『NHK腐蝕研究』(6)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

終章 《受信者》から《送信者》への
コペルニクス的転回を!

 われわれが求める「放送制度」なり、それを実現するための「理論」なりを考えるとき、最も重要なのは「現実」の発展であり、そこに基礎を置いた「先見性」である。外国の制度に参考を求めるのなら、それは全面的にやらなければならないし、とくに、最も先進的な例を学びたいものである。自然科学でも社会科学でも、そうでなくては現実の役に立たないのである。いちばんわかりやすいのは軍事科学で、負ければおしまいである。

 またその際、研究というものは、現実の運動より遅れていてはならない。

 たとえば民放労働者の組織である日本民間放送労働組合連合会(民放労連)は、一九七〇年に『放送改革試案――放送民主化闘争のために』を発表したが、そこでは、NHKに関する問題と放送制度全体にかかわる問題について、つぎのように書かれている。

 「この『改革案』では、日本全体の放送の民主的改革につけ加えて、民放独自の問題も入っていますが、このほかにNHKのみに適用されるべき問題については、ここでは検討されていません。その意味で日放労(NHKの労組)との十分な意見交換と協議が必要です。また、行政的改革をともなうものである以上、電波行政を担当している郵政省電波監理局に働く仲間(全電波)との協議も必要であることを付記します」

 つまり、労働組合運動だけにゆだねるかぎり、それぞれの組合の機関討議だけでなく、上部団体を通して、放送労協(民放とNHK)、電波三者共闘(民放とNHKと電波監理局)という組織にまで進まなければ、運動どころか方針も発表できないのである。労働組合運動というものは、ほかの産業分野でも同じことだが、産業政策の上では、大変に重要な位置を占めている。しかし、労働組合の機能自体には一定の限界があるし、ましてや、上部団体のちがいをのりこえた共同闘争となると、非常な苦労をしなければならないものである。その上、当局や企業は、政策遂行上の邪魔になるような労働組合の活動には、つねに眼を光らせ、規制、排除、弾圧などの手段に訴えてくる。

 だから、マスコミ共闘の傘下組合が、全体として姿勢が良いからといって、マスコミの現状分析、さらには先見的な理論構築に際して、労働組合の調査だけにたよったり、労働組合の運動に歩調を合わせたりしていては、かえって誤りを犯すであろう。それだけではなく、先行してしかるべき「理論」が、現実の運動にぶらさがることになり、労働組合の活動を最先端に突き出してしまう。結果として、労働組合尊重どころか、労働組合に過大な負担をかけることになりかねない。

 やはり、「理論」は、現実に立ちつつも,運動に先がけるべきであり、こと電波、ラジオ・テレビともなれば、決定的に住民(外国人も含む視聴者)の立場で考えなければならないのである。

 では、いま一度問う。電波に関する「住民の権利」とは、本来どうあるべきなのだろうか。

 NHKの受信料制度、もしくは受信料によって成り立つNHKという巨大機構は、戦前の公共独占放送、つまりは基本的に一局のみのラジオ放送時代の産物であった。その出発点では、ラジオ受信機を持っていれば、NHKラジオを聞く以外にないのだから、強制的に受信料ないし契約料を取られるという関係にあった。この関係をウラがえせば、話は、NHK(当初は三法人)が電波を独占使用したことにもどる。問題は、やはり、電波の使用権にさかのぼるのである。

 それならば、いまNHKが使用している電波を、みんなが共同で使用できるようにすれば、論理的にはスッキリする。たとえば、国民もしくは外国人も含めた視聴者または住民の十%の支持をえた団体は、放送時間の十%を使用するといったやり方である。これに近い制度は、すでにふれたように、オランダやイタリアなどで実施されている。実現可能なのである。

 そこでは、共同で電波を使用する。つまり、住民全体が送り手であり受け手であるという関係に近づいている。そして、この際、受信料という理屈のつけにくい分担金制度をも、発想のコペルニクス的転回(地動説から天動説へ)によって、使用料ないしは送信料にあらためるべきである。

