『NHK腐蝕研究』(3-2)

《あなたのNHK》の腐蝕体質を多角的に研究!
《受信料》強奪のまやかしの論理を斬る!

電網木村書店 Web無料公開 2003.12.1

第三章 NHK=マスコミ租界《相姦》の構図 2

ラジオ・テレビ記者会、東京放送記者会、電波記者会

 NHKには、記者クラブが三つもある。ラジオ・テレビ記者会(通称・第一記者クラブ、以下同じ)、東京放送記者会(第二)、電波記者会(第三)である。このうち、電波記者会は郵政省に部屋を持ち、NHK内で月二回の定例記者会見という慣行になっている。ついでに郵政省の記者クラブをあげると、この電波記者会以外に、NHKや大手紙十二社による郵政記者クラブと、KDDや電々公社なども含めた“郵政族”用社内報等の記者による飯倉クラブがある。飯倉というのは、郵政省が霞ヶ関に新庁舎を建てる以前の住所の町名。伝統を重んじての名称である。

 さて、NHKに部屋を確保した第一、第二記者クラブは、NHKだけではなく、民放も取材対象とし、共同の記者会見をNHK内でやる。民放の広報担当者が常々愚痴ることなのだが、NHK広報室にいわせれば、「民放ができる前からのことで……」と、そり身になっての御返事。記者の方も、ほかの記者クラブや日本式労働組合の書記局と同様で、“既得権”の部屋を手放す気は、さらさらない。そして、それを上手に操るのがNHKの広報マンの腕前である。

 かつてはサンケイの放送記者のキャップだった青木貞伸でさえ、フリーになってからのあしらいの悪さが身に泌み、「NHKの権威主義的な体質」を批判。こう事いている。

 「私の場合、ときどき海外にも収材に行くが、アメリカの場合なら、日本から来たフリーランスのコレスポンデントと名乗ることによって、ほとんどの官庁、企業の幹部が気軽にインタビューに応じてくれる。取材の難易度からいえば、日本人なのに日本の官庁のほうが難しいくらいである。

 ところが、フリーのジャーナリストの間では、官僚主義の象徴ともいうべき官庁よりもNHKのほうが取材しにくいというのが定評となっている。いわば、それほど『官僚化度』が進行しているわけだ。その原因は、NHKが権威主義そのものといったマスコミ対策を金科玉条としているからである。

 つまり、徹底した『差別』主義をとっているのである。東京・渋谷のNHKのなかには通称『第一記者クラブ』『第二記者クラブ』という日刊新聞の記者クラブがある。NHKは、この記者クラブを通じてマスコミと接触しているわけだが、第一記者クラブは、東京に本社を置く新聞社の記者が所属しており、その応対はAランク、第二記者クラブは、地方紙の記者で構成されているからBランクという具合いなのである。

 このほか、業界紙の記者クラブである『第三記者クラブ』が存在するが、これはCランクであり、また、週刊誌記者の場合、ほぼこれに準じ、フリーのジャーナリストはランク外で、相手にする必要はないというのが、基本的な考え方のようである。

 だから、週刊誌の記者やフリーのジャーナリストが取材に行くと、ノラリクラリと逃げの一手で、時には取材拒否をする。止むを得ず間接取材という方法を使って記事にすると、『取材して書いていない。取材すればいいのに……』とうそぶくのである。

 ジャーナリズム機関でありながら、ジャーナリズムを差別し、拒否する体質が根深く巣食っているのがNHKなのである。そうした体質を改めない限り、『国民の放送』というスローガンは画に描いた餅にしか過ぎない」(『マスコミ評論』’75・6)

 NHKの広報室に聞くと、六年後の今日も、この体制は変っていない。しかし、NHKの方で差別はしていないのだという。記者クラブが別れていたり、フリーランス(源義は“自由な槍”で、やとわれ槍騎兵)を記者会見に出席させないのも、記者側で定めた習慣だというのだ。

 それでは、NHKとしてフリーの取材者を差別しないかといえば、いかに言葉巧みにいい逃れても、記者会見には必ず出席する大物に、いちいち面会させるはずはない。「それはもちろん、都合がつかないこともございます」という。しかし、「一緒に記者会見できた方が簡単でいいと思わないか」と問えば、「その御返事は差し控えます」ときた。「新聞協会さんのお考えになることですから」というのだ。

 ほかの官庁についても同じことだが、いわば官費で、記者クラブの部屋を貸与してやり、記者会見の部屋も、要人の時間も使っているのだ。それに、NHKには「新聞記者のブンザイ」とわめいた広報室長さえいたこと。いちいち新間紀者のわがままを聞くというのも、理屈に合わない話だ。こちらの質問に対して、うまい返事をしたつもりかもしれないが、かえってNHK式のいやらしさが、プーンとにおってきた。

