『NHK腐蝕研究』(4-2)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第四章 NHK《神殿》偽りの歴史 2

“富国強兵”から“東洋大放送局”への大風呂敷

 だが、当時の利権争奪戦は、最近の千葉県知事選並みの事件では、とうてい収まりがつかない性格のものだった。シーメンス・ビッカーズ事件の底流には、三井、三菱などの財閥による軍需獲得の暗闘がある。そして、以下に指摘されるような風潮が、被告岩原を、のちには社長にし、NHK会長にまで押し上げていったのである。

 「彼らのコミッションの流用のしかたが、将来の自分の地位保全のためにかけているか、私生活の濫費にもっぱらそそぎこむかの違いはあるが、そこには『公』と『私』とのけじめはみられない。いや『私』の利益をはかることが、国家利益につながっているという錯覚と、思いこみが常にはたらいている。三井物産の松尾鶴太郎が、コミッションはわたしがとらなくとも、外国の商社がとるのだから、『日本人である私がとった方が、国家のためからいっても利益』ではないかと、のべているその考えかたも、また同じである。三井物産の利益は、国家利益につながるという論理の組み立てになっていく。ビッカーズ事件の主役たちのこのような発想と、職を『けがし辱しめる』行動が、シーメンス問題にもからみついていき、さらに国境を越えて構造汚職をひろげつつあり、また、固定していったのではないか」(『疑獄一〇〇年史』)

 またこれも、NHKの公史が決して描こうとしないことだが、後藤新平総裁の野望は、すでにNHK発足以前から、アジア全域の侵略へと向けられていた。後藤は、初代の台湾民政長官、やはり初代の満鉄総裁という異様な経歴の持主であった。満州鉄道株式会社は、鉄道権益を云々しながら、実質的には満州の植民地支配の司令権を握っていたのである。

 こういう人物が、またも「総裁」の名を、しかもどうやら元警視庁警務部長、正力松太郎らの画策によって、獲得したのである。相手は「東京放送局」だが、やがては日本の言論支配の中心となるところ。のちには内閣情報局さえ同居し、大本営発表をするところである。たとえていえば、言論界侵略の橋頭堡もしくは新植民地の初代総裁が、またしても後藤新平だったのだ。

 そして、“大風呂敷”のアダ名を持つ後藤は、就任早々、“大東洋放送局”の計画まで、ぶち上げていたのである。

 「伯の総裁としての方針は、かくして著々と実現した。しかしここに最も重大なる事項にして、しかも遂に実施に至らず中止されたものがある。それは東洋大放送局の設置案であった。

 伯は東洋の文化を開発する目的を以て、満州及び北支を圏内とする大放送局を設置し、しかしてその創設費は勿論、年々の維持費は日本における放送事業の収益中よりこれを支弁すべしと主張したのである。何となれば、支那には未だ戸籍や寄留の制度が確立せず、他方国民性の関係上、到底日本の如く聴取料を徴収することは不可能である、さりとて受信機にこれを割付くる時は、機械を買う者がすくなくなるであろう、故にこれは無料で聴取せしめることとし、その費用は東洋の先進国たる日本国民が負担してやることにせねばならぬ、放送事業を公益法人としたことは、かくして初めてその意義を見るのである、内地の聴取者が増加して、放送経済に余剰を生じ、聴取料を軽減し得る時が至ったならば、その低減し得らるる差額をこの方面に振向くべしというのが伯の意見であって、いかにも伯らしい堂々たる立論であった。

 しかしこの意見は、その実現には相当の困難が伴うことを覚悟せねばならず、十分練り固める必要があるので、それぞれの機関において各方面と連絡を取り、これが具体的実行案を作成するということになり、伯も非常にその結果を期待していたのであった。然るに組織改正の機会において伯は総裁を辞したため、この大計画も遂に実現を見ずしてやむに至った」(『後藤新平伝』)

 たしかに、この後藤の計画は、そのまま実現はしなかった。しかし、のちのNHKマンは“果敢”にも、つぎつぎと“占領地放送局”を建設しつづけたのである。

 後藤は、一年後の三局統合、社団法人日本放送協会の設立と同時に、総裁を辞任した。「官選の総裁などは御免だよ」というのが、本人の弁と伝えられているが、「初代」にしか興味がなかったのかもしれない。

