木村愛二の生活と意見 2000年6月 から分離

「失敗」をデータベース化して分析する科学技術庁の方針

2000.6.7(水)(2019.6.7分離)

 ああ、またもや、体制側に遅れを取ったかと膝を叩いて慨嘆、となり掛けたが、すぐにこの衝動は消え失せた。この「慨嘆」癖は、長年の習慣が抜け切れない反射神経のなせる業、いわば組み込みの自動的発動ソフトによる動作なのであって、この熟練ソフトを完全に消去し切るのは難しいだろう。だから、それも「良し」とする。衝動が消え失せたのは、理性的と称される新皮質の部分に形成された「虚心坦懐」判断ソフトの業であろう。最近の私は、体制だの反体制だのと、肩肘張るのは止めることにしているである。

「あの科学技術庁」奴が洒落たことをしやがって

 ああ、と感じた記事は、「『失敗をデータベース化』/科技庁、来年度から/技術開発など再発防止」(『日本経済新聞』2000.6.6.夕刊)である。私は、昨年の東海村臨界事故以来、大型ロケットH2の打ち上げ失敗に引き続き、この春の杉花粉症問題でも研究予算の主管官庁としての責任を問い、「あの科学技術庁」の悪口を散々に書き続けてきた。その、「あの科学技術庁」が、「長官の私的諮問機関」「21世紀の科学技術に関する懇談会」の報告に基づいて、「『失敗学』として体系づける研究会を組織する」というのだ。

 長官こと、中曽根弘文は、私の表現では「あのアメリカごますり『女衒』(ぜげん。女を遊女に売る周旋を職業とした者)」の息子なのではあるが、親は親、子は子なのだから、暫く様子を見ることにしよう。いずれにしても、読売新聞グループの独裁者、元A級戦犯、元警視庁特高課長、正力松太郎(拙著『読売新聞・歴史検証』参照)が、アメリカの意を受けて核兵器製造の隠れ蓑として創設した原子力委員会、のちに改名、科学技術庁が、生き残る手段は、これしかないのかもしれない。

野球やサッカーにも劣る自称平和主義組織への慨嘆

「慨嘆」し掛かった理由は他でもない。きたる6.15.には、新宿歌舞伎町の激論酒場、ロフトプラスワンにて、1960年安保闘争40周年記念の「告白」をする予定なのだが、ここでも、やはり、いわゆる「安保反対!」「アンポ・ハンタイ!」の掛け声ばかりが勇ましかった日本の自称平和主義「組織」、自称平和主義「者」を、ことごとく敵に回す覚悟で臨むことにしているのである。

 詳しく論ずる必要もない。野球やサッカーと比較すれば、実に簡単なことなのである。失敗の総括なしには、つぎの試合の勝利は不可能なのである。簡単なルールがあって、観客が、そのルールだけでなく選手の力量も熟知しているスポーツの場合には、負けたチームの監督はボロクソが当然なのだ。

 ところが、ほんのちょとしか複雑ではないのに、政治の世界となると、グチャラグチャラの弁解が、平気で罷り通る。改選の議席数で勝負が決まる面もあるが、万年野党の自称平和主義「組織」となると、数で負けるのは当然、悪いのは体制側、と居直り、決して「『失敗をデータベース化』しようなどとはしない。それどころか、「失敗」の責任を追及する反対派を、あらゆる手段で追い落としたりまでするのである。

「お山の大将、われ一人」と歌われる遊びを、最近の子供は知らない。遊び道具のなかった戦後の一時期、空き地に土を盛り上げて小山を作り、日が暮れるまで、突き落としごっこをしたものである。あの遊びは、実に、実に、本能に深く根差す遊戯だったのだ。