 それだけではない。話の途中で、こちらが事実を正碓にするために、「その記者会見にはフリーの人は出られないのですね」と聞いた時には、即座に、「それは当然でしょ」という権柄づくの切り返し。馬鹿なこと聞くなといわんばかりの態度だった。あまりくどくど書く気はないが、こういう小役人風の連中が、日本のジャーナリズムの情報パイプを、無自覚なままに握っているのだ。NHKの会長様が、将軍の大奥まわりよろしく、第一、第二、第三、そして番外の取材者に、お付きを従えての御会見。考えただけでも胸くその悪くなる風景だ。

 その上、取材もし、資料にも当たってみたことを、思うままに書けないとしたら、それはまた、一種の記者地獄。ヘビの生殺しという状態になる。

 典型的なのは、“残酷物語”のサンケイを飛び出した青木貞伸の場合だろう。松浦総三編の『現代マスコミ人物事典』でも、「テレビ批評をやりながら左派の節を通しているのは偉い」などと書かれる骨っぽい人物。しかも、生れも育ちも神田ときては、いずれ長居は無用の宿命だった。

 思ったことを記事に出来ない日々が続く。アルバイト原稿に本音をぶちまける二重生活。そして、フジ・サンケイ系列が政財界あげてのUHFテレビ電波獲得合戦の最中、小林郵政相が、全面UHF化(Uターンの通称)の方針をぶち上げた。放送担当キャップだった青木貞伸は、デスクの依頼で解説を執筆した。だが、……

 「部長とデスクが額を寄せ合って読んでいたゲラをひったくるようにして見た。読んでいるうちに顔の血がひいていくのが自分でもわかった。私の原稿は、まったく原型をとどめないまでにズタズタにされ、『Uターン』礼賛の解説になっていたのである。私は部長の前に詰め寄った。『いったい、これはどういうことですか』『まあ、まあ、キミの解説も筋は通っているが、社の方針で……。キミも責任者なんだからわかるだろう』とノラリクラリと逃げる。

 私は電波行政の現状について懸命になって説明し、『原稿を旧にもどして欲しい』と要求した。次第に声が大きくなる。他部の記者も集ってくる。部長は逃げの一手だ。時間は刻々と経過していく。降版のタイムリミットを待っているのである。とうとう時間切れで、そのまま翌日の新聞に出てしまった。

 私は、この社に、もういることができないと思った。翌日、辞表を書いて部長に提出した。そのころ、原稿料収入が月給の二倍近くにはなっていたが、生活のあてはまったくなかった。さいわい子供はいないし、体力には自信があった。食えない時には、ラーメンの屋台をひっぱるつもりだった」(『マスコミ評論』’75・11)

 この話のなかには、部外者にはわかりにくい所があるだろう。とくに、「原稿料収入が月給の二倍近くにはなっていた」とあるのに、なぜ、「屋台をひっぱる」決意が必要なのか、というあたりだ。

 ひとつの答えは、すでに紹介した話。NHKとフリーランスの関係に象徴されるものだ。大手紙の記者という“身分”を失えば、取材も困難になる。もう一方には、「サンケイ文化部」などと末尾につけ加えることが、それまでのアルバイト原稿掲載誌の注文でもあったはず。つまり、名の売れた評論家に書かせる代りに、名の売れた新聞社の社名と抱き合わせで、安い原稿料の記事を確保する出版社がある。そして一方に、低賃金に押えている手前、アルバイトに目をつむる新聞社があったのだ。それが、いまのマスコミ“体制”の一端である。その“体制”からはみ出した“元記者”には、場合によれば、「アカ」のレッテルはりによる業界からの排除さえやりかねない。しかも、書き手同士の競争も激しいのだ。

 こういった状況が、放送担当の新聞記者をも取り巻いている。余程の実力がなければ、ポイと辞表を投げつけるわけにはいかないのだ。だから、ついつい“第一記者クラブ”の身分に安住してしまうことにもなる。“スト破りアナ”の飯田次男を増長させた“封建的”支配関係には、それなりの歴史的構造があったのである。

 それにしても、「おまえらはできた番組だけを批評してりゃそれでいいんだ」とは、よくもいったもの。この台詞に飾り枠をつけて、NHK内の記者クラブの壁にでも張り出しておけば、毎日腹を立てて、よい記事を書く励みになるのではなかろうか。NHKはおそらく、“個人的発言”といって逃げきったのだろう。しかし、この暴言で引責辞職したはずの飯田次男が、「顧問」として遇され、仕事もせずに高給をむさぼり続けていたのだから、NHKの体質は許せない。


(3-3)郵政省詰め“波取り記者”とNHKの微妙な関係