 放送団体のつくり方には、地方別なり職業別なり、思想別なり、いろいろな結合の仕方があるだろう。

 電波の主権者としての要求という考え方からすれば、当然、民放も対象となる。しかし、当面は、ウィークポイントの明らかなNHKに焦点を合わせることだ。そのウィークポイントとは、国民の大多数が知っており、かなりの住民が実践している「受信料不払い」問題にある。だが、この「不払い」という行動は、明らかにネガティブな行動であって、組織も「視聴者会議」というように「受け手側」の立場を表明するものであった。

 放送労働者の側も、これまでは、「視聴者と結びつく」ことを考えていた。そこには、自分たちだけが「送り手」でありつづけようとするような、基本姿勢の弱さがあった。

 しかし、時代は変ったのである。いまや、放送衛星時代。地上の技術面でも、家庭用のテレビカメラ、ビデオテープさえ出現した。テレビカメラが8ミリほどの大きさになろうともしている。

 また、電波の限界を利用する「神話」も、成立しにくくなった。すでに、いまの技術と制度の下でも、UHFテレビ局は、二十六局も同一地域で開設できる。その上、SHFという電波も使えるようになった。技術的には、光さえ電波と同じ使い方ができるという光通信時代を迎えようともしているのである。

 また、こちらはラジオ向きの技術のようだが、同じ周波数帯のなかでも、「スペクトル拡散方式」という利用法によれば、無限に近い信号が送れる。同じ周波数の電波の中に符号を埋めて、その符号のはいった電波だけを取り出すという方式である。一メガヘルツ帯から四十チャンネルの無線通信がとれるところを、理論的には約九万チャンネル、実用としても数千チャンネルが可能になっているというのだから、未来通信は「個人用チャンネル」という話もできるようになっている。有線ならば、また、同軸ケーブルとかレーザー光線の利用とか、光ファイバーとかでチャンネル数がふえ、相互通信の可能性も画期的に開けつつある。

 そんなわけで、伊藤正己らの放送通信制度研究会のシンポジウムは、事実の発展の前に、最後には、つぎのような困惑の告白をもって終了しているのである。

 「大森 電波の独占性とか寡占性、希少性というのが、いつまで言えるのかという本質的な疑問があります。いつまでも、そこをよりどころにしていると、ぐあいが悪いような時期が、もう来つつあるような気がしております。……(略)……SHFが本放送にならない保証は全くないわけです。そうなりますと、独占性とか寡占性というのが難しくなる。そうすると免許は、いよいよ事業免許でなければならないという議論になるのか。その辺を考えあぐねてしまいますね。

 伊藤 いろいろご意見を伺いましたが、私たちの共同討議を、これで閉じることにしたいと思います」(『放送制度――その現状と展望』三巻)

 つまり、「電波の希少性」という「神語」をよりどころに、電波によるコミュニケーションを国家が独占する、もしくは国家が監督するタテマエをとって、実際には独占資本に売り渡すという方式は、もはや、手品としても通用しなくなったのである。

 だが、大森がほのめかした「事業免許」とは何であろうか。これはすでに、一九六四(昭和三十九)年の法改正の動きのときにも出され、問題となっていたものである。最近の郵政省高級官僚の発言のなかにも、「事業免許制ではないから」といって、労使関係に立ちいれない、という責任のがれの部分がある。逆にいえば、事業免許制によって、言論の自由へのしめつけを強化されては、また同じことになってしまう。これも用心しなくてはならない。

 伊藤正己については、すでに『テレビ腐蝕検証』の批判がある。伊藤は『言論・出版の自由』(一九五九年刊)で学界での地位を確立。東大法学部長、最高裁判事という略歴のエリートだ。『テレビ腐蝕検証』では、その伊藤の理論を、「ビラまきの権利ぐらいはシブシブ許容するけれども、テレビの免許はガッチリ押える。そして『大衆』は未来永劫『受け手』で我慢しろということ」と、特徴づけている。かなり手厳しいが、御本人も最近の著書の前書きで、そのあたりの批判を気にしながら、「私の強調するようないささか古典的な言論の自由の理解を越えて考える必要が生じている」(『現代社会と言論の自由』一九七四年刊)と、いわざるをえなくなっていた。