 ともかくラジオの発足は、普通選挙と治安維持法と一緒。そして以後の後藤新平の仕事は、「政治倫理化運動」と称する権力のイデオローグであった。しかも、伝記や著作によって、死後も永らく影響を残したのである。征矢野仁の要約は、こうなっている。

 「後藤は、明治型の閥族政治を改革する近代政治家となった。しかし、それは同時に、大日本帝国の海外侵略を推進する役割でもあった。政治的経歴も、台湾民政長官、満鉄総裁にはじまっている。

 数多い評伝のなかには、『新領土開拓と後藤新平』というのもあり、後藤は、海外侵略のイデオローグの役割をも果たしてきた。本人の講演による『日本植民政策一斑』とか『日本膨脹論』なる著作も、いくつかの版で出まわっており、大日本雄弁会講談社版の『日本膨脹論』については、別の著作『政治の倫理化』のうしろの広告欄に、「たちまち九版、徳富蘇峰激賞」などと書き立てられている。内容は、なんと、ヒットラーばりの、目本民族優秀論の先駆である」(『読売新聞・日本テレビグループ研究』

 戦前の放送人たちが、これらの後藤新平初代総裁の思想活動を、どれほど吸収したものであろうか。その告白を後世に残してもらいたいものである。これは何も、皮肉としていっているのではない。放送人なりジャーナリストなりの、いわゆる主体性の問題として、将来への歯止めのために、事実を論理的に積み重ねておかなくてはならないのだ。たとえば、戦前を知る中野好夫は、昨年の放送法改正や自民党内のNHK調査委員会の動きに際して、『毎日新聞』に一文を寄せたが、その中でもこう書いている。

 「およそ戦後のマスコミというのは、新聞といわず放送といわず、すべて戦中への猛反省から再出発した。強権とはいえ軍への奴隷に成り下がっていた醜状に対する猛省からである。NHKの前身、JOAKももとより例外でなかった。むしろ直接耳からの伝達だけに、戦争熱への煽りはJOAKが最大だったとさえいえる。東条はもとよりとしても、徳富蘇峰、奥村喜和男(情報局次長で狂人じみた人物)などがいわばその御三家だった。空無に消える電波の有り難さ、今日原資料の入手はほとんど不可能(NHK内には録音もあるのだろうが)、清沢冽の例の『暗黒日記』などが、これら御三家を痛烈に糾弾しているが、その内容はわずかに『まるで感情的叫喚(中略)家人でさえもラジオを切ったそうだ』といった式の抽象的憤激を並べるしかなかった。ただ筆者は前記奥村が昭和十八年に公刊した『尊皇攘夷の血戦』(旺文社)と題する一本を珍蔵している。収める講演二十九編、なんとそのうち十五編は明らかにJOAK、ないしはその中継によって全国に流されているのだ。一々の内容は枚数もないし、想像もつこうから省略するが、とにかくひどいものである」(『毎日新聞』’80・4・9夕刊「よしのずいから」)

 なお、この寄稿の一部は他の著述へも引用されているが、決して、「国営化反対」という短絡した字句がない点を注意しておきたい。「放送を国家権力から独立させる」ことを重視しているのであって、要約すれば、以下の文脈が強調されるべきであろう。

 「たしかにNHK再組織もまたこの猛省から出発したはず。そこで話は放送法成立の昭和二十五年にまで飛ぶが、わたしたち国民は受信料独占の特権にも、案外拘りなく了承したように思う。なんとか放送を国家権力から独立させるべく、言葉をかえていえば、再び戦前、戦中の過誤をくりかえさせぬよう、そのことだけで頭の中は一杯だった。そしてそれには聴視者全員の受信料によって支えるよりほか途なしというのが、当時の確信だったのだ。……(略)……

 が、時移り歳月流れてNHKの性格も変わった。……(略)……

 最後にとりあえず一言するが、この問題、いかに政界汚濁の大問題が山積しているからといって、決して小問題ではないはず。いささか不審に思うのは、今回の法改正について多少の反対論議、および運動は起こっているが、いま一つ物足りぬものがある」(同前)

 さらに要約すると、問題は、NHKの歴史的性格付けの変遷に帰着し、それをめぐる理解の不足が、「物足りぬ」原因なのではないだろうか。ともかくわたしは、そう受け止めた。


(4-3)《天皇の声》放送局の反革命的出発点