1552年刊、岩波文庫。A5版の単行本だが現代企画室版もある)である。彼はコロンブスの米大陸到達後に行なわれ始めた「征服」の事業に参加し、その行賞で先住民の「分配」にも与かった人物だが、やがて同胞が行なう先住民虐殺や奴隷化の実態に気づき、先住民が強いられている悲惨きわまりない状況を目撃することで、「征服」の批判と告発に晩年を捧げた。ヨーロッパの植民地主義を内部から批判した古典的な書物である。1960年代、米軍がベトナムで繰り広げる虐殺を見ながら、ドイツの作家、エンツェンスベルガーはラス・カサスのこの書を想起した。私たちも刊行から460年近くを経たいま、アフガニスタンやイラク、そして無人爆撃機による攻撃に晒される土地と人びとの現実と二重写しにしながら本書を読むことができる。強者にとっては、昔も今も「植民地は美味しい」のだ。

2冊目は、フランスの思想家、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(1530~63)の『自発的隷従論』(執筆は1546年あるいは48年と推定、ちくま文庫)である。モンテーニュの友人として知られるラ・ボエシは、16歳か18歳のころの著作と言われる本書で、いつ、どこの世にも圧政がはびこるのに、その下で生きる人びとが忍従に甘んじているのかなぜか、と問い、人間の集団的心理がもたらす倒錯をするどく考察する。これまた、現代日本社会を活写しているかのような生々しい印象を受ける。翻訳版で特筆すべきは、ラ・ボエシの著作に深い示唆を受けていた思想家、シモーヌ・ヴェイユと、南米パラグアイの先住民族社会の在り方を深く研究した政治人類学者、ピエール・クラストル(『国家に抗する社会』水声社、『グアヤキ年代記』現代企画室などの翻訳がある)の掌編が収められていることである。いずれも30歳代の若さで生涯を終えた3人の論考の前に頭を垂れる。

3冊目は、対馬藩で対朝鮮外交に携わった雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』(執筆は1728年と推定。平凡社東洋文庫)である。私は先年、芳洲の故郷=琵琶湖北東岸の町・高月で記念館を訪れた時に、私家版で出ていた本書を入手し読んでいたが、平凡社版は「解読編(読み下し文)」「原文編」及び長文の「解説」から成っていて、読み応えがある。二度にわたる秀吉の朝鮮侵略の傷跡深い17世紀から18世紀にかけて、対朝鮮外交(=交隣)の先頭に立った芳洲が、どんな考えに基づいて何を行なったか、が明らかにされている。芳洲の考えの真髄は、「誠信と申し候は実意と申す事にて、互に欺かず争わず、真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とする点にある。日朝ともに、ことさらに相手側の非を鳴らすことなく、互いの実態をよく知ったうえで交わるべきだとの論理だが、主観的な国内向けの論理を振り回すのではなく、客観的な国際常識に則った行動をと訴える主要な相手は、もちろん、藩主であり対馬藩全体の人びとだ。朝鮮通信使の受け入れをめぐって起こる困難な事態にもいくつも触れている。秀吉の戦役の際に切り取った朝鮮人の耳鼻を収めた耳塚を「日本の武威を示す」ために通信使に見せようとする役人を厳しく批判する。現在、対韓・対朝外交に当たる者にこの識見あらば! とつくづく思う。

重厚な大著にも大河小説にも、もちろん、よいものはあるが、掌編と言うべきこの3冊の小さな文庫本に漲る歴史意識・論理・倫理に、目を瞠る。(11月8日記)

【追記】エンツェンスベルガ―論文は「ラス・カサス あるいは未来への回顧」といい、現代企画室版『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳=訳)に、田中克彦訳で収められている。

ピエール・クラストルの『グアヤキ年代記』はこちらで。

クラストルの翻訳には、もうひとつ『大いなる誇り』(松籟社刊)がある。「グアラニーの神話と聖歌」についての著作で、私は刊行直後の1997年4月に書評をしているが、このブログに記録されているのは同年後半以降に書いたものなので、ネット上では読めない。『日本ナショナリズム解体新書』(現代企画室、2000年)には収録されている。

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[54]「慰安婦」問題を語る歴史的射程(その2)


