『NHK腐蝕研究』(1-1)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2003.10.20

第一章 なぜNHKは《国営》ではないのか?

“闇将軍”か“自己規制”か

 さる二月六日、金曜日の夕刻のことである。早朝から新聞に眼を通す暇もなく、追い立てられた週末の一日だった。たまたま新宿駅で、中央線から山手線に乗り換えるため、ぼんやりとホームに立っていた。疲れて活字を読む気もしないのだが、つい癖で、キオスクの下段に視線を走らす。

 デカデカと大見出しの、押しつけがましいスポーツ紙の群れ。赤だ青だと、二色刷りから、カラー写真入りまであるのだから、けたたましい限りだ。

 ところが、その間にはさまって、何と……、

 「三木元首相消される」

 これが朱の地にドーンと白抜き。ひときわ大きく目立っていた。

 一瞬、本当に殺されたかと思い。ギョッとしたが、それも新聞編集者の手にはまってのこと。横見出しには、こうあった。

 「NHKに闇の力」「ロ事件五周年特別番組」

 「『事件は風化せず、疑惑は解明』の談話はなぜか全面カットされていた」

 スポーツ紙と一緒の段になっていたが、『内外タイムス』二月七日号である。早速に買い求めて山手線に飛び乗り、疲れも忘れて読み進んだ。電車はほどほどの混み方。普通版の『内外タイムス』が一面の三分の二以上、広告を除いてほとんど全部を使った記事を、両手でひろげて読む。そのわたしの隣からは、五十代と見える実直そうな男性が乗り出すようにのぞきこむ。

 大事件発生! の気配である。ただし、一枚めくればポルノ紙のこと、いささかチグハグではある。まわりはスポーツ紙や『日刊ゲンダイ』、『夕刊フジ』、その他一般紙の読者に囲まれている。筆者と、のぞき見氏の二人だけが、エアーポケットにでも落ち込んだかのような、異様な感じだ。だが、『内外』だけのスクープでもあろうかと思いきや、「松浦総三氏(評論家)の話『けさ新聞をみて、これは“田中だな”と直感的に思いました』……」とある。つまり、いずれかの朝刊既報記事を『内外』が後追いしたのである。ふくらまし方も週刊誌風だが、なかなかやるじゃないか、と思った。

 さて、本書は、そのまた後追いの後追いとなる。だから、いい加減食傷ぎみの読者も多いことと思う。だが、わたしは、この事件をNHKをめぐる内外の現状の象徴だと考える。その意味で、事件報道そのものも含めて、若干の掘り下げをしてみたい。そして、その作業を通じて、NHKの腐蝕構造に迫る糸口を求めたいのである。

 まず最初に、もっとも手厳しく、NHKの本質を突いていると思われる文章を紹介しておこう。『朝日新聞』が、なぜこの文章を「論壇」とか写真入りの特集で扱わなかったかも、問われるところだが、五日後の「声」(投書)欄に、中村武志(作家七十二歳)のベタ三十三行、「ロ事件報道特集の自主規制なぜ」という一段見出しの文章が載せられていた。その一部にこうある。

「それよりも、NHKの報道局側が『圧力うんぬんなどということはない』と弁解しているこの言葉の方が、重大問題をはらんでいると私は考える。権力側から、何らかの圧力がかかって負けたのならぱ、ダラシがないとして済まされるが、もし報道局長が、マスコミ人としての自らの良識と勇気と、野党精神とを失い、権力側におもねって遠慮し、自主規制によってカットしたのならば、これは、おそるべき事態である」(『朝日新聞』’81・2・11)

 わたしは、“田中だな”と直感した評論家の松浦総三も、「自主規制」に「おそるべき事態」を見る作家の中村武志も、ともに正しいと考える。この場合の「正しさ」とは、相対的なものであり、歴史に裏打ちされた“真実”なのである。いわゆる“事実”関係などは、決して明らかにならないと覚悟しておくべきだ。あの“目白の闇将軍”とやらが、『原敬日記』のような記録を残してくれることなど、期待できるわけはない。しかも、万が一、何らかの手掛りが残されたとして、当座の役に立つわけもないのである。

 とくに自主規制のメカニズムは、すでに半世紀を越えるNHKの歴史を通じて、山あり谷ありの発達なり怪物化をとげてきたもの。単純な窃盗事件なみに検挙できる犯罪ではない。ここでは、日本のラジオの誕生期からの目撃者ともいうべき二人の大先輩が、今度の事件を重視し、間髪を入れぬ発言をしていることに、深く敬意を表したい。そしてまず、その貴重な歴史の証人の発言が、ごく限られた読者の眼にしかふれなかったであろうという、“現代マスコミ”的状況から、追求を開始したい。


(1-2)“スクープ”合戦の陥し穴