 だが、最高裁判事伊藤正己の初仕事は、「古典的」以上のものであった。

 昨年十二月二十三日、いわゆる「全逓プラカード事件」について、最高裁は、第一審、第二審をともにくつがえし、当局による「戒告処分」の有効性を認めた。一九六六年のメーデーに、「佐藤内閣打倒」などと書いた横断幕をかかげて行進したことが、公務員の政治活動禁止に当たるか否か、そして同時に、国家公務員法や人事院規則の政治活動禁止条項が違憲か否か、という二重の争点があった。

 これについて、最高裁第三小法廷の環裁判長は、違憲問題を避けてのハト派「少数意見」。つまり、国家公務員法等は合憲だが、「横断幕」は政治活動に当たらずとした。ところが、伊藤、寺内の両名は,合憲・政治活動のモロ差しタカ派「多数意見」で、判決を方向づけた。『朝日』(12・26夕刊)の「今日の問題欄」では、これを「二枚舌」と評したが、それ程の反動判決である。これが、もうひとつの「体制」のつっかえ棒、名付けるならばマスコミ法学エリートの、晩年の醜態である。

 伊藤は、戦時中の優等生で、英米法の研究が「敵国法制の研究」に当たるとして徴兵免除。戦後いち早く米国留学の機会に恵まれ、『言論・出版の自由』なる大論文をものした。一九六一年の『中央公論』嶋中事件に際しては、『世界』四月号の特集「言論の自由と民主主義」の共同執筆者の一人となっている。だが、その時は、先輩の大御所、宮沢俊義も一緒だったし、どだい、話は右翼暴力団の殺傷事件の是否である。反対するのが当たり前だ。本当の試金石は、「思想信条の自由」と「企業の解雇権」が争われた「三菱樹脂・高野事件」であった。この時、東大法学部OB閥の御大、我妻栄と宮沢俊義が、ともに右に転んで、三菱側に立つ「意見書」を提出した。この両大先輩は、さらに顔をきかしてみせるべく、伊藤を仲間に入れようとした。対抗上、高野側も伊藤に働きかけた。そして、伊藤は、どちらにも動かなかったのである。

 これは「中立」であろうか。とんでもない。現に高野達男は会社と和解協定を結び、職場復帰を果たしているのだ。だから、伊藤の取った態度は、学閥の老醜をさらした我妻・宮沢と同じく、曲学阿世、弱者見殺しのエセ学問の標本であった。現実に遅れることはなはだしく、「古典的」どころか「反動」に堕していたのだ。そして不幸にも、最高裁で、その馬脚が「実践的」に露われたのである。

 いずれにしても、もはや、支配階級のコロモの下からのぞくヨロイを、何かといっては、おおいかくすために努めてきたような人々に、「放送制度」を考えさせておく時代ではない。

 そして一方、これだけ大量に伝達でき、速報性のあるコミュニケ-ション手段が実用化されてしまった以上、秘密主義政治も、そう長くはつづかない。ロッキードやKDDの事件報道は、その一端である。もはや、この方向にブレーキをかけることも、至難の技となりつつあるのである。

 のこる問題は、こういった経済的・技術的土台の発展の上に立って、新しい放送制度、ひいては革命的な社会秩序を建設する「主体的力量」を、どこに求めればよいか、ということだけである。

 折しも、郵政省が再び、来年の通常国会に向けて放送法一部改正の動きをみせている、という情報が流れてきた。(1)NHK受信料の支払い義務化、(2)文字多重放送の社外利用の法定化、(3)NHKの出資規制の緩和、(4)民放の外資制限の緩和、この四点が中心だという。

 レーガン戦略等々の時流に対抗して、早急な議論と行動の提起が待たれるところである。


(7)あとがき