『反天皇制運動カーニバル』第19号(通巻362号、2014年10月7日発行)掲載

「本来なら躓いているはず」の首相A・Sらが、まるで論理的な傷を負っていないかのようにふるまうのは、素知らぬ顔で論議の次元をズラしているからである。そのズラしは、意図的に行なわれている。なにしろ、彼は「侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」(2013年4月23日参議院予算委員会)と公言するような人物である。アジア太平洋戦争が日本のアジア侵略から始まったという、隠しようもない本質をごまかし、戦争から「加害・被害」の性格を消し去ること。彼の本意はそこにこそある。うぉっーという怒りの声が、国の内外から挙がっても当然な、恥知らずな言動である。恬として恥じずにそれを繰り返す人物が生き延びているのは、「内」からの批判・抗議・抵抗の声が小さいがゆえに、である。彼はこの国内的な状況を利用して、戦時下のもろもろの問題について述べるときにも、戦争をめぐるこの大枠の捉え方を壊すことなく、展開する。

この立場を「慰安婦」問題に応用するときにはどうするか。植民地の女性を「慰安婦」として働かせるにあたっての「強制性」をめぐる論議に、意味をなさない「狭義・広義」という分断線を持ち込むことである。首相A・Sは、第一次政権時に次のように語っている。「官憲が家に押し入って人さらいのごとく連れて行くという強制性、狭義の強制性を裏付ける証言はなかった」(2007年3月5日参議院予算委員会)。問題の核心はすでに、「長期に、かつ広範な地域に設置された慰安所は、当時の軍当局の要請によって設営され、その設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与」(1993年の「河野談話」から要約抜粋)したことの「強制性」にこそ置かれていた。問われれば、彼は答えるであろう、「広義の強制性があったことを否定したことは一度もありません」と。だが、それは「侵略を否定したことは一度もありません」との発言と同じく、問われなければ触れることもない、付け足しの物言いでしかない。彼は土俵を常に、自分に有利な場所に勝手に設置するのである。自分の見解が客観性を保つことに、彼は関心を持たない。彼が固執する論点を移動させなければならないからである。不利な場所に自らを置くことになるからである。

党首に返り咲いた5年後にも、次のように語っている。「そもそも、朝日新聞の誤報による、吉田清治という、まぁ詐欺師のような男が作った本がまるで事実かのように、これは日本中に伝わっていった事でこの問題がどんどん大きくなっていきました」(2012年11月30日の日本記者クラブ主催党首討論会)。2012年の段階でなお、この人物は、朝日新聞の「誤報」を頼りに、この問題についての発言をしていた、否、次のように言うべきだろう、この問題について発言するときには、唯一この観点でしか物を言っていない、と。当該の問題に関する研究・調査が、どこまで深化し進展しているかにも、彼は関心を持たないことを、この事実は示している。産経新聞と(最近では)読売新聞を日々の教科書にしている彼からすれば、旧来の図式をなぞるように発言する材料に事欠くことはないからである。

朝日新聞の紙面と、ETV特集「戦争をどう裁くか」で戦時性暴力を取り上げようとした2001年までのNHKの一部番組には、「慰安婦」問題をめぐる動きを、「内」(=加害)と「外」(=被害者側の視点、および世界的な人権意識の深化)の複眼で捉えようとする試みがあった。自国の近代史から侵略の史実を消し去るために「内」に籠ろうとする意識が、そこでは揺さぶられる。1997年に『歴史教科書への疑問』を刊行した「若手議員の会」の主軸メンバーであったA・Sは、まず2001年にNHKに圧力をかけて右の番組を改変させた。その延長上に、権力の前に全面的に屈した13年後の現在のNHKの姿がある。朝日新聞は、このNHK番組へ圧力をかけた政治家の名をA・Sの名入りで他のメディアに先駆けて報じたことでも、彼にとっては「許すべからざる」新聞である。こうして、現在の朝日バッシングの陰には、明らかに首相官邸の姿が見え隠れしている。

来年は日本の敗戦から70年目の節目を迎える。70年を経てもなお、戦時下の「記憶」をめぐるたたかいを、卑小な「敵」を相手に続けなければならないとは、情けなくも徒労感を覚える。人間がつくり上げている社会の論理と倫理、歴史意識とは、古今東西この程度のものが大勢を占めてきたという実感に基づいて、歩み続けるほかはない。(10月4日記)