『20世紀末デカメロン』序章 2

2の丸:現代の「聖職者」マスコミ業者の実態

1998.4.28

シオニストに無知なマスコミ業界

 近年ますます、マスメディアの影響が圧倒的に強まっているから、マスコミ業界の商売人の予備知識の水準、または教養の程度が、世論形成に大きな影響力を持つ。だから、恐ろしいのである。

 私自身、『マルコポーロ』廃刊事件に連座し、『アウシュヴィッツの争点』を発表した。その間、多くのマスコミ業界の友人知人と、時には感情的な対立関係を生ずるほどの激論を交わし、色々な新しい角度からの人間研究の実体験を得た。

 この問題で感情的になる最大の原因を単純化すると、「被害者」であるユダヤ人に、なぜこんな疑いを掛けるのか、という気分に要約できるようだ。ところが、ユダヤ人の内部にも、まったく相反する立場の人々がいる。日本人にも右から左、保守と革新、そして最大多数の時流迎合型中間派、などがいるのと同じなのである。

 私は、日本のいわゆる反主流よりも、ユダヤ人、またはイスラエル人の反主流の方が、質量ともに強力なのではないだろうかと思い始めている。この人達が主流になる時、はじめてパレスチナ問題にも、ユダヤ人問題にも、真の解決方向が示されるのではないだろうか。

 在日経験の長いアラブ人記者とも、この問題について話し合う機会があったが、彼は、この問題を良く知っていた。彼と私との一致した見解は、つぎの一言に尽きる。 

 「日本人はシオニストのことをまるで知らない」

 シオニスト、またはシオニズムに関する日本の文化人の平均的知識を考えるために、平凡社発行『世界大百科事典』の解説を読んでみると、見事なまでに宗教的な綺麗ごとに終始している。本書で論証されているような国家主義、植民主義、ましてや暴力主義などの問題点は、うかがうべくもない。これではアンチョコ豆辞典型の平均的文化人、またはマスコミ業界人たちが、真っ逆様の理解に陥るのは無理もない。

 『マルコポーロ』廃刊事件の際には、「国際世論を無視」などという怒号が飛び交ったが、アラブ語を話す約1億5千万人、イスラム教徒の約6億人、その他の第3世界の巨大な人口を忘れた「国際世論」の思い込みは、これまた、日本のマスコミ業界の宿痾ではないのだろうか。

 拙著『アウシュヴィッツの争点』でもすでに指摘したことだが、パレスチナ分割に関しては、冷戦時代にも、アメリカとソ連の意見が一致していた。パレスチナ人は、冷戦構造の「はざまの存在」だった。「世界の孤児」とも呼ばれていた。しかも、「ガス室」問題ともなれば、さらに、その奥深く潜んでいた連合国(国連の正しい訳)の創世期ばかりか、今の今、複雑に進行中の最大の恥部である。この問題は、ことほど左様に、実証を抜きにした感情的な議論が高まり易い問題をはらんでいる。しかも、大手メディア報道が、それを数倍に増幅しているのである。

多数意見に同調する強烈かつ必須の本能

 マスコミ業界と言えば、もう一つ、これまでの論争で、非常に興味深い現象を観察できたのだが、それは、良く言われる「マスコミ人が一番マスコまれている」という市民からの批判に、ピッタリ一致する現象であった。

 私は、「ガス室はなかった」という趣旨の記事掲載で問題となった『マルコポーロ』(95・2)よりも5か月前の『噂の真相』(94・9)に、「ガス室」に関しては、ほぼ同趣旨の記事を書いていた。

 しかも、私は、湾岸戦争以来、『フリージャーナル』と題するB4判の、手作り個人新聞を出していた。その内の24号(94.7.23)では、この『噂の真相』記事の前宣伝をも兼ねていた。1面の大見出しは、「ホロコーストは『なかった?!』で揺れる欧米歴史学界」となっていた。この号は、日本ジャーナリスト会議(JCJ)が例年、敗戦記念日に主催する8.15集会でも、参加者全員に配布した。これらに対しては、JCJの会員たちからも、「本当?」ぐらいの軽い挨拶しかなかったのである。疑わしそうな顔をする者もいたが、トゲトゲしい顔は、まるで見掛けなかった。おそらく誰しもが、直接の利害関係を持たず、反論材料の用意もなかったのであろう。

 ところが、『マルコポーロ』廃刊事件が起きて、大手メディアが一斉にバッシング報道を始めるや否や、様相が一変した。折りから発行直前の状態になっていた拙著に対しては、まるで何も調べずに「忠告」という形で、出版を断念しろという声が、むしろ仲間内から高まったのである。

 念のために確かめると、別に誰も、新しい反論材料を得てはいなかった。しかし、「これが世論」だと言うのである。これには呆れてしまった。もちろん、ごく少数ながら理解し、励ましてくれる仲間もいたが、こんなところが日本の文化人の掛け値なしの水準なのであろう。

 この現象と見事に照応する自然科学の記事も現われた。『現代』(97.2)所収「大特集・ここまで分かった『脳』の不思議」の内の一つ、「『三つ子の魂』の神経物理学」である。執筆者の田中繁の肩書きは、その専門的で先端的な仕事の性格を反映してか非常に長い。「理化学研究所国際フロンティア研究システム脳回路モデル研究チーム・チームリーダー」である。参考になったのは、脳には情報の「自己組織性」があるという考え方なのだが、田中は、これが「社会現象においてもしばしば見られる」と説明し、こう続ける。

 「人間は自分の所属する集団の多数意見に同調しようとする性質があるため、特定の意見が自己増殖的に肥大化して行くことがある」

 いわゆる「付和雷同」の性質であるが、私の考えでは、人間どころか哺乳類以前に形成された強烈かつ必須の本能である。小はイワシから大はマグロまでの魚が必ず群れをなすように、海中における生物進化の過程で獲得した知性以前の基幹的な状況対応能力に相違ない。

 ジャーナリストとか、文化人とか称するマスコミ業界の商売人のほとんどは、しきりと「知性」を誇示するのだが、実は、それ以前に、この「性質」が人並み以上に発達し、機敏に「多数意見」に「同調」し、それをいかにも自分が推敲を重ねた意見であるかのように吹聴し、巧みに集団の中心周辺に潜り込む訓練を重ねた個体生物なのである。反体制の場合でも、基本的な実情は変わらない。反体制とか「市民派」の場合には、「同調」する対象が、反体制とか、環境保護派の市民の方の「多数意見」に変わるだけの相違である。

 もちろん、マスコミ業界の商売人といえども、頭を使っていることは確かである。しかし、以上のような「情報収集」による「多数意見」への「同調」行為と、「考える」とか、「思考する」とかいう言葉とは、厳密に区別するか、または、「自立した思考」などと明記して、特別に定義する必要がある。真に「自立した思考」とは、既成概念や多数意見の「すべてを疑う」ことから出発するものでなければならないのである。そこからひるがえって見直すと、マスコミ業界やアカデミー業界のほとんどの商売人たちは、真に「自立した思考」とは真反対の頭の使い方をしていることになる。

 明治時代に好評を博した『学生訓』(大町桂月、博文堂、1901)では、この種の人々を「器械的人間」と呼んで批判している(日経98.4.16「書林探訪」)そうだが、戦後にも「テープレコーダー」という蔑称が流行った。私は今、マッキントッシュしてるので、もっと高い技術的評価を与え、「高性能コピー・編集・自動反応器械」と呼ぶことにした。器械としては実に優秀なのだが、独自の懐疑的思考の習慣を持たない人々なのである。


3の丸:電波メディア「学界」批判

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