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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[56]朝鮮通信使を縁にして集う人びと


『反天皇制運動カーニバル』大21号(通巻364号、2014年12月9日発行)掲載

雨森芳洲の『交隣提醒』(平凡社・東洋文庫)を読んでいたせいもあって、今年こそは、例年11月に埼玉県川越市で開かれる「多文化共生・国際交流パレード/川越唐人揃い」へ行ってみたかった。由来をたどると、江戸時代の川越氷川祭礼では、朝鮮通信使の仮装行列が「唐人揃い」と呼ばれて、大人気の練り物だったという。「唐」は「中国」を指す呼称ではなく、外国を意味する言葉として使われていたようだ。

秀吉による朝鮮侵略(いわゆる文禄・慶長の役 1592~98年)の後、徳川家康と朝鮮王国との間で「戦後処理」が成り、1607年から1811年まで12回にわたって、友好親善の証しとして朝鮮通信使が招かれた。「通信」とは「よしみ(信)を通わす」の意である。雨森芳洲がいた対馬藩は対朝鮮外交の任に当たっていたから、多くの場合4、500人から成る通信使一行はまず対馬に立ち寄り、そこから瀬戸内海を抜けて大阪までは海路を行く。そこから江戸までは陸路だが、護行する者や荷物を運ぶ者を加えると4千人以上の大移動になったというから、旅の途上で宿泊することになったそれぞれの土地に住まう町衆の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。江戸にも店を持つ川越の一豪商が、或る日、日本橋を通った通信使一行の華やかな行列に目を奪われ、郷里の町民にもその感動を伝えたいと考えて、地元の祭りの機会に乗じた仮装行列を思いついたそうだ。通信使が川越を通ったことは一度もないというのに、金持ちの道楽がその後の民際交流の素地をこの土地につくり出したのだから、おもしろいものだ。

川越では、2005年の「日韓友情年」を契機に、この江戸時代の「唐人揃い」を「多文化共生・国際交流パレード」として復活させ、今年は10回目を迎えた。パレードの前日には、「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会 川越大会」も開かれた。通信使ゆかりの16自治体と41の民間団体は1995年に「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を発足させ、毎年持ち回りで全国交流会を続けている。それが今年は川越で開かれたのだが、関東地域では初めての開催だったそうだ。

私は、対馬を初めとして主として九州・四国・中国・関西地域はもとより、韓国からの参加者の話を聞きながら、民際交流のひとつの具体的な成果を実感した。地域に住む人びとのなかに、このような催し物の積み重ねを通して浸透してゆく、開かれた国際感覚を感じ取った。対馬では、韓国人が盗んで持ち帰った仏像が返却されない問題で、名物行事の通信使行列が中止になったり、「何が通信使か」という誹謗中傷が島外から浴びせかけられたりする事態が起こっているが、それでも韓国の友好団体との交流は続けるべきだと語る「朝鮮通信使縁地連絡協議会理事長」松原一征氏の言葉(10月8日付け毎日新聞)を読んで、雨森芳洲の精神が対馬には生き続けていると思った。氏は、福岡と対馬を結ぶフェリーを運航している海運会社の経営者だという。

集いを司会したのは地元・川越の女性だったが、次のように語った――「外国」のものを楽しげに受け入れる、江戸以来の伝統が川越の町には根づき、1923年の関東大震災の時にも、朝鮮人虐殺が行なわれた他の関東各地と違って、川越にいた朝鮮人18人と中国人2人は町民と警察に保護されて無事だった、と。翌日のパレードには20以上の団体が、さまざまな衣装・言語・歌・踊り・パフォーマンスで参加し、その多様性は十分に楽しめるものだった。

思うに、映画・演劇・音楽・美術などの文化分野では、国境を超えた共同作業がごく自然なこととして行われて始めて、久しい。朝鮮通信使を媒介にした日韓および日本国内の草の根の交流も、その確かなひとつだろう。

中央の極右政権が行っている排外主義的ナショナリズムに純化した外交路線を批判しつつ、それと対極にある各地の理論と行動に注目したい。もちろん、自分自身がその実践者でもあり続けたい。(12月6日記)