木村愛二の生活と意見 2000年10月 から分離

『噂の真相』襲撃に本多勝一が老醜のペンクラブ意見書で拙稿出版を決意

2000.10.8.(日)(2019.6.13分離)

『噂の真相』(2000.11)「日本ペンクラブ『声明』に噛みついた本多勝一の呆れた“イチャモン精神”/本誌と決裂後も相も変わらぬ卑劣な独善体質は健在だった!!」を読む。これにて、ようやく、懸案の仮題、『“朝日”本多勝一“噂の真相”体験記/記事捏造から経歴詐称までの常習犯が花形記者だった!!』を出版する決意が固まった。

すでに「復讐するは我にあり」と宣言してはいたが

 上記の『噂の真相』記事を思いっきり要約すると、本多勝一は、『噂の真相』への右翼の襲撃を批判した日本ペンクラブの『声明』に対して、「『ウワシン』は悪質なテロ雑誌」とする「意見書」を提出したのである。『噂の真相』記事の最後の締めは、「ホンカツの老害恐るべし、という他はない」となっているが、私は、「老害」よりも「老醜」、「恐るべし」よりも「哀れむべし」の方が、適切だと思う。上記の『噂の真相』記事には、すでに私が、同誌への投稿で記した「カンボジア・ポルポト派虐殺」の自己記事改竄問題が再録されている。この本多勝一の自己記事改竄問題は、本多勝一ファンが始めたインターネット以前のパソコン・ネットによって、世に出たものだった。実に醜い行為である。

 私は、その自己記事改竄問題を知る以前、すでに3年半前の1997.3.25.発行の『歴史見直しジャーナル』で、本多勝一の行為を「とりわけ醜かった」と表現していた。本多勝一が、初代編集著の和多田進を追い出して社長と編集長を兼ねていた時期の『週刊金曜日』の誹謗中傷記事に関して、私は、カンカンに怒り、名誉毀損の損害賠償の訴訟を起こしたのだが、その際にも、まさか、「罪を憎んで人を憎まず」などとは気取らないものの、本多勝一を「哀れむ」と言明した。しかし、実に実に、哀れな言論詐欺師でしかないのだが、元『朝日新聞記者』の垂れ流す言論公害を、そのままま放置して置くことはできなかったのである。問題の根本は「朝日エセ紳士」にもあるのだ。

 その後、上記のように本多勝一は、『噂の真相』と「決裂」の関係になった。事実は、個人名コラム追放である。『週刊金曜日』の読者会で質問を受けた本多勝一は、『噂の真相』編集長の岡留安則を「ゴロツキ」と呼び、「いずれ復讐する」と語った。その情報を私は、メールで受け取り、『噂の真相』にファックスで送ったところ、『噂の真相』の得意の一行情報に載った。私は、その時、「復讐するは我にあり」という名文句を思い出したのだが、その出典は旧約聖書のはずなので、その前後の文脈を確かめようと考えたまま、忘れていた。

2019.8.5追記:『新約聖書ローマ人への手紙・第12章第19節』。本来の意味は、《愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。》(日本聖書協会
《 19 愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。》(大正改訳聖書 Romans 12

ナレアイを排する決意も実行は難しいのだが

「本多勝一“噂の真相”」に関して、『噂の真相』編集長の岡留安則からブランド使用許可を得ている経過については、すでに、何度か記した。それでいて、出版作業への実行の気合いが入らないのは、個人相手の喧嘩の水準と見られるのが不愉快だからでもあるのだが、その問題についても、私が本多勝一と決裂する以前に、以下のように記していた。


『電波メディアの神話』

(緑風出版、1994.7.18, p.136-137)

周知だった「ナレアイ性」マスコミ研究の弊害

[中略]

 マスコミまたはメディア関係の世界は、意外にせまく、ナレアイ的風潮をそだてやすいのである。近代的なようにみえるがやはり、議論をきらう村社会ニッポンの風土を逃れられないのだ。のちにのべるように私自身が十数年前にペンネームで、この種の「マスコミ研究者」の一人の見解にたいして批判的な文章を書いたことがある。その際、執筆者が私だということを知った別の「マスコミ研究者」から、「味方にすべき人だから、批判して敵においやってはいけない」という趣旨の忠告をうけて唖然としたものである。私はそれまで、世間一般の常識にしたがい、うすらぼんやりと、学者というものは理論をきわめるために厳しい論争をするものだと思いこんでいた。批判すると敵においやるというのなら、その相手が右であろうと左であろうと、隣の人をおいやらないため、そのまた隣の人、そのまた隣、そのまた隣と、とどのつまりは一番はしっこまでつづいて、金魚の糞のような無批判の連鎖ができあがってしまうではないか。それでは厳密な学問などができるわけがない。


 これも要するに、夏目漱石の名文句、以下、現代語訳で、「とかく、この世は住みにくい。知に働けば角が立つ。情に竿させば流される」である。この曖昧模糊の典型の「マスコミ業界」の商売人の弱みを百も承知の悪餓鬼が、本多勝一なのである。

「ジャーナリズムの再生」まで語らせる朝日新聞「閥」に唖然

 そこで、またまた敵が増えるのを覚悟の上で批判すると、私は、1993年以来、すでに7年間、カンプチアPKO出兵反対で現地取材したヴィデオ『軍隊の影に利権あり』の上映会で知り合った若者を通じて、市民運動組織の「アジア記者クラブ」と付き合ってきた。その初代代表だった菅原秀を日本ジャーナリスト会議に入れたのも私だった。

 ところが、その初代代表の菅原秀の預かり知らぬところで、新しい代表に朝日新聞外信部の記者、伊藤千尋が就任した。伊藤は民衆のメディア連絡会の年末例会のパネラーになった時、本多勝一がヴェトナムで捏造記事を書いた件で会場の参加者から質問を受けて、烈火のごとく怒った。「戦場の危険に身を晒した記者に対して東京で安楽に暮らしていた者が何を言うか」という主旨の怒り方であった。これは論ずるまでもなく、論理的に矛盾した怒り方である。質問の主旨は、「戦場の危険に身を晒した」振りをして「捏造記事を書いた」と言う批判なのだからである。伊藤の正体は、やはり、朝日新聞記者でしかないのである。いや、朝日新聞「閥」である。罰点を付けるしかない。

 その伊藤の最近の仕事が、「ジャーナリズムの再生」を語る「アジア記者クラブ」の例会に、本多勝一をパネラーに迎えることだった。私は、早速、菅原秀に電話をして、事情を確かめた。菅原も非常に不機嫌で、出席しないと言った。この事件もまた、私の上記、「拙稿出版を決意」の新しい要因となっている。

 ああ、いやだ、いやだ。筆が汚れる。しかし、言論公害を防止するためには、水に落ちた犬を打つ必要もあるのだ。