『電波メディアの神話』(3-4)

第一部 「電波メディア不平等起源論」の提唱

電網木村書店 Web無料公開 2005.4.6

第三章 内務・警察高級官僚があやつった
日本放送史 4

関東大震災の内務省「虐殺コンビ」が陰の仕掛け人

 しかも後藤の社団法人東京放送局総裁就任には、それ以上の背景があった。

 歴史の底流には不気味なつながりがある。今でこそ露骨なタカ派ぶりをしめすものの、関東大震災で社屋が半焼するまでは進歩的だった読売新聞に、なんと、元警視庁警務部長の正力松太郎が政財界挙げての支援をうけて社長としてのりこんだ。この新社長が陰に陽に内務警察高級官僚の先輩や財界のあとおしをうけながら、ラディオ放送発足の裏舞台で微妙な役割をはたしていたのだ。

 結果からさきに整理しなおすと、日本最初のラディオ放送局として社団法人東京放送局が発足したとき、初代総裁に就任したのは元内務大臣の後藤新平だった。後藤を総裁に推薦したのは、正力松太郎の晩年の自慢話によれば、ほかならぬ正力自身だった。正力は、その一年前の虎の門事件(皇太子襲撃未遂)で警視庁を引責辞職し、読売新聞社長に就任したばかりだった。

 時代背景を確認すると、ロシア革命がおきたのが一九一七年(大正六)である。

 ロシア革命に干渉するシベリア出兵に端を発して米騒動がおき、白虹事件を誘発した。その後始末として「不偏不党」の字句が朝日新聞の編輯綱領にはいったのが一九一八年(大正七)である。

 すでに指摘したように、新しいメディアとしてのラディオが実用化されたのは、戦争と革命の時代の真只中であった。この出生時の時代背景はラディオの政治的性格として刻印されている。

 東京放送局の設立は一九二四年だが、暮れも暮れのおしつまった十二月二十九日である。試験放送開始は翌一九二五年三月二十二日、本放送開始は同年七月十二日である。同年一月十日に社団法人名古屋放送局、同年二月二十八日に社団法人大阪放送局が発足し、一年間だけの「三局時代」をへて、翌年の一九二六年には公益法人日本放送協会に統一される。日本のラディオ放送の開始は、一九二五年(大正十四)として考えればいい。

 ラディオ放送の法律名を「無線電話」としるした無線電信法は、放送開始の十年前の一九一五年に制定されている。そのあとにロシア革命がおき、日本国内でもシベリア出兵を契機とした白虹事件がおきる。以後、隣国の社会主義革命を目前にみながらの日本の天皇制警察権力による弾圧があいつぐ時代にはいるのだが、日本ではラディオ放送がはじまるまでに、もう一つの大事件がおきていた。一九二三年九月一日の関東大震災である。

 正力は後藤の死後、なみいる諸先輩をさしおいて、われこそは後藤新平の衣鉢をつぐものなりと自称しだした。たしかに、この二人は関係があった。とくに重要なのは、二人とも関東大震災のかげで暗躍したことだ。

 ロシア革命から六年後の一九二三年に、関東大震災が首都東京をおそうという異常事態が発生した。ときの権力は、この天災(奇禍)をかえって奇貨として、反政府的な傾向をつよめつつあった朝鮮人、中国人、社会主義者への一斉弾圧に利用した。震災が首都をおそった直後に官邸の庭で「対策」を協議した内務大臣は、後藤であった。

 正力本人談によると、米騒動の鎮圧で「蛮勇を奮った」正力を、後藤はまず警務部長に昇進させ、「呼びつけて」は「政治関係のことをやらせる」のだった。正力は、自分が後藤の腹心の部下だったと告白し、それを世間に売りこんでいる。関東大震災の際、警視庁の実務の中心にあって戒厳令下の軍と協力し、警察部隊の指揮にあたったのは、当時は官房主事の正力であった。正力はこの直前の六月五日にも、第一次共産党検挙の指揮をしたばかりである。


(5)新聞社側と実業家側が競合中に正力が読売乗りこみ