『NHK腐蝕研究』(4-5)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 NHK《神殿》偽りの歴史 5

シンフォニーとともに宿命の《鬼っ子》誕生

 すでに述べた経歴だけでも明らかなように、下村宏は、戦時ジャーナリズムの権化のような人物である。だが、読売新聞に乗り込んだ元警視庁警務部長の正力松太郎などと較べてみると、さらに独特の陰影が浮かび上がってくるのだ。

 下村宏(一八七五~一九五七)は、東京帝大政治科卒業後、大学講師、逓信省貯金局長を経て、台湾総督府民政長官となった。つまり、後藤新平東京放送局初代総裁とは、この地位でも先輩・後輩の関係にあった。

 ところが、朝日新聞の公史によると、以下のような奇縁により、大阪朝日(朝日の本拠地)入社となるのである。

 「大正九年六月のある日、『大阪朝日』の楼上で台湾総督府民政長官、法学博士下村宏(海南)の講演会が開かれた。『日本民族の将来』という演題の下に四時間にわたる長講を続け、深い識見と巧みな話術は聴衆をひきつけて時の移るのを覚えさせなかった。このとき下村は、社が贈った謝礼を固辞して『この講演が多少なりとも世人を稗益するものであれば、この謝金をもってパンフレットをつくり、希望者に配布されたい』と申出た。また下村の大阪での宿舎は質素極まるものであった。村山社長は、これらを多として間もなく入社話を始め、翌十年九月十二日正式に決定した。この月二十一日、村山の希望で欧米視察の途に上り、帰国とともに翌十一年五月、本社の専務取締役に就任、昭和五年には副社長に進み、社長を助けて本社の経営に当った」(『朝日新聞の九十年』)

 この時に、下村の配下に入ったのが、緒方竹虎と石井光次郎である。石井もNHK理事となるし、緒方が情報局総裁から内閣書記官長になった後を、下村が引き継ぐという関係になる。だが、それは後の話で、その前に下村とNHKの関係が出てくる。

 一九三一(昭和六)年九月十八日、関東軍の謀略による鉄道爆破事件を口実として、いわゆる満州事変が始まった。NHKは、ラジオ体操を中断して、開戦を遠報(もちろん事件内容を誤報)し、大阪では、翌十月四日から「時事解説」番組を始めた。その第一回の講師が、下村宏であった。

 大阪での「時事解説」と呼応して、東京中央放送局も、十月十七日から「時報講座」を始めた。もちろん、講演だけではなく、満州への出征兵士の出発状況から神社祈願の実状中継にいたるまで、「国民の戦意と国威高揚に協力した」(『五十年史』)のは、いうまでもないこと。いわゆる「肉弾三勇士」のラジオドラマや講談も、つぎつぎと放送された。三勇士の歌は、「子供の時間」にも流され、全国の児童愛唱歌となった。

 注目すべきことは、このような戦時放送によって、ラジオ受信器が飛ぶように売れ始め、NHKの収入激増、施設の拡大につながったことである、「兄んさは満州へいっただよ、鉄砲が涙で光ってた……」という事情の親族にとっては、「お国」に人質を取られたようなもの。肉親の安否を気づかっては、“国策”放送局の発表に耳をすます毎日となったのである。

 目玉放送は当然、かの「臨時二ュースを申し上げます!……」という背筋に戦慄を呼び起こす奴だが、このため、ラジオつけっぱなしの習慣が強要された。

 何ともうまい手を考え出したものだが、ごれには、やはり戦時号外で部数をのばしてきた新聞社から、“営業妨害”のクレームがついた。もちろん、いいまわしは上品で、「放送ニュースは新聞記事の所謂アッペタイザーとして放送するべきものにして、新聞並びに通信社と競争的立場において為さるべきものに非ずとの主旨」(『(五十年史』資料編)というのが、新聞側の「二十一日会幹事」からの申し入れの説明であった。

 話が下村宏から離れてしまったようだが、これにもわけがある。

 というのは、あの「臨時ニュースを……」申し上げているのは、たしかにNHKのアナウンサーなのだが、発信は国策通信社の同盟であった。NHKの出発点では、新聞社からの理事出向もあり、ニュースは新聞社が提供することになっていた。その原則が、同盟通信社の出現と一本化、強大化により、ドンドンくずされていったのである。しかも、同盟の設立には、NHKが資金面でも、受信保証でも、最大の支えとなっていた。いわば、新聞社側への歴史的裏切り、マスコミ界侵略行為が、なしくずしに始められていたのだ。

 だが、そのNHKと新聞社側の商売上の争いを、上手に取りまとめ、ナアナアの詰にしていったフィクサーは、一体だれだったのだろうか。もちろん、一個人にしぼることはできない。何人もの暗躍とか、出し抜き合いとか、脅しとか、料亭会談とか、計りしれぬ陰謀の数々が、張りめぐらされたことであろう。そして、その大日本帝国エリート集団の真っ只中に、大阪朝日新聞副社長からNHK会長、情報局総裁へと、華麗なる転身を遂げた下村が、確かにいたのである。

 さて、NHKの受信契約者数は、こうして、「満州事変の起こった六年度末近くになって一気に百万を越え、七年度にはさらに三十七万ふえて百四十万に達した」(『五十年史』)。全国放送網も拡充され、一九三四(昭和九)年には、中央放送審議会なるものがつくられるが、最初の十五人の委員の中に、下村の名が見える。一九三六年には、下村は広田弘毅内閣に請われて朝日新聞を退社するが、陸軍が“自由主義者”というお得意のレッテルをはりつけて、その入閣をつぶした。だが、下村は貴族院勅選議員という天皇制下の身分となり、一九四三(昭和十八)年には日本放送協会会長、翌年には情報局総裁と、ますます「日本民族の将来」(さきの講演題目)を決定する立場に迫った。

 その間、戦局はますます悪化、大本営発表の「臨時ニュース……」も途絶えがち。一九四五(昭和二十)年七月二十六日にはポツダム宣言、八月六日には広島、九日に長崎への原爆投下という事態を招いた。

 わたしもここで、「招いた」という点を強調する。ウソの放送と内務・警察官僚総動員による隣組制度で国民をしばりつけ、最後には「天皇制護持」の美名(醜名?)だけにしがみついた一部権力者の策動さえなければ、もっと早く庶民が待ち望んだ敗戦が訪れ、沖縄での大量民間人殺戮(人口の約三分の一減)も避けられたのである。海外での玉砕も、敗戦兵の栄養失調死も、中国東北部(満州)での、いまだにつづく親子生き別れの悲劇の数々も、かなりの程度まで軽減されていたはずなのだ。私事にわたるが、わたしは北京からの引揚げ者家族の一員であった。裸一貫でも、まだまだ恵まれた方といわねばならないが、それでもあの恨みは、真相を知れば知るほど増すばかり。一生忘れないだろう。そして、一生、戦争犯罪人の追及を続けるつもりだ。

 たとえば、いま問題にしているNHKも、その一つである。NHKの奥座敷にいたエリートたちは、明らかに戦争を煽ったのだ。そしていまも、敗戦を乗り越えて生き残り、再び巨大な超政府的権力を握っている。同じ敗戦国のドイツでは、すべての新聞、放送局の組織は解体された。現在も各州放送局の連合関係になっている。だが日本では、NHKと、そして天皇制とが、そのままの姿で生き残ったのである。

 なぜだろうか。それは、米ソ間の国際関係だけでは説明しきれない。国内の暗闘を含む問題でもある。


(4-6)NHKと天皇制官僚による“大東亜”最後の作戦